「赤<カネ>」という合言葉を使って大勝利した近江軍の「小隅<ヲス>」ですが、その翌日六日の戦い(莿萩野<タラヌ>)で吉野軍に敗れ敗走してします。更に、七日、八日の戦いでも近江軍は吉野郡に次々と敗れて行き、遂に、二十二日、吉野軍は「男依<オヨリ>」を大将として瀬田に於いて大友皇子と対決します。
その時の大友軍の戦闘態勢について大日本史には次のように書かれてあります。
「瀬田橋の西に大陣敷き、その後ろはどのようになっているのか全く見えなほどの旗や幟を打ち立て、人馬の発てる塵や埃で天を蔽うかのようで、鉦太古の大きな音が数十里の先にも聞こえ、大きな弓で矢を雨の如に頻りに放ちます。」
と。
これだけを読むと近江軍の勢いが盛んで、吉野郡は手も足も出ないのではないかと思えるほどの勢いです。さてその結末は???
その時の大友軍の戦闘態勢について大日本史には次のように書かれてあります。
「瀬田橋の西に大陣敷き、その後ろはどのようになっているのか全く見えなほどの旗や幟を打ち立て、人馬の発てる塵や埃で天を蔽うかのようで、鉦太古の大きな音が数十里の先にも聞こえ、大きな弓で矢を雨の如に頻りに放ちます。」
と。
これだけを読むと近江軍の勢いが盛んで、吉野郡は手も足も出ないのではないかと思えるほどの勢いです。さてその結末は???