稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.48(昭和62年1月25日)

2019年03月16日 | 長井長正範士の遺文


過去のことばかり言っている者は、過去の亡霊だ。
未来、未来といっている奴は未来の幻だ。
われわれは何時でもピチピチして思いきり充実して生きていねばならぬ。
過去、現在、未来を包容する強い自己を何時も持ち続けていなければ駄目です。
試合で腹を立てたら負けである。技で仮りに勝っても人格で負けている。
人格がゼロで技や力で勝つのが嬉しいなら、ライオンや狼になるがいい。
平素から洋々として底の知れない人格を持っているならば、
技に負けても何んの恥でもない。そこが雲弘流の言わんとする
“あと先のいらぬ所を思うなよ、只、中程の自由自在を”である。

○話の途中ですが、澤木老師は禅の話をされるが、
われわれ武道家は武道の話として聞くとよく理解出来ることを申し添えて以下続く。

武道は敵を前に置いて、自己を創造するものである。
これは武道ばかりではない。自己に創造のない者は死人である。
敵を前に置いて本当の自己を発明する。
宮本武蔵は「独行道」の二十一ヶ条の中に
「我事において後悔せず」という箇条があるが、
大抵の者は自分の事を後悔している。

他人が何をしても、ちっとも後悔せん。
試合で面を打たれた。しまった負けたと後悔する。
しまったなら、しまったでよいじゃないか、
こちらが負ければ相手が勝つ。神様から見れば同じだ。
こっちが負ければ相手がよろこぶ。向うが負けたら此方がよろこぶ。
どっちかでよろこんでいる。神様から見たら過不足はない。

武道は勝負にあるのではない。
最高至上の人格内容を銘々の上に蘇らす道である。
こういう意味で武道をお奨めする。
どうでもこうでも勝たねばならぬという事ばかり、
とらわれるならば、それは武道では無い。

昔は武道は実用むきであり、生命を保護するものであったが、
今日は人格を鍛錬するためのものである。
昔、実用にした時代でも「飛び道具は卑怯である。名を名乗れ」
といって勝負をした。
決して卑怯なことをしていない。武道は人格向上のためのものである。
武道は人格を涵養(かんよう)して日本人をこしらえるものである。
人格を養う道もいろいろあるが、本当の人格を作るのが武道である。
自己本来の面目を打ち出してくるのが武道である。

武道は心を取り扱うものである。誰の心でもない。
自分の心を取扱うのである。
どう取扱うかというと、それは「眞理に到達するまで、
宇宙の眞理と波長が合うまで取扱え」と
柔道の楊心流目録の「静意の巻」に書いてある。
眞理は本の中にあるものだと思っている連中があって、
本ばかり見て、青瓢箪になっている。
本当の眞理は本の中などになく、眞理はその動き方に、その生活態度にある。
剣道で眞剣になって、有るったけの力を出して、
以ってそこに自己を発明するのである。
自己も自己、本当の自己を発明するのである。

宮本武蔵の五輪の書の「空の巻」の中に
「その身、その身の心のひいき、その眼、その眼のゆがみによりて」
とあるが、これは迷いということである。
このように皆見方が違うということである。
(迷いによって見方が変わってくる。)

水の中に落ち込み、死ぬ人もあるし、水の中に入ったら助かる魚もある。
それ程ゆがみというものは違う。命がけで戦争をして、敵の陣地を占領して、
あとで、自分の攻撃していた方を眺めなほしてみると
「ナーンダ、あんな何でもない所だったのか」と思うことがある。
それが攻撃していた時分には鬼が島のように見えるものである。
ゆがみがあるからである。(以下続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする