応永の再興以後の吉備津神社には享禄三年(1560年)には「一童社」が建立され、天正四年(1536年)には毛利輝元が拝殿の修理を、慶長2年(1597年)には宇喜多秀家が本宮を造営しております。更に、慶長17年(1613年)には石見銀山で釜屋間歩を開発した早島出身の安原備中守知種によって御竈殿が修築され瀧祭神社も造営されます。
このようにして現在の神社が出来上がります。室町・江戸期を経て何回かの檜皮葺の屋根(五十年に一回の葺き替え)の修理などが行われ、さらに、明治期にかけて国による大々的な修理も行われ吉備津神社独特の美観を備えた神社として、その雄姿を吉備の中山の麓に見せております。
このようにして現在の神社が出来上がります。室町・江戸期を経て何回かの檜皮葺の屋根(五十年に一回の葺き替え)の修理などが行われ、さらに、明治期にかけて国による大々的な修理も行われ吉備津神社独特の美観を備えた神社として、その雄姿を吉備の中山の麓に見せております。