"祠殿に於て祈ることあれば、此神鳴釜鳴動すること恐るべしと、・・・・”
と柳北は書いています。
「恐るべしと」です。この釜殿の巫女の説明を聞いて、実際、柳北が聞いた鳴る音は、今、我々がお釜殿で耳にするその鳴る音と同じで、巫女たちの言うほど「恐しい」というほどのものではなかったのですが、「日本で、唯一、奇異なる神の音を耳にすることのできる場所だ。」ということを言いたかから、わざわざ「と」という字を挟んで間接的に説明しています???
そして、このお釜殿に奉仕する二人の巫女の真剣で神がかった姿を見て"千早振神代の人に見ゆる心地せり”として
"荒れはてし 吉備の中山 なかなかに
いますが如き 神の御社”
と、連歌師らしく歌で結んでいます。
「なかなか」は「それ相応に」と「中々」の掛詞です。山全体が大木に覆われ、古色蒼然とした態を現わしている吉備の中山に麓の中深く鎮座ましましている誠に神々しいお宮さんである吉備津神社であることよ。」
ぐらいの意味がこの歌の中に含まれ、神代の人ではないかと思わせるような御釜殿の巫女たちの立ち振る舞いと変わらない厳かなお宮さんだと、最大の賛辞をこの歌の中に詠みこんでいます。
と柳北は書いています。
「恐るべしと」です。この釜殿の巫女の説明を聞いて、実際、柳北が聞いた鳴る音は、今、我々がお釜殿で耳にするその鳴る音と同じで、巫女たちの言うほど「恐しい」というほどのものではなかったのですが、「日本で、唯一、奇異なる神の音を耳にすることのできる場所だ。」ということを言いたかから、わざわざ「と」という字を挟んで間接的に説明しています???
そして、このお釜殿に奉仕する二人の巫女の真剣で神がかった姿を見て"千早振神代の人に見ゆる心地せり”として
"荒れはてし 吉備の中山 なかなかに
いますが如き 神の御社”
と、連歌師らしく歌で結んでいます。
「なかなか」は「それ相応に」と「中々」の掛詞です。山全体が大木に覆われ、古色蒼然とした態を現わしている吉備の中山に麓の中深く鎮座ましましている誠に神々しいお宮さんである吉備津神社であることよ。」
ぐらいの意味がこの歌の中に含まれ、神代の人ではないかと思わせるような御釜殿の巫女たちの立ち振る舞いと変わらない厳かなお宮さんだと、最大の賛辞をこの歌の中に詠みこんでいます。