足利義満が後光厳天皇からの命で吉備津神社の再興を、約11年で成し遂げますが、「どうして、義満はそんなに速く??」という疑問が当然起きますよね。その答えが
「福山合戦」
です。ご存じとは思いますが、その「福谷合戦」について簡単に説明してみます。
時は延元元年(1336年)です。足利尊氏が九州に落ち延び、そこで、再び勢力を盛り返して、後醍醐天皇と対峙すべく京へと押し上ってきます。それに対し天皇方は新田義貞の軍が中心となって備中・備前・播磨・美作にその備えを整えております。尊氏の弟「足利直義」は鞆の浦より、二十万騎で陸路より京へと攻め上り「備中の草壁の庄」に着きます。(草壁の庄は現在の総社市のあたりか?)
一方、その時、新田軍(後醍醐天皇方)は大江田式部大輔が三千騎(一説には千五百とも)率いて備中福山城に楯籠り対峙しており、十倍以上の足利軍を目の前にして兵士たちに言います五月十五日のことです。
「合戦の習、勝負は時の運によるといえども、味方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、負けじということは、千に一も有るべからず。だからといって、敵が大勢し寄せたから逃げたと云われるより、ここで堂々と戦い討ち死にして、その名を子孫に残してこそ武士たる所以がある。堂々と戦おうじゃないか。」
「福山合戦」
です。ご存じとは思いますが、その「福谷合戦」について簡単に説明してみます。
時は延元元年(1336年)です。足利尊氏が九州に落ち延び、そこで、再び勢力を盛り返して、後醍醐天皇と対峙すべく京へと押し上ってきます。それに対し天皇方は新田義貞の軍が中心となって備中・備前・播磨・美作にその備えを整えております。尊氏の弟「足利直義」は鞆の浦より、二十万騎で陸路より京へと攻め上り「備中の草壁の庄」に着きます。(草壁の庄は現在の総社市のあたりか?)
一方、その時、新田軍(後醍醐天皇方)は大江田式部大輔が三千騎(一説には千五百とも)率いて備中福山城に楯籠り対峙しており、十倍以上の足利軍を目の前にして兵士たちに言います五月十五日のことです。
「合戦の習、勝負は時の運によるといえども、味方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、負けじということは、千に一も有るべからず。だからといって、敵が大勢し寄せたから逃げたと云われるより、ここで堂々と戦い討ち死にして、その名を子孫に残してこそ武士たる所以がある。堂々と戦おうじゃないか。」