私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

壬申の乱とは

2020-12-02 11:49:55 | 日記
 又、また、道草です。674年に起きた大友皇子と大海人皇子の甥叔父のよくある天皇家の王位を巡っての争いぐらいに、いままでは、ごく安易にやり過ごしていたのですが、安万侶の「古事記序」に触発されて、改めて「日本書紀」を紐解いて、この争いは一体何だったのか考えてみました。退屈でしょうがお付き合いくださいますようお願いします。

 「天智天皇」の十年です。天皇〝疾病彌留<ヤマヒオモシ>”とあり、「天智」が急に病に倒れ、急いで弟である「大皇弟<ヒツギノミコト>」の大海人皇子をの枕元に呼び、申します。
 「後のことはお前に頼む。」
 すると、大海人皇子は
 「私は多くの病気持ちですから、後のことは大友皇子を「儲君」にしてお任せしてください。これから私は出家して僧になり、陛下のために功徳を修めたいと思います。」
 と言って、すぐに剃髪してしまいます。それを見て天智天皇は大海人皇子に袈裟を賜ります。それから、仏の道を修行したいからと、天皇の許しを得て吉野に赴きます。なお、「儲君」は皇太子という意味です。

 これが書紀に書かれている大海人皇子の吉野行きです。
 「お前に後をゆだねる。」
 という天智の言葉は「もしかして??」と、大海人皇子のその時の本心「次の天皇は自分に。」というい思いを探るための誘いの問いかけであったのでしょうか。本当は大友皇子に次の天皇にと思われていたのでしょうが。その思いがこの「あとは委ねる。」という言葉の中に隠されていたのです。そこらあたりに天智と大海人との間に確執があったのでしょう??。それを慮った大海人皇子が、それ以後の己の運命を察知して、それを回避するための一番の方法は「剃髪して法衣を着る・」だと考えてそれを言葉にして出したのです。その言葉に「大友皇子はこれで安心できた。」と思われたのでしょうか天智天皇は大海人皇子に法衣まで贈っています。