われわれは、この理想境に向ってあくなき修養に努めなければなりません。この切落の技を何回も何回も繰り返し修錬していきますと、体がおぼえてくれまして、一年の間に数回しか出ませんが、ハッとした時、心で打とうと思わないでも、手や足が勝手に動いて打突してしまっており、それが、ものの見事に相手の出がしらの技の時であった時、われ乍ら、びっくりし、後で何であんな技が出たんだろうと自分でも判らない技が出ることがあります。
即ち、思って打った技でなく、思わず出た技、これが本物でありましょう。更に心の問題については不動智に書かれてありますように、事に当って止まらない心、一心は動かない、身も亦動転しない、これを不動と申す。と言われています。その心は間髪を容れず、又石火の機を題して教えられているのであります。特に又“正心”(体全体に心を伸べて一方へつかないことをいう)と“偏心”を具体的に述べられ、われわれの大いに勉強になるところであります。
以下更に詳細にわたり、心の問題を述べておられますので、皆さんもよくよく熟読翫味(じゅくどくがんみ)し、心の資として修行して頂きたいのであります。要は、古流の切組の形を体得すべく、不断の修行してゆく過程において心が養われてくるのでありまして、机上の学問で心を養うことは、なかなか至難なことであることを自覚しなければなりません。
禅もそうで、まだ座禅をされていない方がありましたら、是非この際やって頂きたいのであります。そうすると、座禅は一見して静的修養と思われましょうが、さに非ず、私は大変苦しい体験をして来ております。例えが大変ピントはずれかも知れませんが、いつか一部の方にお話をしたことを、ここでもう一度皆さんに申し述べておきます。
私の竹馬の友、巽義郎君(№20に書きました親友)が
「舞台では軽快なジンタのリズムに合わせて自転車の曲乗りは続く。観客はその美技と、こころよいスリルに盛んな拍手を送っている。さて真の曲乗りとは、そんな技をいうのであろうか。スピードを極端に落して、一直線上を動くことである。ハンドルを曲げること無く静止することである。これ等は一見して困難な技には見えないが、自転車を安定させるために、どれほどの緊張感と力がいるか知れない。
このことを企業経営に当てはめて見れば、派手な経営にはさほど力はいらないが、地味で安定した経営を行うには予想も出来ない力がいるものである。演劇で殆んど動きのない役柄をこなすには、余程の修錬を積んだ役者でなければ出来ないであろうように、げに安定成長とは底力が必要で苦労が多い、然も辛棒のいることよ」
と大体以上のようでありますが、これが禅につながります。
これを要するに、心と肉体の緫合点を見出すため、剣道を修行するのであり、手で持った竹刀だけの打ち合いだけで強さを競うだけの剣道ではないことを理解して頂きたいのであります。剣は肉体の中に溶け込みひたすら心身一如の修養をする為の剣道であると教えて申し上げます。そしてあの五代目菊五郎が“まだ足りぬ、踊り踊りであの世まで”と詠んだように生涯続けていってもまだ足らないくらい深遠なものと思います。
〇今度は一寸話題を変えて。
私は日曜日の朝、特別の用事が無い限り、七時半からNHKの“お元気ですか”を見て、わが勉強の足しにしておりますが、本年の3月8日の日曜日に放映される、村山ゆり(84才)女子大教授(文学でノーベル賞の候補に上がった方)のお話を聞きたかったのですが朝から二ケ所の行事があり、代りに家内に聞いててくれと頼んで、あとで家内のメモを読んで大変感銘を受けましたので、それを書きとめておきます。村山より様は澤山の肩書があり、座の後ろには、村山ゆり著、(続く)