く~にゃん雑記帳

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<桑名石取祭㊦> 江戸末期建造の祭車も!

2022年08月10日 | 祭り

【花車「堤原」が楼門前に一番乗り】

 石取祭の山車「祭車(さいしゃ)」は終戦間際の1945年7月17日未明の空襲で多くが焼失したという。ただ焼失を免れ建造から100年以上経つ年代ものも。一番古いのが「西舩馬町」の祭車。江戸末期の1856年(安政3年)建造といわれ、桑名市有形民俗文化財に唯一指定されている。他にも「田町」(建造1887年)、「宮北」(1900年)、「西馬道」(1902年)、「羽衣連」(1920年)などが100年を超える。

 「西舩馬町」の祭車をじっくり観賞させてもらった。ただ最古の割には幕類が新しく、車体全体もピカピカ。それもそのはず、5年前に水引幕や胴幕を復元新調し、漆の塗り替えも行ったとのこと。彫刻は名工として名高い三代目立川和三郎冨重の作で、前面の階段脇には2頭の鹿が彫られていた。この祭車以外にも鹿を彫刻した祭車が目立った。春日神社は奈良の春日大社から春日四柱神を勧請合祀している。そのため“神の使い”として鹿を彫った祭車が多いのだろう。他の祭車の彫刻には著名な高村光雲や森丹渓らの作品もあった。

 この祭りでは法被姿の小学生以下の男女を数多く見かけた。祭車が所定の場所に整列すると、ちびっ子たちが次々に太鼓打ちに挑戦していた。中には両親たちが手を取って打ち方を教える場面も。“送り込み”の際も多くの子どもがお囃子を任されていた。ゆっくり進む祭車の後ろで懸命に鉦を叩く女の子が目に留まった。車輪が巨大なだけに小さな女の子の健気な姿が印象に残った。「祭りの伝統を次の世代に確実に伝えたい」。そんな関係者の思いが随所に溢れていた。

 各祭車は午後5時すぎ、1番くじの「堤原」を先頭に待機場所から神社に向けて出発した。江戸前期の1667年創建という青銅の鳥居に達すると、まもなく楼門前で神職や祭事長らによって「渡祭始式(とさいはじめしき)」が執り行われた。「堤原」の祭車には「花車」と赤い文字で書かれた木札。人形の神功皇后も誇らしげだ。花車町は紅白の鏡餅とお神酒を奉納するのが習わしになっているという。

 午後6時半、赤提灯を合図に「堤原」の祭車が楼門の前へ。いよいよ祭りのクライマックス渡祭の開始だ。太鼓と鉦の音が周囲の空気を振動させる。まさに大音響。その祭車の背後では同じ法被姿の子どもたちが前後左右に飛び跳ねながら囃し立てていた。祭車は約8分間隔で入れ替わった。鳥居の下で待機していた次の祭車が「めでた、めでたの若松様よ」と歌いながら楼門前に進む。会場は熱気むんむん。「3年ぶりなので盛り上がりがすごいね」「みんな気合いが入ってる」。隣の熟年夫婦のこんな会話が耳に入ってきた。

 気迫あふれるお囃子が続く中、とりわけ印象的だったのが紋付袴姿で太鼓を打つ男性。腰を落とし見事なばちさばきで打ち込む光景は、まるで『無法松の一生』のような映画の一場面を見ているようだった。楼門前から祭車が去るとき町内の関係者らが100人、200人と後に続いた。どこからこんなに多くの人が、と思うほど次々に溢れ出てきた。渡祭の間、祭車後部の天幕が立ち上がった。そこには鯉や虎、鳳凰、雷神などが刺繍や綴れ織りで表現されていた。曳き回しの際、この天幕は太鼓の上で庇(ひさし)のように横に張り出している。このためよく分からなかったが、渡祭では一般の観客側から図柄がよく見えた。

 石取祭は「日本一やかましい祭り」といわれる。確かに最初は腹に響く太鼓と耳をつんざく鉦の音が轟音のように聞こえた。だが半日あまり音の洪水に身を任せるうち次第に馴染んできたのか、最後の方では5拍子と7拍子が合わさったリズミカルなお囃子がむしろ心地良く聞こえてきた。匠の技が詰まった祭車に、正装姿の風流な“送り込み”の行列、勇壮な太鼓と鉦のお囃子……。実に見どころの多い祭りだった。

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