「吉備の弥生時代」(岡山大学埋蔵文化財調査研究センター編)によると弥生時代の岡山平野南部の地形の地図が載っています。
先ずは弥生前期の地形(1)です。
次に弥生時代後期の地形(2)です。
この絵(1)によると、2500年位前には瀬戸内の海岸線は「吉備の中山」の北麓まで、更に、足守川に沿って岡山平野の奥深く(JR桃太郎線足守駅付近)まで入り込んでいました。それが1700年位前(2)は庭瀬付近まで後退しています。
この海岸線の後退(旭川や高梁・足守川による三角州)により肥沃な稲作可能な広い湿地が生まれます。それとともに大陸から最新の鉄器製造技法も伝わり、多くの鉄製品(鏃・斧・刀子など)が作ら、その新しい技術を利用した沢山の農産物が作られるようになり、より裕福な国が誕生するのです。
なお、当時はまだ日本には製鉄の技術はなく、素材となる鉄片が中国や朝鮮から輸入され、それを加工して二次鉄製品を作っていたのです。それを示す「鍛冶炉」も確認されています。また、それ以前より此の地には銅鐸も作られます。その原料として使われただろう???中国の「新」の貨幣である「貨泉」も沢山出土しています。
高塚遺跡から出た「貨泉」
と、重文の「突線流水文銅鐸」
です。
「豊かな国」は人口の増加を生み、より強大な古代社会が実現するのです。現在と同じように、繁栄を示すバロメーターになるのです・・・・・・と考えると、やはり出雲より吉備の方がより豊かで強力な国であったのではないでしょうか??? では、なぜ、8世紀の「記紀」は、吉備国より勢力の劣る????オホクニの出雲国をさも強国であるように書き記したのでしょうか。より重視したのでしょうか。
皆さんはどう思われますか。
先ずは弥生前期の地形(1)です。
次に弥生時代後期の地形(2)です。
この絵(1)によると、2500年位前には瀬戸内の海岸線は「吉備の中山」の北麓まで、更に、足守川に沿って岡山平野の奥深く(JR桃太郎線足守駅付近)まで入り込んでいました。それが1700年位前(2)は庭瀬付近まで後退しています。
この海岸線の後退(旭川や高梁・足守川による三角州)により肥沃な稲作可能な広い湿地が生まれます。それとともに大陸から最新の鉄器製造技法も伝わり、多くの鉄製品(鏃・斧・刀子など)が作ら、その新しい技術を利用した沢山の農産物が作られるようになり、より裕福な国が誕生するのです。
なお、当時はまだ日本には製鉄の技術はなく、素材となる鉄片が中国や朝鮮から輸入され、それを加工して二次鉄製品を作っていたのです。それを示す「鍛冶炉」も確認されています。また、それ以前より此の地には銅鐸も作られます。その原料として使われただろう???中国の「新」の貨幣である「貨泉」も沢山出土しています。
高塚遺跡から出た「貨泉」
と、重文の「突線流水文銅鐸」
です。
「豊かな国」は人口の増加を生み、より強大な古代社会が実現するのです。現在と同じように、繁栄を示すバロメーターになるのです・・・・・・と考えると、やはり出雲より吉備の方がより豊かで強力な国であったのではないでしょうか??? では、なぜ、8世紀の「記紀」は、吉備国より勢力の劣る????オホクニの出雲国をさも強国であるように書き記したのでしょうか。より重視したのでしょうか。
皆さんはどう思われますか。