私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

壬申元年七月二十三日です・・・」

2020-12-17 10:21:08 | 日記
 瀬田橋の東西に分かれた近江軍と吉野軍との最後の合戦です。あれほど大勢の兵を持ちながら、いとも簡単に近江の軍勢は敗れ散り、大友皇子は家臣2,3人に守られてながら逃げ延びますが、その様子を日本書紀には
 
  “於是大友皇子。走無所入。乃還隠山前。以自縊焉。時左右大臣。及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。只一二舎人従之。”
 
 とあります。なお、この「山前」ですが、その場所は、もしかして、秀吉と光秀のあの「山崎」ではとも思うのですが????
 このように寂しく大友皇子は「縊焉、クビレマシヌ>」。首を括って死んでいます。

 これが「壬申の乱」です。674年の日本の最初の「天下分け目の戦」です。しかし、まだ、これで総てが終わり、次の、武天皇の御代とはいかないのです。なぜなら、大友皇子が父・天智天皇を助けて「太政大臣」として国政に携わった時の左・右大臣など主な家臣はこの瀬田橋の戦いの最中に逃亡して近江付近のどこかに逃げ隠れていました。その彼らを亡き者にしなくては安心した大海人皇子の政権は作れないのです。その辺りの歴史的な経緯・様子も書紀には書いてありますので、それも一緒に、後しばらく書いてみますので、お読みいただければと・・・