私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

8月15日です

2017-08-15 07:27:09 | 日記

   また、例の横道です

 今日は、8月15日、72回目の「終戦の日」です。「終戦って何??。」と云う思いが72回も私の胸に去来したのかなあとつくずく思っております。そこで私の最初の「終戦」の思い出を一つ。

 72年前の玉音放送です。我が家に有ったラジオです。音声が大きくなったり小さくなったりする普通の家に有る「四球ラジオ」です。どうしてかも何も分からなかったのですが、そのラジオを、その時は、特別に、私の家の縁側に出して、近所の人と一緒に聞きました。この時、誰がいたのかは定かではないのですが、隣の「とうやん」と云うおじさんがいたのは記憶に残っております。その時分にいた男性の大人と云えば「父」と左官をしていたこの「とうやん}しかいなかったからです。おばさん連中は沢山いたのですが誰がいたかは記憶にありません。私を含め子供も、多分、沢山いた筈ですが。ラジオから流れ出た天皇陛下のお言葉をみんな真剣に聞いていました。しかし、当時、小学3年生だった私には、それが何の放送であるかわかるはずはありません。また、その時、どのような放送が流れたのかも、又、周りにいた人達が、どのようにその放送を聞いたのかも覚えてはいません。ただ、今でも、確かに、この胸の奥に残っているのは、「とうやん」の息子の「つよっさん」が大声で叫んだ言葉です。彼は、その時、高等科か青年学校に行っていたのかは分かりませんが、何処でそのような言葉を知っていたのでしょう、兎に角、叫んだのです。

            “やったー、これからはなんでも じゆうだ。なにゅうしてもええんじゃ。”

 と。
 それからラジオの周りにいた大人の人達がどういう話をしたのか、どうなったのか、そんな事は一切記憶には有りませんが、私には「つよっさん」が言った「じゆう」と云うの言葉さえ何も分からなかったのです。でも、また
 「なにゅうしてもええんじゃ」
 と、誰かが言ったと思います。そこは私の兄も、つよっさんの弟「たけっさん」もいたと思いますが、みんなで「なにゅうしても ええんじゃ」と囃し立てます。この「これからは なにゅうしても えんじゃ」と云う言葉が、そこにいた子供たちを、男の子だけですが、次の行動に移させたのでしょうか、土手の外にある、どこの家のスイカ畑かは分からないのですが、その畑に飛んで行き、普通ならそのようなことは、決して、しなかったのですが、その中から一つのスイカを取り出して、川に入って、真夏の太陽がじりじりと照るつけている中で、みんなで食べたのです。
 
           「これがじゆうか??。」
 

 今でも、そんなことが心の片隅にはっきりと残っておる私の最初の「終戦」です。食べたスイカの味も何もかも記憶に残ってはいません。しかし、これもどうしてだかは分からないのですが、このスイカ泥棒はこれが最初で最後になったことには違いありません。