播磨稲目大郎女や兄媛や御友別を通して吉備氏と天皇家との親密な関連が結ばれた経緯がわかるのですが、さらに、この関係が分かる確実な歴史が「吉備津神社記」には見えます。時代は舒明天皇の時代まで下がりますが、次のように書かれてあります。
「舒明天皇の皇子蚊屋王<カヤミコ>も、蚊屋采女、カヤウネメ>の生む所にして、疑いもなく吉備氏の出なるべし。」
とあります。これは書紀の
「又娶吉備国蚊屋采女。生蚊屋皇子。」
からの記述です。更に、その吉備氏の子孫が広く日本全国に敷衍して「朝臣」「臣」「宿禰」等の爵位を賜って活躍したと書かれています。
そして最後に
「御祭神の餘烈、実に偉大なりといふべし。」
と、記してこの項の結びとしております。
なお、ここにある「舒明天皇」は「推古天皇」の皇子です。
「舒明天皇の皇子蚊屋王<カヤミコ>も、蚊屋采女、カヤウネメ>の生む所にして、疑いもなく吉備氏の出なるべし。」
とあります。これは書紀の
「又娶吉備国蚊屋采女。生蚊屋皇子。」
からの記述です。更に、その吉備氏の子孫が広く日本全国に敷衍して「朝臣」「臣」「宿禰」等の爵位を賜って活躍したと書かれています。
そして最後に
「御祭神の餘烈、実に偉大なりといふべし。」
と、記してこの項の結びとしております。
なお、ここにある「舒明天皇」は「推古天皇」の皇子です。