昨日取り上げた軽王の妹に送った歌ですが、古事記にも同じ歌が出ています。あまり違いはありませんが。少々気になる部分のありますのでその歌と比較してみました。
書紀には
「あしひきの 山田を作り、山高に 下樋をわしせ
下泣きに 我が泣く妻 片泣きに 我が泣く妻
こそこそ やすく肌触れ」
とありますが、それが古事記には
「あしひきの 山田を作り、山高み 下樋を走(わし)せ
下問ひに 我が問う妹を 下泣きに 我が泣く妻を
今夜こそは やすく肌触れ」
と、殆ど同じですが 最後にある“コソコソ”と“コヨイ コソハ”の違いについて少し説明を加えておきます。、“去曽去曽”、“許存許曽婆”になっています。古事記伝では、本居宣長は“許存許曽婆”の「存」を「布」と誤って写したものだと断定して、これを<ケフィコソハ>(今日こそは)と解釈しております。一方、書紀では、それを“去曽去曽”と書いて、これを「こぞこそ」と読まし、「こぞ」で「昨夜」と解釈しているようですが(旺文社古語辞典より)