私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

こんな歴史は朝鮮を甚く刺激するのではと???

2019-12-09 12:35:43 | 日記
 神功皇后の新羅への遠征の様子は、

    “真木灰納瓢。亦箸及比羅傳多作。皆皆浮大海以可度”

 と書かれてあるようにして、更に、あの「ジンム」がしたように吉備の国で

    “整軍<ミイクサヲ トトノヘ>雙船<ミフネ ツラナメテ>”

  我吉備国「二万」で、2万もの兵力増強と船舶を整えて出発したのです。
 するとどうでしょう。日本海を出て玄界灘に出ると、どうしたことか、すぐにその海にいた大小総ての魚がその船を取り囲み、背負うようにして進んでくれます。幸いなことに海風までもが「順風<オヒカゼ>」となって船をたちまちの内に新羅まで楽々と運んでくれます。あの強風と荒波で有名な玄界灘をです。そこら辺りも瀬戸内海、特に「瀬戸の穴海」を支配していた吉備人の活躍なくしては語ることができないのではと思われます。その吉備人の自由活発に、それこそ海を手玉に取るように動き回る活躍を、さもそこら辺りにいる魚が導いてくれているような錯覚に陥ったのではないでしょうか。そうでなかったなら、こんなことって起こるはずがないことですからね。
 まあそれくらいこの朝鮮遠征には吉備人の活躍があったと云う事です。何故なら、この時の吉備は「若建吉備津日子」が敷衍して大変な勢力を持っていたのです。
 その娘が景行天皇の皇后だったのです
      “針間之伊那毘能大郎女<ハリマノイナビノオオイラツメ>”
 です。仲哀天皇は「オオイラツメ」の孫に当たられるお方で、吉備とも深い関係があったお方だったのです。

 そのような吉備とこの遠征が大変深い関係のあったと云うことが、この「二万」の起源になったと云う言い伝えや、更には

    “不問大小悉負御船而渡”

 と云う言葉を古事記に書かしめた原因ではないかと思うのですが???