稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

中学校で柔道部に入ったのは強くなりたかったから。

2020年03月11日 | つれづれ


本当は剣道をしたかったが残念なことに中学校には柔道部しか無かった。
テレビでは柔道一直線というドラマをやっていた時代で柔道部に入った者は多かった。
私は生まれつき身体が硬くて柔道向きでは無い。
弱いので1軍には入れず、2軍チームの次鋒をやらされた。
試合では「負けなければ良い」とだけ指示された。
相手と組んで、力ずくで踏ん張って、引き分けにすれば良しというわけだ。

なぜ柔道をやりたかったのか?

これは兄弟喧嘩が多かったせいだ。
小さな揉め事を含めると毎日のように喧嘩した。
兄たちにそんな記憶は無いと思うが、長兄と次兄と日替わりなら、向こうは隔日、こっちは毎日である。
以前にも書いたが長兄はいきなり殴りつけてくるタイプ。次兄はのしかかって上から唾を落とすタイプ。
いずれにして負けるのがくやしくてくやしくて、オンオン声をあげて泣いたことが何回もある。
「泣いたほうが負けや」と母親に言われたが、泣くも泣かないも負けは負けである。
勉強でも喧嘩でも、何をしても兄たちに敵わない自分が情けなく辛かった。

長兄は高校に行き、大阪城の修道館で少林寺拳法を学び始めた。
長兄、最初は合気道をやっていたはずだが、すぐに少林寺拳法に転向した。
京橋駅あたりで朝鮮高校の不良からカツアゲをされたからだと知ったのはずいぶんあとのこと。
カツアゲに対抗するには合気道では間に合わないと考えたようだ。

次兄は相撲部だか相撲同好会だか作って、それなりに身体を鍛えていた。
今でもそうだがストイックで、独りトレーニングをするのが好きなタイプだった。

そうなると、何もしていない私はますます喧嘩で負けてしまう。だから柔道部。
通信教育の空手というのも雑誌に載ってたが、通信教育の空手では強くはならないと思っていた。
それに、月の小遣いが300円で、通信教育代は払えないという事情もあった。

中高一貫なので柔道部には高校生もいる。
高校生の領内(りょうない)先輩に聞いたのは「少林寺拳法に勝つ技は無いですか?」だった。
領内先輩はう~んと考え込んでいたが「カニばさみが使えそうやな」と言い特訓してくれた。
相手に向かって身体を水平にジャンプして、左右の足で相手を挟んで倒すのである。

ある日、自宅の庭で、長兄が少林寺拳法の形稽古をしていた。
私も柔道着に着替えて庭に降り勝負を挑んだ。
構え合っていきなりカニばさみを使うと見事に長兄はひっくり返った。
長兄は飛び起きて追いかけてきたが「勝負はついたぞ」と私は逃げた。
本来なら倒して寝技に持ち込むところだが、押さえ込んでも殴られるのはごめんである。

いちおう武道の形を取ったので喧嘩にはならなかった。
その頃から殴り合いの喧嘩は徐々に少なくなったと記憶している。

殴られて顔が腫れあがって口が開かなくても平気な顔して夕食を食べた事もあった。
実家の廊下の天井に、しばらくの間、点々と私の鼻血が飛び散ったあとが付いていた記憶もある。
しかし殴られるより精神的に辛かったのは次兄による陰湿な押さえこみだった。

兄弟仲は良くなかった。機会があれば長兄と次兄をやっつけてやろうと画策していたのがその頃の私だ。
いや、それより「ほうっておいてくれ」「俺にかまわんでくれ」の気持ちが強かった。

あまりに喧嘩ばかりするので母親はあきらめていた。
父親は自分自身の生活ペースを乱されるのでそれだけを怒っていた。

どこにも助けは無かったのだ。


(中学校の柔道部、右上の端が私)

負け犬だけにはなりたくないとは思っていた。
本気で中卒で働く道を探したりしていた。
ひたすら家を出たかったのだ。

おかげで精神的には強くなった。
今でも少々のことではへこたれない。

高校では剣道部に入った。
剣道は自分に合うと思っていたがそうで無いことにすぐ気づいた。
気づいたが他に出来るものも無い。剣道は高校を卒業後に中断し、再開して今も細々と続いている。

誰かと身体を張った喧嘩をすることはもう無いだろうと思う。
コメント (2)
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