旅の記録の最後に、まだ、ここまでお話していなかったことを書いておきましょう。
今回、僕たちは、音楽を届けに行きました。
前にも書きましたが、「今、被災地で、本当に音楽など必要とされているのか」
これは、ずっとずっと、思っていたことでした。
衣・食・住。
人間が生きていくのに最低限必要な、これらが未だ整っていない状態で、行き届いていない環境で、
果たして、「音楽します」と、家も着るものも食べ物にも困っていない東京から出向いて行く僕らが、
受け入れてもらえるのだろうか。実際に、喜んで聞いてもらえるのだろうか、楽しんでもらえるのだろうか。
いや、万が一、誰にも聞いてもらえなくても構わないけれど、
・・・そもそも、“迷惑な人たち”になってしまうのじゃないのだろうか。
何があっても、迷惑だけはかけたくないよね・・・、そんな気持ちが、三人の心のどこかに、ずっとあったと思います。
でも、行くと決めたからには、ちゃんと行って、しっかり演奏しよう、音楽を、歌を、届けよう。
結果は、あとから付いてくるさ。
とにかく、少しの時間でも、楽しんでもらえるように、できることをやろう。やってみよう。
そんな気持ちでした。
ライブは、最終的に四ヶ所ですることができました。
保育所、中学校、お醤油工場の方たちへ向けて、一時的にお借りした近所の商工会議所の会議室、そして、避難所になっている体育館。
これら、何処へ行くにも、瓦礫と壊れた建物の中を走ってゆきました。
今、僕たちが住んでいる街では、コンビニやスーパーに入れば音楽が流れていて、
洋服屋さんや、喫茶店や、ご飯屋さんや居酒屋に入っても、音楽が流れています。
日常に、当たり前のように、音楽があるのです。
でも、今の陸前高田には、音楽が流れているどころか、そもそも、そういったお店が、まったくありませんでした。
あったのは、
トラックを改造して営業していたお弁当屋さんと、
仮設のプレハブで作られたお店が一軒だけでした。
ちなみに、こちらのお店には冷房はなく、一歩中に入った途端、むわっとむせ返るような暑さがしていました。
いわゆるスーパーの代わりですから、野菜や乾物などと一緒に、冷凍食品や、アイスクリームのマシンなどもあり、熱を出すのですよね。
でも、冷房がないのですから。しかも、夕方でこの暑さなら、昼間は、蒸し風呂のようではないか、と想像できました。
それでも、僕たちが行った時、5人いた店員さんたち(おそらく地元のパートの方では)が、
皆さん笑顔で「いらっしゃいませー!」と、次々にやってくるお客さんを、とても元気に迎えていたのが印象的でした。
こうして、現地で、何かものを売ることができ、住む人や訪れる人がそのものを買うことができ、
生活を継続していくことが、復興への太い道になることは間違いないと思いました。
少し横道にそれましたが、続きを書きますね。
最初に訪れた今泉保育所(建物は長部保育所)では、2歳児~5歳児くらいの20人くらいと、先生たちを前に演奏をしました。
(演奏中の写真や演奏曲目は、トミちゃんのダイアリーをご覧下さい。)
左から、トミちゃん、トミちゃんのNYでの友達で、陸前高田市出身のジャズシンガーのヨウコちゃん(今回、11年ぶりに帰郷とのことでした)、
ヨウコちゃんの子どもで、先日僕の家にも遊びに来てくれたキアナ(9歳)、そして、ゴローくん。
ライブ直前の、打ち合わせでの一枚です。子どもは、いつでも無邪気でいいですね。ポジティブの塊です(泣く時とか、兄弟喧嘩の時は凄いですけど)。
どの会場でも、着いたら、ちょっとしたスピーカーとミキサー(僕の私物)にマイクを刺したりして用意する時間が15分~20分ほど。
リハーサルなどは一切する時間はなく(授業中だったり、お仕事中だったりで、音が出せない、というのもありました)、
スピーカーから音が出るのを確認したら、もう、そのまま本番、という流れでした。
曲順などは、それぞれの会場に向かうクルマの中で決めていました(また、本番中に、雰囲気を見て曲目を変更したりもしてました)。
先の心配を胸に、半ば「もう開き直ろう。やるしかないんだし。」と、いざ始まってみれば・・・・。
子どもたち、そして先生たちの笑顔。一緒に歌ってくれる、可愛くて大きな歌声。
「・・・良かった。」
もう、その一言につきました。そんな安堵感もあって、子どもたちが僕たちに向けて歌ってくれた「たなばたさま」の時には、思わず涙がこぼれそうになったのです。
そうそう、その時に伴奏の為に譜面を持ってピアノのところに来た若い女性の先生が「・・・うわー、私、プロの前で弾くの(笑)!?」って、僕の顔を見て笑ってくれた時には、僕もとっても和みました。
「いえいえ、とんでもないです!・・・ガン見して勉強させてもらいますので、ささっ(笑)。」と言って席を立ったら、「ひゃー」って。
