兄媛や黒媛に、次いで、吉備の国の美女について書こうとしていたのですが、この美女と云う言葉に、ついつい引っかかりまして、中国の美女や日本の美女をと思いたちまして長々と、お叱りをも覚悟して、書き綴ってまいりましたが、ようやく、吉備の美女にまで到着しました。
時は雄略天皇の時代です。大体480年頃だと思います。それまでの大和政権は天皇による中央集権的な政治体制ではなく、吉備等の諸国の大王との連合政権だったのですが。この雄略の時代になると、大和の天皇が強大な勢力を確保して、地方の豪族たりの力を弱めて天皇の中央勇集権政治の確立を見た時代なのです。
その過程を、日本書紀では、詳しく、吉備の勢力の衰退していく様子を美女を例に取り上げて説明しているのです。
その美女が吉備の国の「稚媛」なのです。