今日の夕方も、激しい雨が降りました。
降り出してすぐにクルマに乗り込むことが出来たのでまだ良かったのですが、外を見ると、びしょ濡れの人が沢山。傘なんて、ほんの気休め。あんな雨じゃ、ほとんど役に立たないですよ。ほんと、うらめしくすらなりますよね。
雨のせいか、幹線道路が混雑しておりましたので、裏道へ。しかし、こちらも、渋滞。なんとなく、クルマの中からあたりを撮ってみたりしていました。
突然の雨に顔をしかめたように、一人のおばあさんが行き過ぎました。最近、お年寄りを見ると「この方もきっと、どこかで戦争を体験されたんだよな」と考えてしまいます。
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昨夜、以前見損ねていたので、27日の再放送を予約録画していたNHKスペシャル「解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」を見ました。
原爆が落ちた直後の長崎を撮影したカメラマンが、戦後43年もの間封印していた写真を公開した経緯とその後を追ったドキュメンタリーです。
もっとも有名な一枚があります。
「焼き場に立つ少年」、などと題されることが多いと思います。長崎で撮影されたものです。
背中に背負った彼の弟は、死んでいます。そして、彼は、直立不動の姿勢で、火葬のための順番を待っているのです。足元には、その順番待ちの為でしょうか、敷かれた線が見えます。
撮影者のジョー・オダネル氏は、この写真にこうコメントを残しています、
「焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じつと前を見続けた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。
その時私は、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついた。少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいた。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。
この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。」
オダネル氏は、70歳を前にして、突然、これらの写真を公開し、「原爆投下は間違いだった」、と声を上げました。
しかし、今ですら「あれは正当な攻撃だった」と信じるアメリカ人は多いのです。昨夜見た番組内でも、「原爆を落としたことには、なんの後悔もないね」と笑ってみせた退役軍人のインタビューがありました。
従軍カメラマンとして働き、その後ホワイトハウスで4代にもわたって大統領付きのカメラマンまでしていたオダネル氏。突然、原爆投下の誤りを指摘した彼は、アメリカ中から非難されます。
「非国民だ!」と。
オダネル氏は、真珠湾攻撃を知り、日本が憎くて、「あんなやつらやっつけてやれ!」と、愛国心にかられて軍隊に志願しました。普通のアメリカの青年だったわけです。
しかし、戦後43年経ってこの写真を公開したことで、非国民として同じアメリカ人から非難を浴びます。
日本では戦中と戦後をはっきり色で分けて考えられるほど、考え方が変わっています。良くも悪くも。
そんな僕たちからしたら、ちょっと考えられないことかもしれませんが、アメリカは・・・あの時も、今も、そんなに変わっていないのです。本土を一度も攻撃された経験が無いということも、もしかしたら関係しているかもしれませんね(言ってみれば、9・11が初めての「本土攻撃」だったのです)。
オダネル氏は、残されたインタビューの中でこう言いました。
「私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし、国の為に戦った。退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩き、悲惨な状況を見たのだ
確かに日本軍は中国や韓国に対して酷いことをした。しかし、日本の子どもたちが何かしただろうか。戦争に勝つために本当に彼らの両親を殺す必要があっただろうか。
1945年のあの原爆投下はやはり間違っていた。それは100年経っても間違いであり続ける。絶対に間違っている。歴史は繰り返すと言うが、繰り返していけない歴史もあるはずだ。
私は、母国の誤りをなかったことに出来なかった。」
ひどく真っ当です。誰もが、頷けるはずです。
しかし、そんな彼は非難する投書が、毎日のように新聞に掲載されたのだそうです。嫌がらせの電話や手紙も相次いだそうです。写真の出版を頼んだ出版社は、まわった35社全てが出版拒否。写真展の開催を求めても、どこのスペースからも許可がおりなかったそうです。それでも声を上げることをやめようとしない夫。理解に苦しんだ奥さんは二人の子どもを残し、離婚して家を出てしまいます。原爆によって、・・・ここでも一つの家族が崩壊したわけです。
ある日、新聞を見ていた娘が、父にこう言いました。
「ねえ、ここに、一通だけ好意的な投書があるわ」
見ると、
「オダネル氏を批判する人たちへ」
と題して、
「批判するなら、・・・まず図書館に行って原爆がどういうものだったのか少しは調べてから批判しろ!」
という投書があったそうです。そして、その投稿人の名前を見ると・・・そこにあったのは、彼の息子の名前だったのです。
僕は改めて、思いました。
アメリカ人は、本当に、知らないんだ。
ほんとうに、僕たちが思っている以上に、知らないんだ、と。
よく「アメリカ人は、アメリカ以外の国があることすら、実は良く知らない。」などと言われますが、遠く離れた小さな日本の小さな都市に落とした爆弾のことなど。
彼らは今でも、原爆に対する正しい認識ができないでいるのです。一部の人は勉強もしているでしょうが(それこそ「図書館に行って」ね)、でも皆がみんな、興味を持って調べているわけはないですし、ましてや広島や長崎に足を運ぶことは無いでしょう。日常的に、原爆について考える場所も、時間も、そもそもそんな考えも、無いでしょう。
しかし程度の差こそあれ、僕たち日本人とて、決して遠からずなんですよね。・・・「まったく彼らは」などと一概には言えないのではないでしょうか。
ジョー・オダネル氏は、日本へも何回も来て、写真展を開いたり、講演をされていましたが、原爆症と思しき病に苛(さいな)まれ、昨年夏、亡くなりました。奇しくも、8月9日(現地時間)、・・・あの長崎に原爆が投下された日に。
一人、また一人。
こうして世界中から、どんどん・・・体験者が、居なくなっていくんですね。
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写真と共に父の意思を引き継ぎ、核廃絶と平和への訴えを続けているジョー氏の息子のタイグ氏のMySpaceにて、ジョー氏が撮った写真が見られます(注:接続すると音楽が流れます)。左上のプロフィール欄(HN:The Phoenix Venture)の「写真」>「標準のアルバム」。
当時の日本人の姿を垣間見れるという点でも、とても貴重なものだと思います。是非。
また昨年、オダネル氏について、「カメラの記憶」というトラックバックを頂いております。実はこの写真、僕はこちらのブログで拝見したのが初見でした。きっかけを、ありがとうございました。
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では。