古事記では、この郎媛は伊予の阿比泥<アヒネ>の浜で、兄の軽皇子と共に、落暉の彼方にある二人の永遠のすみかに向かわれたのですが、書紀ではそのような結末ではなく、次のように書かれております。
”「朕頃得美麗孃子、是皇后母弟也、朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉、奈何」。
「ワレ オゴロ カオヨキ オムナヲ エタリ コレ 皇后<キサキ> ハラカラノ イロトナリ。 ワレ ココロニ 異<コトニ> メグシトオモヘリ。
冀<ネガハクハ> ソノナヲ ノチノヨニ ツタヘムト 欲<ホリス>。奈何<イカムゾ>」
と云われて、室屋連<ムロヤノムラジ>の奏上した案を取り上げて、諸國に衣通郎姬のために
”定藤原部”
経済的な基盤である「藤原部」を作らしたのだそうです。
これは、「応神天皇」が吉備の兄媛にお会いになるために行幸された時に賜った「織部」と同じような恩賞ですが、衣通郎媛が賜った『藤原部』は、その大きさが全国に在りましたので、規模が違いますが・・・・・・・・。
まあ、これで、書紀にある「衣通郎媛」のお話は全部です。少しばかりと思って書いてみましたが、読んでいきますと夫々に面白さが泉の如くに湧きだしてきて、えらく長くなりました。改めてお詫び申し上げます。