5月の初めごろから書き出した御友別命ですが、あちらに行ったり、こちらに来たりと、もう1か月以上も書き続けております。
「ええかげんに しとかにゃあ おえんど」
とお叱りが届きそうですが、もうしばらくの間続けますので、是非お読みください。
今迄では吉備津神社とは「一体どんな神様か」その概略を「記」によってご紹介しましたが、次よりは誰がどのようにしてこの場所に作ったか、『神社の造営』について説明します。
まづはこの吉備津神社のある位置から。
「此の地たる中備の咽頭に当り、東には津高堺江深く湾入し海岸には葦荻繁りて、謂はゆる日美葦原其の東麓に接し、これより早島の間には、一条の海流東西に通じ、実に天険の地を占めたり。」
そして、
「されば、命は先ずこの地に拠りて、これを其の鎮所とし、かくて吉備津路を統治せられ給ひしか如し。而して社殿はこの鎮所につき、建立せられたるものなるべし。」
と、この地に吉備津神社が建てられたかその所以を書いてい居ります。
この記から読み取れることは、当時の瀬戸内の海岸線はJR山陽線の通っている辺り(岡山市庭瀬)まで入り込んでいて、今の岡山平野はほとんど総て瀬戸内海で「吉備の穴海」と呼ばれた内海だったのです。現在の早島や妹尾などは島で、津高・一宮まで海が奥深く湾入していたのです。この海岸線沿いに広がる土地には葦や萩が生い茂り "日美葦原<ヒミノアシハラ>”と呼ばれていました。
その葦原の西側には足守川を途中から合流した高梁川から流れ込み、肥沃な広大な三角州が生まれていました。ここにも日美葦原と同じような、それ以上の広大な「葦が森のように生い茂る」葦原があり、此の地は早くから干拓が進み人々が住み付き、中国や朝鮮からの高い文明を持つ人たちの入植も手伝って、多くの人々が暮らす我が国太古の豊かな王国か形成されていたのです。これが「吉備王国」です。その象徴が
”吉備の中山”
です。このお山は当時から「吉備の神南備山」として人々から崇敬されていたお山です。
「ええかげんに しとかにゃあ おえんど」
とお叱りが届きそうですが、もうしばらくの間続けますので、是非お読みください。
今迄では吉備津神社とは「一体どんな神様か」その概略を「記」によってご紹介しましたが、次よりは誰がどのようにしてこの場所に作ったか、『神社の造営』について説明します。
まづはこの吉備津神社のある位置から。
「此の地たる中備の咽頭に当り、東には津高堺江深く湾入し海岸には葦荻繁りて、謂はゆる日美葦原其の東麓に接し、これより早島の間には、一条の海流東西に通じ、実に天険の地を占めたり。」
そして、
「されば、命は先ずこの地に拠りて、これを其の鎮所とし、かくて吉備津路を統治せられ給ひしか如し。而して社殿はこの鎮所につき、建立せられたるものなるべし。」
と、この地に吉備津神社が建てられたかその所以を書いてい居ります。
この記から読み取れることは、当時の瀬戸内の海岸線はJR山陽線の通っている辺り(岡山市庭瀬)まで入り込んでいて、今の岡山平野はほとんど総て瀬戸内海で「吉備の穴海」と呼ばれた内海だったのです。現在の早島や妹尾などは島で、津高・一宮まで海が奥深く湾入していたのです。この海岸線沿いに広がる土地には葦や萩が生い茂り "日美葦原<ヒミノアシハラ>”と呼ばれていました。
その葦原の西側には足守川を途中から合流した高梁川から流れ込み、肥沃な広大な三角州が生まれていました。ここにも日美葦原と同じような、それ以上の広大な「葦が森のように生い茂る」葦原があり、此の地は早くから干拓が進み人々が住み付き、中国や朝鮮からの高い文明を持つ人たちの入植も手伝って、多くの人々が暮らす我が国太古の豊かな王国か形成されていたのです。これが「吉備王国」です。その象徴が
”吉備の中山”
です。このお山は当時から「吉備の神南備山」として人々から崇敬されていたお山です。