稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.35(昭和61年11月14日)花嫁のかんざし(続き)

2018年12月08日 | 長井長正範士の遺文


まくって見せてくれなきゃ、わたしの眼が直らないんだよ。

とこれ又拝むように頼むので、嫁はこうすることでお母さんの眼が直るんなら仕方ない、
新婚早々夫にもまだ見せていないお尻を、死ぬ思いでまくってお見せしましょうと、
わなわなふるえる手足をぐっとこらえ、くるりと腰巻をまくり上げ、
あわれ真白な丸いお尻を姑にむけて四つんばいになりました。

姑はよろこぶまいことか、早速花嫁のかんざしの先についてある耳かきで、
粉薬を一杯すくって、なんとあられもない嫁のお尻の穴へ、
その粉薬を突っ込もうと懸命です。

然し眼が悪いため、必死になって眼をむいて、お尻の穴を探し乍ら、
ようやく眼の前に見つけ、その穴に粉薬を突っこもうとしました。

嫁は恥ずかしいやら悲しいやら、こそばいやらで、
こみあげる嗚咽をぐっとこらえようとした途端、
お尻や足の温度も冷えたのも加わってか、思わずプッとおならをはずしました。

するとその空気の圧力で、すんでの所で粉薬を肛門に入れようと
眼を一杯に見開いた姑の眼へ、パッと勢いよくその粉薬が入りました。

それで姑の眼も直ったと言う話です。

なんとおかしな話ですが、実はこのお婆ちゃん、
耳が遠く、眼医者さんが、花嫁のかんざしの耳かき一杯の分量の粉薬を
自分の目尻へさせよと言ったのを聞き違えて、
花嫁の尻へさすものと思い込んでやった笑い話で、
花嫁のあられもない犠牲で、おなら一発で眼が直ったという言うことですが、
神や佛ががこの花嫁の真心のこもった孝養にめでて、お助けしたと言う話です。

然しこれは全くの作り話で、
真心こもった誠をつくした親孝行が如何に大事なことかを教えるのに
一度聞いたら一生忘れることの出来ない愉快な作り話をして
昔は孝養の道を教えられたのである。

これに反し現代に思いを致しますと、
子供に親孝行せよと言うだけで、何んの事例もなく、
なぜ孝行をしなければならないのか、理解しようがしまいが、言い放しで、
やれ勉強せよ、やれ早よ塾へ行かんか等々、
一方的な物の言い様は大いに反省しなければならない。

成程現代の世相は昔と違い、誠に目まぐるしく、
複雑多難ですが、歴史は必ず繰り返しています。
ですから余計古きをたずね、新しきを知らねばなりません。

私は時折り各地方を巡回し、こんな話のようにいろいろな例え話をし乍ら
少年や父兄に剣道は誠と真心の表現でなければならないこと。
又、親を見れば子が判る。子を見れば親が判ると言っております。

道場の躾と家庭の躾と相俟ち(あいまち)真心をもって
少年を善導育成してゆかねばならない責任が私共にあると言っていおります。
「至誠は神の如し」誠こそこの世の中での最大の力であります。

○剣道には教えが無い。指導である。
師たる者は自ら率先垂範(そっせんすいはん)して、
このようにやれよと弟子を導いてゆくのである。

昔、道場の先生を指南役とか指南番と言った。これは中国から入った言葉で、
北京の大通りの四ツ辻の真中に南を指さすものを置いてあった。

この地方からこの町へ来た人々は南を指さす標示を見て、自分の行く方向を知った。
この黙って南を指さすところから、黙ってこの方向へ行けよと
導く剣道の師範を指南役と言ったように、口でべらべら喋って教えるのではない。
あくまで弟子に自分のように上達せよと身をもって導くのである。
コメント
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