「文徳天皇の仁壽二年(852年)二月、官社に列せられしより、爾後、社殿の修築も官営に係りしか如し。」
とあり、国の管理の下で社の修築などが行われ、その後、康平4年(1061年)、冷泉天皇の時、社殿が炎上し、その再興が図られたと朝廷の記録に残っております。それから約三百年後の観応二年(1351年)
"社殿悉く灰燼に帰せし・・・大禰宜賀陽宗勝<カヤノムネカツ>が朝廷に愁訴して、その再興を請ひける。”
すると、後光厳天皇が名社の空しく廃滅に帰するを惜み、将軍足利義満に命じて、これを再興せしめるることになったのです。かくて、
”応永三十二年(1425年)十二月二十九日”
に新殿が落成して正遷宮の式がとり行われ、灰燼に帰せしより七十有余年を経て再興がかなったのです。
とあり、国の管理の下で社の修築などが行われ、その後、康平4年(1061年)、冷泉天皇の時、社殿が炎上し、その再興が図られたと朝廷の記録に残っております。それから約三百年後の観応二年(1351年)
"社殿悉く灰燼に帰せし・・・大禰宜賀陽宗勝<カヤノムネカツ>が朝廷に愁訴して、その再興を請ひける。”
すると、後光厳天皇が名社の空しく廃滅に帰するを惜み、将軍足利義満に命じて、これを再興せしめるることになったのです。かくて、
”応永三十二年(1425年)十二月二十九日”
に新殿が落成して正遷宮の式がとり行われ、灰燼に帰せしより七十有余年を経て再興がかなったのです。