兄が大怒猪に押し殺されたのを見たでしょう弟の忍熊王はその勢いに“不畏<ヒルミモセズ>”神功皇后の軍と相交えるべく待ち構えておりました。その場所は、古事記では、どのあたりかは推定はできないのですが、書紀によると、忍熊王がこの戦に敗れて死んだのは
“沈瀬田済而死此<セタノワタリニ シズミテ シニキ>”
とありますから、宇治川の上流付近だと考えられております。瀬田の唐橋の辺りでは????
この古事記による、その戦いぶりは案外に簡単に終わったように書かれております。
「筑紫の国から倭まで喪の船で帰ってきたのですから、その船には兵隊がいようはずがないと忍熊王は単純に考え、王は軽装の兵士と共に乗り込みます。しかし、その船の中には多くの兵士が潜んでいたのです。建内宿禰の計画です。そんなに簡単には事が進む事があろうはずがありません。忍熊王の軍は這々の体で山城の国まで退却します。その賊軍を追い掛けてきたのが
“建振熊命<タケフルクマノミコト>
です。この人も又
“権而”
と書いてあります。どう読むと思いでしょうか????
“沈瀬田済而死此<セタノワタリニ シズミテ シニキ>”
とありますから、宇治川の上流付近だと考えられております。瀬田の唐橋の辺りでは????
この古事記による、その戦いぶりは案外に簡単に終わったように書かれております。
「筑紫の国から倭まで喪の船で帰ってきたのですから、その船には兵隊がいようはずがないと忍熊王は単純に考え、王は軽装の兵士と共に乗り込みます。しかし、その船の中には多くの兵士が潜んでいたのです。建内宿禰の計画です。そんなに簡単には事が進む事があろうはずがありません。忍熊王の軍は這々の体で山城の国まで退却します。その賊軍を追い掛けてきたのが
“建振熊命<タケフルクマノミコト>
です。この人も又
“権而”
と書いてあります。どう読むと思いでしょうか????