吉野軍に敗れた「大友皇子」は瀬田から「山前<ヤマサキ>」にまで退散します。最後は2,3人の家臣を引き連れただけの、誠に寂しい道行でした。近江が終焉の地となった木曽義仲と同じような、もうこれが最後だと覚悟を決めた大友皇子はここで「自縊」します。
この「山前<ヤマサキ>」を、わたしは何も考えないで「光秀最後の場所 山崎」と考えたのですが、距離的に言って少々無理があるように思い再調査してみました。「日本書紀新講」によると、この「山前」は
“近江国滋賀群・長等山の「山前」で、今の三井寺の地である”
と書かれています。現在の大津市御陵町にある「弘文天皇陵」のある辺りがその終焉の地だと推定されています。
なお、日本書紀には「弘文天皇」という名前はありませんが、大日本史の中には堂々と「弘文天皇」と書かれていますが・・・
この「山前<ヤマサキ>」を、わたしは何も考えないで「光秀最後の場所 山崎」と考えたのですが、距離的に言って少々無理があるように思い再調査してみました。「日本書紀新講」によると、この「山前」は
“近江国滋賀群・長等山の「山前」で、今の三井寺の地である”
と書かれています。現在の大津市御陵町にある「弘文天皇陵」のある辺りがその終焉の地だと推定されています。
なお、日本書紀には「弘文天皇」という名前はありませんが、大日本史の中には堂々と「弘文天皇」と書かれていますが・・・