稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№101(昭和62年11月14日)

2020年03月27日 | 長井長正範士の遺文


〇機について
日本剣道形、太刀七本目の形で、打太刀は機を見て打つと教えてありますが、この機をただ漠然と機をはかってとか、機を見てと簡単に解釈して自分の勝手なタイミングで行っていっては形が泣きます。そこで先ずこの機とは一体どんな意味を有しているのか、国語的の解釈をしますと、機とは矢を発するところを言い、つるのバネ、ひとたび動く時は、直ちに発射するところから物ごとについて、ハズミ、カナメ、シオドキの意味に用いられている。そこで機を見るとは、きざしを知る、機会をさとると解釈出来ます。ですから剣道では上に立つ者も、下からかかる者も、勝つべき機を見つけることが大切であります。まして形の打太刀も仕太刀もそうでなければなりません。

さてこの機について一刀流では次のように言われています。機は時間と空間の変る急所のつぼであり、、永遠の、過去、現在、未来につながる時の上に一閃して現滅し、一つの機は、まばたく間に走り去る。この機が現れるのは永恒の時の上にある。只今である。いつでも好機は只今だと悟って厘豪の油断もなく、用意するのが機を逸しない心がけであります。機を捉えるのには神速、速妙に前方から迎えて好機に投ずるべきであって、後から追いかけるべきではないのです。一つの機は一度過ぎ去ると永久に戻ってこないが、又別の新しい機がくるからその機会をのがさずに捉えることを習わなければなりません。そのために組太刀の稽古で一本、一本ごとに勝つべき機を迎えて捉えることを学ぶのであります。

その機は相手の太刀筋の起り頭、堕勢、未勢、反動、居付など、その盛衰の変り目、呼吸の変り目などに、虚実転換の勝機として出てくる。その勝機は調子と拍子の中に旋律的に点滅する。それを打方と仕方の技の稽古で、ここぞと学びとるのです。切落の勝機、向い突きの勝機、鍔割の勝機、即意付の勝機を捉え、なるほどこれだと理解し、体得すべきであると教えられています。

次に形は稽古の如く、稽古は形の如くということは既に何回も述べてきましたが、私はいつもこれを念頭におきまして打太刀をやる場合は一刀流の教えに従って次の三つを心得て形を打っております。即ち
第一に、初心の仕太刀に対して打つときには、さあゆくぞと起りがしらをオーバーにして、きわどい所まで打つようにゼスチュアを示して打つようにして実は打たず、わずかな所ではずしてやり、お前の勝つべきところはここなんだと勝つ機を与えて打たします。
第二に、仕太刀が相当上達し、打ち間も判ってくれば、さあゆくぞと打つようにしてして本当に打ってゆきます。
第三に、同格ぐらいに熟達してくれば、打つそぶりを少しも見せず、サッと打って出ます。

このように打太刀(稽古に於ける元立ち)は仕太刀(稽古で下からかかってゆく者)の技能の度合いに応じて打ってゆき、それぞれ仕太刀(かかる者)の勝ちどころの機を与えるのであります。これが機を見て打ってゆく打太刀(元立ち)の心得でありまして、ただ仕太刀(下からかかる者)の技能の程度に関係なく打太刀(元立ち)が、いちように自分の調子で打ってゆくのは、機を見て打つという奥深い真意を解してないと言えるでしょう。このようなやり方では剣を交えて互いに人格を練るにはほど遠いと言わねばなりません。そして又この機は機に通ずという事を忘れてはなりません。

打太刀は常に自ら心気を振いおこして九歩の距離から既に発動し(ここから既に真剣勝負が始まっている)三歩前へ攻め進む、このわずかな間に仕太刀に対し打太刀に応ずる心気をいよいよ育てて打ち間に入るや気一杯の旺盛な打突の技を出して、これに応じて打ち勝つ機会を見い出させ、理に叶うほどよい塩合いで打たせ、勝つところはここぞと仕太刀に覚えさすのであります。(続く)
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