最後に、園長先生が「“物資”と言う言葉は、もう皆さん覚えたと思いますが、今日は、こちらの方々から、“心”という贈り物を頂きました。心というのは、カタチには見えませんが、とっても、とっても大切なものです。」と、小さな子どもたちに語りかけられ、聞いている僕たちがジンとしてしまいました。
そして、子どもたちの可愛い声で「ありがとうございました!」と元気に言ってもらって、また感動。思わず僕たちも「ありがとうございました!」と頭を下げました。
そして、僕がピアノを弾いて、子どもたちをお昼に送り出して(僕が勝手に弾いたんですけど、先生が「わー、伴奏付きだねえ。良かったねえ」って拾ってくれたです。嬉しかったなあ。)、
ともあれライブは、大成功(だったと思います)。
大活躍だったヨウコちゃんやキアナを送り出し、最後に、遊戯室に残った僕たち三人だけで、
思い出に、一枚。
本当に、三人とも、色々な意味でほっとした表情です。
こんなものも、置いてきました。
そして、気仙中学校へ。
校舎は、被害をまぬがれた、矢作中学校のものです。
気仙中学校と書かれたこの板は、津波で流され、14キロもの沖合いで見つかったのだということです。
なんと。
恐縮であります。
廊下には、近隣の学校から寄せられたメッセージや、書道家の武田双雲さんからのメッセージがありました。
本番直前。僕たちは、この楽屋として使わせて頂いた図書室で、生徒さんたちが吹き抜けのホールに集ってくれるのを待ちました。
この日は、午後の授業の最初の一時間、休講にして、全校生徒で僕たちのライブを見る時間に当ててくれるのだとのこと。
緊張です。
大切な授業に匹敵する、価値のある時間にせねば、と。
そして、こちらでも、ライブは成功しました。トミちゃんは「子どもたちが楽しんでくれたの、感じたよ」って嬉しそうに言ってました。
僕は、なんと言っても後ろ向きでしたので、反応は全て背中越しでしたが・・・でも、音楽の先生を差し置いて弾いた「夢の世界を」という合唱曲のピアノ(初見・・・(汗))に、
ちゃんと生徒さんたちの歌声が乗っかってくれた時には、感動で頭が真っ白になりました。
ただただ、無心にピアノに向かえた素晴らしい時間でした。
地元の新聞に載った記事はこちらです。
(この新聞、陸前高田で警察官をしている従兄弟も、たまたま署でこれを見てくれていたそうで、
「これ、ケンちゃんですよね!」と、避難所までコピーを持ってきてくれました。)
そして、こちらにも一冊ね。
ライブの途中、マイクを借りて生徒さんにもお話させてもらったりもできました。
「音楽室においてもらうから、休み時間にでも読んでね。いつか、また一緒に音楽しましょうね」と。
最後に、
学年ごとに、記念写真を撮りました。撮影して下さったのは、学校の先生です。
「ほらほら、〇〇、こっち向けー」なんて言いながらの(なんか、とっても懐かしかったです)、楽しい時間でした。
そして、翌日の一関の商工会議所でのライブですが、この時は、本当に時間がなく、
会場(会議室)での写真が唯一この
一枚だけなのです。ライブの時の様子などは、トミちゃんのダイアリーでご覧くださいませ。
こちらは唯一、生ピアノが無かったので、支援物資として気仙中学校に送られてきたデジタルピアノをお借りして、それを持ちこんでの演奏でした。
こちらでは、陸前高田で200年続いている、「八木澤商店」というお醤油屋さん(お味噌なども)の工場で働く皆さんの前で演奏をしました。
歴史ある工場は、津波で壊滅。かろうじて救出された醤油は、避難所に無償で配り(これは、全国ニュースにもなったそうです)、
さらに、社長さんである河野さんは、一人の解雇者も出さず、会社を存続させ続け、
震災後に跡を継いでくれた息子さんのもと、一関市で新たに工場を稼動させ始めたところなのだそうです。
そんな皆さんの、お仕事の合間のお昼休みに、僕たちは演奏をしたのです。
(八木澤商店さんのサイトのトップに、この日集まってくださった皆さんの笑顔が見れます。)
こちらでも、本当に貴重な体験をさせていただきました。
今回の旅では、どこのライブもそうですが、普通にコンサート会場などで演奏をしている限り、体験しえない体験をさせて頂きました。
ライブ後、こちらで働く方に、「最初にピアノが鳴った瞬間ね、もう涙がでちゃって。そして、歌が聞こえてきて、また涙。」
なぜか、というお話もして下さいました。
「あれからね、ずーっと頑張ってきたのね。『私、頑張ってるなあ』って自分でもわかるくらい、本当に皆で頑張って、毎日、毎日過ごしてたのよね」
「そして今日、あれから初めて、音楽を聴いたの。そしたら、もう、バーッと涙が溢れてきちゃって」
「『ああ、私は、こうやって、音楽を聴いていいんだ。楽しんでも、いいんだ』って思えたら、ものすごく泣けてきちゃって」
こう仰ったのです。
音楽、やってて良かった。
今回、こうして岩手に来て本当に良かった、と思えた、こちらがスーッと救われたような気がした瞬間でした。
こちらの皆様にも、ね。
この後、近所の定食&ラーメン屋さんで、今は会長さんになられた河野前社長さんに、お昼をご馳走になりました。
色々なお話を伺えて、これまた貴重な時間を過ごさせていただきました。
ご飯、とっても美味しかったです。
先ほどのお話をしてくださったのは、こちらの青い制服を着た女性の方たちでした。一番左も工場の方です。
一番右の方は、場所を提供してくださった、こちらの商工会議所の副所長さんで、
帰りしな名刺を下さり、「東京に帰ったらメールちょうだいね。返事書くからね。」と仰っていただいたので、
ご挨拶のメールをさせていただきましたら、本当にご返信を頂きまして、
実はあれから、何度もメールのやり取りをさせて頂いているんです。
復興に向けて、皆さん、必死で頑張っておられます。
僕も、これからも、何か協力できることを積極的に見つけていきたいと思っています。
そして、最後のライブ会場であります、高田第一中学校の体育館へ。
これは、前日に突然決まった話でした。
こちらの中学校は、ヨウコちゃんの出身校。
そして、トミちゃんは個人的に、愛知の自分の母校の後輩にあたる生徒さんたちに呼びかけ、
募金を集め、団扇を作って、今回、こちらの学校に贈る、ということを考えていたのです。
(この経緯など、布袋中学校のホームページでも紹介されています。)
学校は、今、運動競技会へ向けての準備の真っ最中で、残念ながらライブの時間がとれず、
なので最初は、団扇の贈呈式だけの予定でした。
しかし、お手伝いと、そして翌日の贈呈式の段取りの打ち合わせに訪れた際、こちらの校長先生が
「明日、避難所の方で演奏されてみてはいかがですか?皆さん、喜ばれると思いますよ」と仰ってくれたのです。
そして、
こちらの避難所の本部へ案内され、担当者の方とお話をして、「では、明日、14時半からお願いします」と、
決まってしまった話なのです。
実際、この前には、僕たち三人は、避難所で、衣類の仕分けと、ダンボールなどのゴミ捨てなどのお手伝いをさせて貰っておりました。
避難所の様子は、前にも書きましたが、本当に、テレビなどで皆さんが目にするままの、プライバシーの無い、大変に辛く見えるものでした。
固い床にビニールシートを張り、卓球のボール・フェンスで仕切られただけのスペース。勿論、冷房などありません。
開け放たれた三方の扉からは、暑い熱気が、申し訳程度の風と共にはいってくるだけ。
それぞれのスペースには、支援物資と思われる四角い扇風機(送風機)が一つずつありました。
おばあさんが、背中を扇風機にぴったりとつけるようにして、どうにか過ごされておりました。
ぐったりと横になって目を閉じておられる方、一つのスペースに集まって、汗を拭きながら世間話をされておられる方々。
お手伝いの途中には、
「皆さん、ただ今、市役所より氷の差し入れがありました。こちら、中央に置いておきますので、ご自由にどうぞ!」
と、避難所を管理されている方による、マイクを使ったアナウンスがありました。
すると、それぞれの場所から、皆さん、ゆっくりと起き上がり、氷を取りに来られるのです。
僕たちが仕分けをお手伝いしていた、体育館のステージにも、ふとおじいさんが、
「何か、夏物のシャツはないかい?」
と上がってこられました。悟郎くんが「あ、そっちのダンボールに、ポロシャツが二枚ありました」と言って取り出すと、
「ああ、じゃ、それ頂いていくよ。ありがとう。」と、ステージを降りていかれました。
今は、子どものいらっしゃるご家庭は、皆、仮設住宅に入っていて、残っているのは、身寄りの無い方などだそうです。
皆さん、ここで、もう四ヶ月以上も、生活をしておられるのです。
支援物資の積み上げられた出入り口付近。
廊下は、広く整理されておりました。左手側のトイレの先を曲がると、避難所になっている体育館でした。
肝心のライブですが、これは、一生の思い出に残る体験になりました。
トミちゃんは「皆さん、お休みのところ、申し訳ありません。東京から歌を歌いにやって来ました」と、切り出しました。
僕たちは、必死で演奏しました。
暑かったです。一曲弾くだけで、汗が滝の様に流れます。
でも、とにかく、一生懸命、演奏しました。トミちゃんも、ヨウコちゃんも、キアナも、素晴らしい歌を歌ってくれました。
終わった後、一番前のパーティションにいたおばあさんに「うるさくなかったですか?お騒がせしてすみませんでした」と言うと、
「いえいえ!大好きな曲が聴けて、本当に良かったわ!楽しかったわ!ありがとう!」と、満面の笑みで喜んでくださったのです。
ライブ中には、他の皆さんも、パーティションから起きて出てきてくださって、めいめい、折りたたみ椅子を出してきて下さったりして、皆さん、じっと聴いてくれたんです。
そして、曲が終わるやいなや、大きく拍手をしてくれたり、最後には、「ありがとー!」と声をかけて下さった方もいらっしゃいました。
音楽って、素晴らしい!
