目にしてもそれを殊更に取り上げもしないような小さなものにも柳北は目を止めて書いております。
"殿簷に銅燈数十ありという。みな数百年のものにして・・・”
と。
この本でもそうですが、昔の人はどうしてこんなにも?と、その語彙の豊富さに驚かされます。昨日の「鐺<カマ>」もそうですが、「簷」もまた、そうです。<エン>、「廂」(寝殿の軒下)です。
彼も書いているように、「・・・・ありという。」ですから、実際は目にしたのではないかもしれませんが、現在は神殿の大きな軒下にちょこんと据えられている柳北の言う「銅燈」を写真でお見せします。でも、其の数はたったの2つです。しかも、銅製ではありません。備前焼の灯籠です。銅製のものは戦時中に共出したのかもしれませんが見当たりません。もし彼が見たという銅燈が数百年のものであったとしても今ではそれを目にすることはできません。一時の無謀なる思いによって引き起こされる人間、為政者、によって歴史も何もかも総てを無にしてしまう愚かしい行為を、この現在の備前焼の灯籠を見ながら、改めて、平和の大切さをつくづくと深く思うのです。
"殿簷に銅燈数十ありという。みな数百年のものにして・・・”
と。
この本でもそうですが、昔の人はどうしてこんなにも?と、その語彙の豊富さに驚かされます。昨日の「鐺<カマ>」もそうですが、「簷」もまた、そうです。<エン>、「廂」(寝殿の軒下)です。
彼も書いているように、「・・・・ありという。」ですから、実際は目にしたのではないかもしれませんが、現在は神殿の大きな軒下にちょこんと据えられている柳北の言う「銅燈」を写真でお見せします。でも、其の数はたったの2つです。しかも、銅製ではありません。備前焼の灯籠です。銅製のものは戦時中に共出したのかもしれませんが見当たりません。もし彼が見たという銅燈が数百年のものであったとしても今ではそれを目にすることはできません。一時の無謀なる思いによって引き起こされる人間、為政者、によって歴史も何もかも総てを無にしてしまう愚かしい行為を、この現在の備前焼の灯籠を見ながら、改めて、平和の大切さをつくづくと深く思うのです。