稲速命と弟彦は西笏御崎に祀られています。では、「東笏御崎<トウシャクオンザキ>」は???という疑問が当然浮かぶはずですが、それは正宮外陣の東中壇にあります。ここには御友別の兄「浦凝別<ウラゴリワケ>」と弟「鴨別」が祀られています。どちらも前の稲速別、弟彦と同じ正宮の東の「御崎」としての神です。
なお、この東笏御崎にお祀りされている「鴨別命」ですが、日本書紀には、
「神功皇后の新羅への遠征の時、九州の熊襲を討って服従させた。」
とあります。
九州の雄「熊襲」を平定して服従させるだけの力のある兵力を、神功皇后が朝鮮征伐に連れて行きたいのはやまやまでですが、あえて日本に残し熊襲征伐をさせているのです。それだけの実力のある吉備国の勢力です。その力はは押して知るべしです。それだけ深い信頼関係が当時の吉備と倭の間には生まれていたのです。
そのような背景があった時の応神天皇の吉備への行幸です。日本書紀では、単に、天皇の愛妃「兄媛」に逢いたいという短絡的で個人的な思いつきのように書かれていますが、よくよくその行動を考えてみますと、その底には相当深い日本統一という天皇の深い配慮があったはずです。それは淡路島から直接ではなく、途中で、小豆島にも立ち寄りるという余残なことまでして、吉備に到る行程の中に見え隠れしているのではと思えて仕方がないのですが????
この兄媛を尋ねる応神の吉備国行幸について、こんなことを考えているのは私一人ぐらいしかいないのではとは思いますが・・・・あえて書かせていただきました。
ぜひ、ご批判を!!!!!
なお、この東笏御崎にお祀りされている「鴨別命」ですが、日本書紀には、
「神功皇后の新羅への遠征の時、九州の熊襲を討って服従させた。」
とあります。
九州の雄「熊襲」を平定して服従させるだけの力のある兵力を、神功皇后が朝鮮征伐に連れて行きたいのはやまやまでですが、あえて日本に残し熊襲征伐をさせているのです。それだけの実力のある吉備国の勢力です。その力はは押して知るべしです。それだけ深い信頼関係が当時の吉備と倭の間には生まれていたのです。
そのような背景があった時の応神天皇の吉備への行幸です。日本書紀では、単に、天皇の愛妃「兄媛」に逢いたいという短絡的で個人的な思いつきのように書かれていますが、よくよくその行動を考えてみますと、その底には相当深い日本統一という天皇の深い配慮があったはずです。それは淡路島から直接ではなく、途中で、小豆島にも立ち寄りるという余残なことまでして、吉備に到る行程の中に見え隠れしているのではと思えて仕方がないのですが????
この兄媛を尋ねる応神の吉備国行幸について、こんなことを考えているのは私一人ぐらいしかいないのではとは思いますが・・・・あえて書かせていただきました。
ぜひ、ご批判を!!!!!