軽皇子と妹の軽大娘皇女との恋は、書紀では、これで総て終わります。
“・・・・・資哆儺企邇奈玖勾<シタナキニナク>”
で、後は、古事記にあるようにその結末までを細かく書かないで、読む人に、甚く感動と云うか、余韻を残して結末としております。
古事記は、「稗田阿礼」と云う一人の人が、その属する社会といいましょうか、大和地方の一部族にあるその成り立ちを、言い伝えと云った方がいいのかもしれませんが、語部として記憶していたものを文字に認めて、後世に伝えたものだと言われています。だから、その成り立ちをより興味深くするために、このような物語性の富んだ部分を沢山に仕立てて構成されたのではないかと思われます。一人の単なる記憶ではないのです、長年に渡って言い伝えられてきた膨大な記憶なのです。
それに対して、「書紀」は、相当に古事記等の影響は有って、本来は客観的な観点のみによってから書かれなくてはならないのだとは思われますが、その主観的な物語性のある部分も、古事記同様に、あるのは否められない事です。でも、その背後には、「日本の歴史」を後世にと云うより客観的な立場で編成されている様にも思われるのですが?????その違いがこのような部分に現れている好例ではと思われるのです???