大友皇子の妃になっている娘「十市皇女」からの竊かな手紙を見て決心をされます。それを日本書紀には、
〝然今不獲已。慶承禍。何黙亡身耶。」
「やむを得ない身に降りかかった禍を、黙って受けて、己の命をなくすることがあっていいだろうか。」
と、早速に家臣の男寄<ヲヨリ>を美濃国に派遣し、兵を起こして、不破関を厳重に守るように命令します。不破ノ関は東海道の重要な拠点だったのです。
それから直ぐに天武は吉野を出発し、味方の人数を次第に増しながら伊勢の国に入ります。途中で天武の御子である高市皇子や大津王子も近江より逃げて鈴鹿の関で合流します。天武は東海道や東山道へも使者を派遣して兵を要請しながら、段々と、その勢力を増強しながら「桑名」に至りそこに暫く留まります。
なお、この時天武と共にしていた人たちの中には、妃の持統(天智の皇女)や女孺十余人がいたのです。女性を伴に加えての旅ですから大変な旅だったと想像できます。
〝然今不獲已。慶承禍。何黙亡身耶。」
「やむを得ない身に降りかかった禍を、黙って受けて、己の命をなくすることがあっていいだろうか。」
と、早速に家臣の男寄<ヲヨリ>を美濃国に派遣し、兵を起こして、不破関を厳重に守るように命令します。不破ノ関は東海道の重要な拠点だったのです。
それから直ぐに天武は吉野を出発し、味方の人数を次第に増しながら伊勢の国に入ります。途中で天武の御子である高市皇子や大津王子も近江より逃げて鈴鹿の関で合流します。天武は東海道や東山道へも使者を派遣して兵を要請しながら、段々と、その勢力を増強しながら「桑名」に至りそこに暫く留まります。
なお、この時天武と共にしていた人たちの中には、妃の持統(天智の皇女)や女孺十余人がいたのです。女性を伴に加えての旅ですから大変な旅だったと想像できます。