では、もう少し、こちらの様子を。
避難されている方と、生徒は、トイレや手洗い場など、一部を一緒に使っています。
地域の皆さんが、共存していました。
学校は津波の被害はまぬがれましたが、このように、土砂崩れを起こしていたりしていました。
校庭だったところには、仮設住宅が建てられています。
そして、生徒さんの中には、学校が終ると、この仮設住宅に帰る子もいるのだそうです。
この仮設住宅ですが、色々と問題も多いそうです。
まず、継ぎ目などに隙間が開いてしまっていて、今、問題になっているハエが入ってきてしまう。
また、これは先ほどの気仙中学の先生に伺ったところですと、
「カエルが入ってきちゃう」
「寝てると、足に10匹とか、小さい青ガエルがくっついてるんです」
とのこと。
そして、
「蟻も入ってきます。しかも蟻は、いくらテープなどで目張りをしても、入ってくる」
「なので、子どもたちには『蟻は気にするな』『いても無視しなさい』と言っています。」
こういう状況だそうです。
昨日のニュースですが、
「陸自、陸前高田を撤収 園児ら感謝状と歌で送別 岩手」
というものがありました。写真の隊員の方や子どもたちの笑顔が印象的です。
しかし、僕たちがライブをさせて頂いた長部保育所の向かいにある、長部小学校は、今も遺体安置所になっていて、
僕たちがあちらに着いた12日にも、新たに一体、ご遺体が発見され、この小学校に安置されたのだと聞きました。
気仙中学校で演奏を聴いてくれた八十数名の生徒のうち、七十数名は、家を失った子たちでした。
八木澤商店の方々も、やはり殆どの方が同様に家を失い、また、半数に近い十数名の方が、肉親を失ったということでした。
お昼をご馳走してくれた河野会長さんも、冷やし中華をすすりながら「・・・まだ、妹が上がってこないんだよ」、と仰っていました。
「でも、瓦礫の泥の中から、奇跡的に密閉された状態の“麹”が見つかってな。ああ、これは『まだ、やれ』ってことなんだな、って。」とも。
「2~3年かかるけど、またあれを元に、うまい醤油作るよ」と。
この老舗の醤油は、今後、全国のイトーヨーカドーなどでも流通する予定だそうです。僕も、買います。
震災から、四ヶ月が過ぎ、例えばテレビなどは、ほとんど通常運転になっていますが(ちょっと信じられない思いです)、
現地は、本当に、これからです。
校長先生と。
なんか、無理やり本やらを持たせたような写真になってしまっていて、すみません。そういうつもりではなかったのです。
音楽室の端っこにでも、置いていただければ、と思ってお渡ししたまでなのです。
とっても優しい校長先生でした。貴重な体験をさせて頂きました。
この歳になって、こうして学校の先生に教わる(今回は、実社会というものを)というのも、なんだか不思議で、でも、ありがたいものだと思いました。
どうもありがとうございました。
そして、
なんだか、まだまだ書き足りないような気もしていますが、
今日で、一旦、旅の記録は終わりにします。
また、何か思い出したら、書きます。
ここまで、読んでくださって、本当にどうもありがとうございました。
色々な思いをお持ちになられたかもしれません。
でも、できることなら是非、臆することなく、言葉にして、行動にして、
被災された方々と一緒に、手を取り合って、また、新しい日々を、日本を、作り上げてきましょう。
最後に、
岩手の美味しい野菜を、たらふく買い込んだ悟郎くんと、食いしん坊でした。
撮影はトミちゃん。
今回の旅のこと、出会えた人々、目にした光景、そして、ここで一緒に演奏した二人のことを(そして勿論、ヨウコちゃん、キアナのことを)、僕は一生忘れません。
ではー。