福山合戦は、5月15日から3日の激戦で、足利直義軍の「敵軍の生捕討死の首1353」という戦勝だったと言い伝えられております。とにかく、大勝利で直義は備前の唐皮(岡山市一宮西辛川。当時、此の地が「備中板倉」ではなく山陽道一の宿場だったのだそうです)に逗留します。
"当国の吉備津神社に参詣の志おわしけれ共、合戦の最中なれば触穢の憚有とて、只願書計を取籠られて翌日唐皮を立給う。”
と、「太平記」に書かれています。
多くの死傷者を出した激しい戦いだったため、己の身も穢れているので参詣は遠慮して、これ以後の後醍醐天皇方との戦いの戦勝を祈願するための願書だけを届けて出発したのです。
この直義と吉備津神社との関係が、吉備津神社の焼失と関係があるのではないかと私は考えています。それについて少々私見を・・・
吉備津神社の焼失は観応二年(1351年)十二月のことですが、この時、京都を中心とした足利幕府はどのような状態だったかと言いますと、当時、幕府は尊氏と弟直義との間には相当の確執があり、例の「寛応の擾乱」の最中であり、その影響を受けて、吉備津神社でもやはり、例の願書に関連して尊氏派と直義派とに分かれて意見の相違もあり、宮司と社務代の間で相争っていて、それが原因となって、全吉備津神社への直義派の放火によって焼失したのではないでしょうか?????
放火でないと、吉備津神社の総ての建物が焼失するなんて、どうしても考えられません。岩山宮さへ焼けているんですがからね
これが
「社殿は悉く灰燼に帰する」
の原因ではと考えています。何の根拠もないのですが、どうでしょうかね???
"当国の吉備津神社に参詣の志おわしけれ共、合戦の最中なれば触穢の憚有とて、只願書計を取籠られて翌日唐皮を立給う。”
と、「太平記」に書かれています。
多くの死傷者を出した激しい戦いだったため、己の身も穢れているので参詣は遠慮して、これ以後の後醍醐天皇方との戦いの戦勝を祈願するための願書だけを届けて出発したのです。
この直義と吉備津神社との関係が、吉備津神社の焼失と関係があるのではないかと私は考えています。それについて少々私見を・・・
吉備津神社の焼失は観応二年(1351年)十二月のことですが、この時、京都を中心とした足利幕府はどのような状態だったかと言いますと、当時、幕府は尊氏と弟直義との間には相当の確執があり、例の「寛応の擾乱」の最中であり、その影響を受けて、吉備津神社でもやはり、例の願書に関連して尊氏派と直義派とに分かれて意見の相違もあり、宮司と社務代の間で相争っていて、それが原因となって、全吉備津神社への直義派の放火によって焼失したのではないでしょうか?????
放火でないと、吉備津神社の総ての建物が焼失するなんて、どうしても考えられません。岩山宮さへ焼けているんですがからね
これが
「社殿は悉く灰燼に帰する」
の原因ではと考えています。何の根拠もないのですが、どうでしょうかね???