「ちょっと」と思って書き出したのですが、つい長話になってしまいましたが、ぼつぼつ終わりにします。その最後の自慢話に、これぞ吉備王国を象徴する大古墳、というより、日本の今、目の前にはっきりとその形状が見え、その遺跡の中をどこでも散策出来る唯一の大古墳をご紹介します。岡山市加茂にある
"造山古墳”です
仁徳(486m)・応神(419m)・履中(365m)陵に次いで日本第4位の大きさ(360m)を誇る大古墳です。
大きさから云うと第4位ですが、その築造年代から見ると、門脇貞二の「吉備の古代史」によると、応神陵は5世紀前半後期、仁徳陵は5世紀後期前半に造られ、それに対して造山古墳と履中陵は5世紀前半前期に造られたそうです。そうすると、この二つの古墳は当時の日本に於ける最大の古墳であったのです。ということは、
"5世紀の初頭”
には、「大和」と「吉備」の力が拮抗しており、互いに覇権を争っていたのではないかと想像されます。倭からすれば吉備はにっくき敵で、その吉備の偉大さを己の歴史書に書くのがはばかれ、取り上げずに、それに代わって、既に、己の大和の勢力下にあった出雲を特に取り上げ、吉備を無視した大和を誇張した歴史書を創りあげたのではと私は考えています。
"造山古墳”です
仁徳(486m)・応神(419m)・履中(365m)陵に次いで日本第4位の大きさ(360m)を誇る大古墳です。
大きさから云うと第4位ですが、その築造年代から見ると、門脇貞二の「吉備の古代史」によると、応神陵は5世紀前半後期、仁徳陵は5世紀後期前半に造られ、それに対して造山古墳と履中陵は5世紀前半前期に造られたそうです。そうすると、この二つの古墳は当時の日本に於ける最大の古墳であったのです。ということは、
"5世紀の初頭”
には、「大和」と「吉備」の力が拮抗しており、互いに覇権を争っていたのではないかと想像されます。倭からすれば吉備はにっくき敵で、その吉備の偉大さを己の歴史書に書くのがはばかれ、取り上げずに、それに代わって、既に、己の大和の勢力下にあった出雲を特に取り上げ、吉備を無視した大和を誇張した歴史書を創りあげたのではと私は考えています。