野々口隆正が石碣の裏面に刻した文です
古今和歌集大歌所歌
真かね布くきひの中山おびにせる ほそ多に川乃おとのさやけさ
とあり、更に、この歌が出来た所以をこまごまと書き綴っています。それをまとめると、仁明天皇の大嘗会(832年)の時に、主基(すき)が吉備の国に決まり、それを祝い吉備の国の風俗歌などが献じられる慣例があり、そのために作られた歌だと。
なお、吉備の国は、その後も、たびたび大嘗会の主基国となり細谷川と吉備の中山がセットになって和歌が詠まれています。
①新古今和歌集に見られる
常盤なる吉備の中山おしなべて千とせの松の深き色かな(村上天皇の大嘗会 946年)
②また、後一条天皇の大嘗会(1016年)の
動きなき君の御代かな真金吹くきびの中山常盤かきわに
③もう一首、御冷泉天皇の大嘗会(1046年)の
常盤なるきびの中山ながく経て細谷川のすみにけるかも
が今の世に伝えられています(太夫集)
この地を訪れた野々宮隆正は、当時、この「細谷川」がどこにあるのかも知らない無知な吉備の人々のためにも、また、広く全国の和歌を愛する人たちにも、
是非、知ってもらう必要がある古跡だとを思って、何かの印を以て残さなくてはならないと考えられて、多分、当時の吉備津神社宮司の藤井高尚の許しを得てからのことだとは思いますが、資金も高尚ほかこの地の真野竹堂などの資産家などの協力を得て、このお場所に建てたのではないだろうかと私は思っております・・・
古今和歌集大歌所歌
真かね布くきひの中山おびにせる ほそ多に川乃おとのさやけさ
とあり、更に、この歌が出来た所以をこまごまと書き綴っています。それをまとめると、仁明天皇の大嘗会(832年)の時に、主基(すき)が吉備の国に決まり、それを祝い吉備の国の風俗歌などが献じられる慣例があり、そのために作られた歌だと。
なお、吉備の国は、その後も、たびたび大嘗会の主基国となり細谷川と吉備の中山がセットになって和歌が詠まれています。
①新古今和歌集に見られる
常盤なる吉備の中山おしなべて千とせの松の深き色かな(村上天皇の大嘗会 946年)
②また、後一条天皇の大嘗会(1016年)の
動きなき君の御代かな真金吹くきびの中山常盤かきわに
③もう一首、御冷泉天皇の大嘗会(1046年)の
常盤なるきびの中山ながく経て細谷川のすみにけるかも
が今の世に伝えられています(太夫集)
この地を訪れた野々宮隆正は、当時、この「細谷川」がどこにあるのかも知らない無知な吉備の人々のためにも、また、広く全国の和歌を愛する人たちにも、
是非、知ってもらう必要がある古跡だとを思って、何かの印を以て残さなくてはならないと考えられて、多分、当時の吉備津神社宮司の藤井高尚の許しを得てからのことだとは思いますが、資金も高尚ほかこの地の真野竹堂などの資産家などの協力を得て、このお場所に建てたのではないだろうかと私は思っております・・・