私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

その上“百済”をば・・・・というのは、どうも???

2019-12-12 09:25:21 | 日記
 新羅の国主<コニキシ>を戦わずして随え、神功皇后はさらに

   “百済国者。定渡屯家<クダラノクニヲバ ワタノミヤケト サダメタマヒキ>”

 「屯倉<ミヤケ>」ですから天皇の直轄地を意味していますが、この時代には、まだ「百済国」はなかったのは確かですからこれも作り事の歴史です。また、屯家<ミカケ>の制度もなかった時代です。屯倉制度は、欽明天皇の時に、吉備の国にも「児島屯倉」「白猪屯倉」が設置されますが時代が大きく食い違っております。
 どうしてこの様なことが古事記に書かれたのかはその意図は分かりませんが、当時の日本もアジヤの一強の国として「国史」にその名を連ねたくて、また、それが天皇中心の強大な国家を形成したと云う事を国内に強調したくて「朝鮮半島」の一部をもその権力下にあったことを言いたかったからではないかと思われますが。
 なお「渡<ワタ>」も、海を渡った外国の地と云うことを意味しているのでしょうが歴史的に見ると存在のないものだと云うことになり、信じがたい作り物ではと思われます。

 稗田阿礼が8世紀中ごろの東アジヤの情勢から勝手に作り上げた架空の物語ではないでしょうか???波が陸地の奥まで神功皇后の船を押し上げたと云うのと同じようにです。

 さて、此のお話どうお感じになられますでしょうか????