吉備津神社は仁壽二年(852年)に封戸二十戸を朝廷から与えられておりますが、これがどのくらいの価値があったかは不明です。その後、天慶年間に「一品」を授けられ「位田八十町」が与えられます。この「八十」という字どのくらいの広さかはっきりとはしないのですが、社伝によると
生石郷、撫河郷、庭瀬郷、板倉郷
を神領したとあります。その後、天文の頃には、更に、近郷の栗坂・鳥羽・徳房を加え「一万八千石」を領した言われています。
このように、平安の昔から鎌倉・室町の世を経て、それぞれの時代の波に左右されながらも浮き沈みの激しい変遷がこの吉備津神社でもに見られたのは確かです。中でも、徳川時代になると、それまでは一万八千石の小大名くらいの経済基盤を持っていて神社が一変して百六十石に激減します。この吉備津神社そのものの存在すら危ぶまれるような幕府の厳しい命令に対して、神社内外では相当大規模な騒動があったのは確かですが・・・・そこらあたりの実情については何も伝え残されてはいません。
生石郷、撫河郷、庭瀬郷、板倉郷
を神領したとあります。その後、天文の頃には、更に、近郷の栗坂・鳥羽・徳房を加え「一万八千石」を領した言われています。
このように、平安の昔から鎌倉・室町の世を経て、それぞれの時代の波に左右されながらも浮き沈みの激しい変遷がこの吉備津神社でもに見られたのは確かです。中でも、徳川時代になると、それまでは一万八千石の小大名くらいの経済基盤を持っていて神社が一変して百六十石に激減します。この吉備津神社そのものの存在すら危ぶまれるような幕府の厳しい命令に対して、神社内外では相当大規模な騒動があったのは確かですが・・・・そこらあたりの実情については何も伝え残されてはいません。