になる素材を選び出すことは容易なことではない。
如何に技前に秀でた立派な剣道であり、強くもありする人であっても、
大自然に接してその中から成生躍動する大生命の息吹きを感じとる底の
「禅味」を体現している人でなければ、こうした芸当は出来ないのである。
今のところ先生は約三百本の名刀を世に出したいと申されているが、三代後、十本は残るだろう。
三代後の人がこの竹刀を見て、剣道とはかくなるものかと理解して下さる人が一人でも出来ればよい。
その一人を得るために、三万本の中から三百本の竹の名刀を創造するのである。
誠に剣道を愛し、遠慮することかくの如しである。
最後に井上監督と森寅雄氏に贈呈した名刀を拝見したときの私の感想を述べて、
竹の名刀たる所以(ゆえん)を記してその趣意とする。
五、如何なるか是名刀
学生剣道渡米も間もない或日のこと、井上マーチャンこと在米の森寅雄氏に贈呈する
快心の名刀が出来たから見せましょうと言い乍ら床の間に立てかけてあった四本の竹刀を
目の前に置かれた時は正直なところ何か一大公案を提出されたような気がした。
事実目前の竹刀が問うている。「如何なるか是、竹の名刀」と、
そこでこの竹の名刀に直参してみるに、
一、相がよい。
胴張りから物打の方をじいっと喰い入るようにみつめてみると実にたまらない感じがする。
胴が豊かに張りをみせ、手元強く、何処でどう削り落としているのか
中程は実に「ため」がきいて調子がよい。
そのためか切先の物打のところで、ひときわぐんと引締まっているので、
打が「ピシリ」と極まる威(チカラ)を備えている。
全体を眺めてみれば品あり、位あり、威あり、その上実に豊かさがあって王者の風格と貫禄がある。
「我は無限の冨者なり、心の王国の王者なり」の自覚のもとに生活しているものでなければ
一本の竹刀に王者の風格と貫禄とを表現することは出来ない。
我は無一物中無尽蔵の在りに住し、山上に月あり、花あり柴あり、
谷に大根なすびあり、谷深くして水絶えざるが如く大福田を有して花蝶風月を友として、
大自然の交響楽を窓越しに聞きゆうゆう自適している者の境涯でなくしては
大々名の風格や王者の貫禄をその作品に現わすことが出来ない。
まことに、まことに、林間の道場最もよしと剱の妙所に安住している者にのみ、
こうした芸当が出来るものであろうと思われる。
二、国宝級の仏像から受ける円満寂静さを具備している。
相手を生かすことによって自分も共に生きる相手と共によろこび、
共に楽しむのが、剱の本性となるが故、角ばったものであってはならない。
竹質が余り堅からず、やわらかならずして弾力に富んだ
京都の八幡の三年竹が最良とされているようであるが、
こうした良質の素材を生かして丸く且つ円く実に円満なる相に仕上げている。
この一点特に作者の苦心がうかがわれる。
如何なる是慈悲の剱道という公案を竹に托してものの見事に解決している。
作者にとっても快心の作であろう。
こうした名刀であればこそ私のような畜生剣道であっても救われそうな気がする。
剣道に「わび」や「さび」があると申せば笑われるかも知れませんが、
私はあえてあると申し上げたい。
・・・・・・・・長井のことば
「名刀を拝見すると筆舌に尽くしがたい、何とも言えない「わび」「さび」があるように
多年の修行の結果、人生自体に「わび」「さび」が出来てこなければならない。
それを剣道によって養わなければならない。この項一応終わりとする。
枠外:
吉田先生が私のために晩年作ってくださった竹の名刀一振と木刀は
生涯通じて家宝として後進に幾久しく伝えていきたい。
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(編集記:現在、長正館にこの竹刀は伝わってはいない)
(木刀は、振り棒の事で、2017年の閉館の折、育徳会の田中氏に貸し出した)