ミコトの夢の中に温羅の霊が現れ
「温羅の妃アソヒメををして釜殿の神饌を炊かしめよ。」
と、お告げがありあす。それ以後、お釜殿に奉仕する巫女は阿曽郷の女性から選ばれたのですが、では、どうして「阿曾」と「吉備津神社のお釜殿」が結びついたのでしょうか????
先に見たように、首部の白山神社には、「温羅は本当は鬼ではなく、朝鮮半島から製鉄技術を伝え、吉備地方の製鉄と深く係わった恩人だったので人々から感謝されていた。」と伝わっておりますが、その温羅の鬼の城の麓にある阿曾地区を歩いてみると、その痕跡はなくなっていますが、土地の人々が
「この辺りには昔は砂鉄が採れたのでしょう。金屋(かなや=鍛冶屋=鋳物師)が沢山あったのだそうです。(この阿曾には明治には九軒)」
と話される場所があります。
それまでにはなかった温羅の伝えた製鉄技術によりできた鉄の鍬や鎌など最新の農業用具が作られ、米などが飛躍的に大量生産され、それが吉備全体に伝わり、人々の生活が向上し、大和や筑紫と並ぶ強大な吉備王国の生まれます。その元になった数々の鉄製品の製造された最初の場所がこの阿曾地区だったということを示すのが、吉備津神社のお釜殿と阿曾女の言い伝えです。
「まかねふく」は吉備の枕詞ですが、これは「日本では鉄はもっぱら吉備から獲れる」ということを意味する言葉ですが、そもそもこの「まかねふく」は当初は「阿曾地域」だけを指す言葉ではなかったのでしょうか???それがだんだんに広がって吉備全体を指す枕詞になったのではとも考えられます。そのようにして出来上がった鉄と吉備の関係を「吉備津彦」「温羅」「阿曾媛」の話と関係つけて作られたのが
”吉備津彦命の温羅退治”
のお話や
”お釜殿の鳴釜神事”
なのです。
このように考えると地域に伝わる昔話や行事は、その物語の生まれた歴史的な背景を詳しく精査し、又、深く考察して、先人のその土地に対する思いもその中に取り込んだ歌だと云えるのではないでしょうか・・・
「温羅の妃アソヒメををして釜殿の神饌を炊かしめよ。」
と、お告げがありあす。それ以後、お釜殿に奉仕する巫女は阿曽郷の女性から選ばれたのですが、では、どうして「阿曾」と「吉備津神社のお釜殿」が結びついたのでしょうか????
先に見たように、首部の白山神社には、「温羅は本当は鬼ではなく、朝鮮半島から製鉄技術を伝え、吉備地方の製鉄と深く係わった恩人だったので人々から感謝されていた。」と伝わっておりますが、その温羅の鬼の城の麓にある阿曾地区を歩いてみると、その痕跡はなくなっていますが、土地の人々が
「この辺りには昔は砂鉄が採れたのでしょう。金屋(かなや=鍛冶屋=鋳物師)が沢山あったのだそうです。(この阿曾には明治には九軒)」
と話される場所があります。
それまでにはなかった温羅の伝えた製鉄技術によりできた鉄の鍬や鎌など最新の農業用具が作られ、米などが飛躍的に大量生産され、それが吉備全体に伝わり、人々の生活が向上し、大和や筑紫と並ぶ強大な吉備王国の生まれます。その元になった数々の鉄製品の製造された最初の場所がこの阿曾地区だったということを示すのが、吉備津神社のお釜殿と阿曾女の言い伝えです。
「まかねふく」は吉備の枕詞ですが、これは「日本では鉄はもっぱら吉備から獲れる」ということを意味する言葉ですが、そもそもこの「まかねふく」は当初は「阿曾地域」だけを指す言葉ではなかったのでしょうか???それがだんだんに広がって吉備全体を指す枕詞になったのではとも考えられます。そのようにして出来上がった鉄と吉備の関係を「吉備津彦」「温羅」「阿曾媛」の話と関係つけて作られたのが
”吉備津彦命の温羅退治”
のお話や
”お釜殿の鳴釜神事”
なのです。
このように考えると地域に伝わる昔話や行事は、その物語の生まれた歴史的な背景を詳しく精査し、又、深く考察して、先人のその土地に対する思いもその中に取り込んだ歌だと云えるのではないでしょうか・・・