く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

マエストロ小澤征爾、じっくり静養し再び指揮台に!

2012年01月28日 | 音楽

 

【ミューズが乗り移った世界のマエストロ】

 

 世界的なマエストロ、小澤征爾の体調が心配だ。2年前の2010年初め、食道がんを全摘手術。さらに1年前には腰痛の手術も受けた。この間の10年9月の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」では、腰痛の悪化からメーンの公演の指揮に代役を立て、チャイコフスキー「弦楽セレナーデ」の第1楽章だけを振った。その苦闘ぶりはNHKが「入魂の一曲」として放映したから、ご存じの方も多いだろう。

 

 最近はほとんど体力も回復して元気に演奏会などの日程をこなしていると思っていた。ところが1月25日の朝日新聞朝刊に「小澤さん、倉敷の出演中止」と出ていた。体調不良のため、その日予定していた水戸室内管弦楽団の演奏会の指揮を取りやめ、指揮者なしで開くとあった。2日前の栃木県足利市での公演も中止になっていたという。

 

 

 

 かなり以前の話になるが、長野県松本市で開かれた「サイトウ・キネン・フェスティバル」で、小澤指揮の交響曲やオペラを鑑賞し、屋外でも若い演奏家の指導に全身全霊を傾ける姿を間近に見る機会があった。それは実にエネルギッシュで躍動感にあふれていた。この人には音楽の神ミューズが乗り移っているのではないかとさえ思った。

 

 同フェスティバルの第1回演奏会が開かれたのは1992年。桐朋学園創設者の一人、故斎藤秀雄の薫陶を受けて世界で活躍中の演奏家を一堂に集めて音楽祭をやろうと、小澤の呼びかけで「サイトウ・キネン・オーケストラ」を結成してスタートした。57歳になったばかりで、米ボストン交響楽団の音楽監督に就任してからほぼ20年。マエストロとしてまさに油の乗った時期だったといえよう。

 

【「東洋人が西洋音楽をどれだけやれるか」テーマに全力疾走】

 

 ただ、そのころから指揮者にとっての職業病が小澤征爾を悩ませ始めていた。松本での第1回フェスティバルの3カ月前、ウィーン国立歌劇場で指揮中、両肩に激痛が走り、その後しばらく活動中止に追い込まれていたのだ。指揮者は演奏中ずっと立ちっぱなしのうえ、前屈みの姿勢になることも多い。長い曲目の場合には腕を何千回も振ったり伸ばしたり。だから腰痛や肩の故障は指揮者にとって、いわば持病のようなものだ。小澤征爾の師匠「カラヤン先生」も晩年は腰痛に苦しめられていた。

 

 その後、1998年春には体調不良で全国4都市でのオペラ公演が中止。2006年には気管支炎を患ったり、帯状疱疹(ほうしん)を発症したりして、ウィーン国立歌劇場の年内公演がキャンセルになった。09年末には食道がんが見つかり、翌年のウィーンフィル日本公演の指揮もキャンセル。そして、がん手術が成功し、無事退院できたと思ったら今度は腰痛。そのため、長年音楽監督を務めたウィーン国立歌劇場のフェアウエル・コンサートの指揮も、キャンセルを余儀なくされてしまった。小澤にとっては実に痛恨事で心残りだったに違いない。

 

  50年余り前の1959年、武者修行のため相棒のスクーターを伴って貨物船でヨーロッパへ旅立った。当時23歳。以来「東洋人として西洋音楽をどれだけやれるか」をテーマに全力疾走し、ついに「世界のオザワ」と言われるまでに上り詰めた。この間、多くのオーケストラや主要コンサートホールから引きも切らず声が掛かり、実に多忙を極める日々だった。

 

今年9月1日には77歳の喜寿。ここはじっくり静養したうえで、また指揮台で雄姿を見せていただきたい。そして、これまで佐渡裕や金聖響、三ツ橋敬子ら数々の有能な指揮者を発掘してきたように、これからも優秀な若手音楽家をもっともっと育ててほしいと真に思う。小澤征爾に代わる日本クラシック界のリーダーはいないのだから。


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