私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

こんな名前ばかりよくぞ・・・・

2019-11-04 07:12:47 | 日記
 昨日、「その子孫の名前が次から次へと終りがなきが如くに・・・」と書いて、稗田阿礼の頭脳明晰なることに驚嘆したのですが、それが、次の「開化天皇」になると「孝元天皇」よりよりも一段と多く御子やその母親、さらに、孫に至るまでの名前が次から次へと羅列してあり、何度読んでも、ただ、字面ばかりが並んでおり、誰がどうなっているのか、その関係が余りにも複雑すぎて、とても、私の頭の中には、誰一人として、記憶として残ることができません。

 例えば、開化天皇の御子は五柱ですが、夫々の御子達の母親は異なり四人もの名前が、しかも、その出身地や父親の名前までもが、

  “娶丹波之大縣主、名由碁理之女、竹野比売。生御子、比子由牟須美命・・・”

 のように書かれております。それは、更に、その孫たちに至るまでにも続いて書かれています。それを、凡て、ここに書き写すことも、余りにも、その多さに圧倒されます。そこで、一番簡単な方法である写真に写しましたので見てください。

          

 とても、これだけの人の名前は私には覚えきれないのです。「稗田阿礼だって」と言う気がしないでもないのですが????現代に生きていたら文化勲章は、勿論、ノーベル賞物だと思われるのですがどうでしょうかね。

孝元天皇の時に「皇太后」という称号が・・・・

2019-11-04 07:11:49 | 日記
 「孝元天皇」“大倭根子日子国玖琉命<オホヤマトネコヒコクニクルノミコト>”
 は孝霊天皇の第一の皇子(大吉備津彦命の兄)です。この天皇の歴史も、それまでの天皇と同じように、天皇の后とその子孫、孫に至るまで、延々と、これでもかこれでもかと言うように、誠に、詳しく書き遺して居ります。(それが欠史八代の証拠ですが)
 しかし、此の天皇の段を読んで、ただ、一つだけはっきりとわかるのは、この孝元天皇の孫に

            “建内宿禰”

 がいることです。(なお、この名前は日本書紀には見当たりませんが)

 これも余残事ですが、日本書紀には「孝元天皇」が母「細姫」を、父「孝霊天皇」の死後、特別に尊びて

           “皇太后”

 と言う名で呼んだとあります。
 この「皇太后」という称号は、先の天皇の崩御に伴い、その皇后に与えられた特別な称号なのです。
 先日行われた「令和天皇」の即位後、先の皇后「美智子妃殿下」が「美智子皇太后」と呼ばれる様になったとの報道がありましたが、今回の場合は、天皇の崩御に伴う皇位継承ではないのですが、この「皇太后」と言う称号か使われるようになったそうですが、この称号も「孝元天皇」以来の2000年以上もの永い歴史ある伝統の称号だと云うことが分かります。
  
      歴史って面白いものですね