私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「吉備津神社⑥」

2020-06-02 09:41:04 | 日記
 領土拡張を図って武力により吉備の地方を占有した吉備津彦命の功績を「吉備津神社記」には

 "大吉備津彦命御兄弟の功や、実に偉大なりといふへし。・・・・・・されども、吉備津彦命は男子少くおはせしにや、葦北国造となり給えり三井根子命<ミイネコ>の外、聞く所なし。而して、其の後吉備の地方に藩衍せるものは、いずれも、命の御弟なる若日子建吉備津彦命の後裔に係る。而して是等のなかには、出でて朝廷に仕へ給ひ、国家に勲労あるもの少なからざりき。”

 と、その功績の大きかったことを強調しております。その後は、先に書いた応神天皇と兄媛との出来事が詳しく述べられておるのです。その中で兄媛の兄の「御友別」と「仲彦命」が特に吉備津神社の中では高い位置を占めて祭られております。
 まず、吉備津神社の神殿内部の一番奥の部屋です。見てもわかるように中央に「内陣」と「内々陣」の2つの部屋があります。

  

 これも「比翼入母屋造り」と共に、他の神社には見られない吉備津神社特有の構造になっている造りです。どうして二部屋もあるのでしょうか???
 写真にある一番内部にある「内々陣」に鎮座在します神は
         大吉備津彦命
 です。
 では、その前にある「内陣」にはどなたがお祭りしていると思われますか???

「吉備津神社⑤」 今日は聊かの「記紀」批判を・・・・

2020-06-02 09:41:04 | 日記
  大吉備津彦命は吉備地方に来て温羅を退治したり、東海に派遣した武渟河別命と一緒に出雲振根命を討つなどしたりして大活躍されますが、その後の命の業績は記紀には何も記されてはいません。しかし、その後、命は吉備の地に留まりこの地方を鎮めて、「二百八十一歳で薨去され、お墓は吉備の中山の茶臼山あり」と社伝に書かれております。
 ここからでもわかるように、当時、天皇の政治勢力範囲は大和を始め、せいぜい奈良盆地を中心としたごく狭い京畿地域に限られていたのです。それを孝霊天皇の時代頃から、漸次、拡張していたのです。言い換えれば、戦略戦争を始めて、領土拡張を図っていた帝国主義的な政策なのです。武力による勢力拡張時代に入っていたのです。その武力による領土拡張政策を正当化するために作り上げたのが千三百年前に書かれた「古事記」や「日本書紀」です。これらの「国史」として作られた日本の歴史書は、天皇家の都合で作り上げられた有りもしないおとぎ話的な架空な歴史だといっても違いありません。
 そう考えると、吉備津彦命が退治たとする吉備地方に住み着いて異国の鬼

           『温羅<ウラ>』

 は、本当は「鬼」ではなく、当時、この吉備地方を治めていた心ある知恵ある優しい豪族ではなかったのかと思われます。当時の吉備地方の住民には、鬼は、かえって侵略してきた天皇一族ではなかったのではと思われるのです。それは、現在の『香港騒動』のような、従来からの政治体制とは全く違った支配者の心理の働く強制的態度を見た吉備の住民が反対して抵抗したのを天皇側から見て「鬼」としたのではないでしょうか???
 そうでなかったならば、あの恐ろしい住民の敵「鬼」が、どうして、吉備津神社の守り神として神殿内に丑寅神社としてお祭りされているのかわかりませんもの。
 このことは、大吉備津彦命も今までの吉備の首長であった『温羅」を自分の守り神として取り込むことによって吉備地方の住民を鎮撫した????のではとも考えておりますが・・・

      御𠮟りは覚悟で????