ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




ブルースというものが、この世に存在してくれていて、ほんとによかったです。

僕は、突き詰めた人間などでは全然ないのですが、

でも、ブルースがなければ、プロにはなって(なれて)いなかったと思います。

そもそも、子どもの頃、僕が「かっこいい!」と思っていたフィーリングの多くが、ブルース由来のものだったのかもしれません。

生まれたときから耳にしていた昭和40年~50年代の歌謡曲にも、小学生で夢中になったゴダイゴにも、ビリージョエルにも、高校時代にコピーバンドをしていたHOUND DOGにも、大衝撃だったVOWWOWにも、もちろん、キースジャレットにも、そこかしこに、ブルースのにおいがあります。

もちろん、ブルースだけが好きなわけではありませんし、ブルース色のない音楽も、かっこいいものがたくさんあります。

 

でも、ブルースのにおいがすると

 

「おっ

 

と思ってしまうのです。反応してしまうのです。

 

でも、淡谷のり子先生の曲につくブルースは、あれは音楽的には、ブルースとは別のものですからね。

雨のブルース ~ 別れのブルース ♪ 淡谷のり子 (1978、1970)

うーむ。昭和だー。なんだか、涙でそうになります。

別れのブルース 淡谷のり子

でも、発売時1937年(淡谷先生30歳)のお声はまた、違うのですね。

1937年は、第二次世界大戦の開戦の前々年、日中戦争勃発の年です。

「スターダムへ登りつめる。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷(あお)り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。その後も数々の曲を世に送り出し名をとどろかせる(なお、この頃のバックバンドのメンバーには日本のジャズの父と言われるティーブ・釜萢がいた)。」(Wikiより)

ティーブ・釜萢さんは、ご存知、ムッシュかまやつさんのお父さんです。

 

戦時中は…

戦時下で多くの慰問活動を行い「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。

「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」といった行為の結果、書かされた始末書は数センチもの厚さに達したとのことである。

という。

夜のプラットホーム 淡谷のり子

この曲、かっこいいです。1939年の作品です。

でも、戦時中の発売で「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞があるとして、戦時下の時代情勢にそぐわないと検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。」そうです。戦後、1922年に、二葉あき子さんが歌って、ヒットさています(オリジナル 、1995年の生歌唱映像)。

さらにお宝がありました。Youtubeって、次々にこういう音源が見つかるところに関しましては、本当に素晴らしいです。

私此頃憂鬱よ 淡谷のり子

昭和6年、淡谷先生24歳の時の”古賀メロディー”によるです。

「昭和6年に大ヒットこの曲で一躍流行歌手の地位を確立できた。その反面クラシック声楽­家としての東洋音楽大学の学籍を末梢された」

「淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された」

とあります。ちなみに、この母校、東洋音楽大学とは、

現・東京音楽大学です。

なんとなく、皮肉なものがありますね。

 

いやはや、音楽は、実在するタイムマシンですね

 

ではー。



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