私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

私には灰色の服は似合わないので・・・・

2017-12-09 11:12:06 | 日記

 オホクニは、いかにも、その美人の妻と立ち別れるのを惜しむか如くに高々らかに、
 「初めに着ようと吾の選んだ灰色の衣服は、どうもしっくりこない。だから、そんな服は

           “幣都那美。曾邇奴岐宇弖<ヘツ ナミ。ソニ ヌギウテ>”」

 と、歌っております。
 「あまりにも、私にはこの服は似合わないので、波辺あたりに脱ぎ捨てよう」と言っているのでなないかとも思われますが。どうでしょうかね???

 そこでまた、「古事記伝」から。それを宣長は

 「邊浪磯<ヘツナミソ>に脱棄<ヌギスツ>」で、波の立ち騒ぐ磯に脱ぎ棄てる事で、「宇弖<ウテ>」は「棄て」だ」

と、くどくどしくなりますので詳しくは書きませんが、その用例をいくつも挙げて説明しております。


オホクニの旅立ちの歌を・・。本当は離れたくなかったのでは

2017-12-08 09:53:17 | 日記

 あまりにもの毘売の美しさに後ろ髪を引かれるような思いがあったのではないでしょうか?オホクニは旅立ちの時に、その妻「須瀬理毘売る<スセリヒメ>に「最後通告」ではありませんが、別れの言葉を送っております。鼠色の服をきちんと着ているのですが、その自分の姿を

                “游岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母” 

                「游沖つ鳥   胸見る時    羽叩ぎも」  

  です。これについて、宣長は

 「左右の手を張り、袖をたぐり揚げて、かの水鳥の胸見る如くにして、吾着装(あがきよそい)たる衣を 好(よ)しや悪(あ)しやと見るを云うなり」と説明しております。
 しかし、そんな装束もこうしてつくづく見ると

       “許礼婆布佐波受” 「これは相応(ふさ)はず」

 「自分には似合わず、気に入らないのです」と、高らかに毘売に訴えるように、また、この格好はどうでしょうかねと毘売に訊ねるように歌うのです。この辺りも、何か、これから旅立うとするオホクニの心に違和感があるように思われます。本当は見も知らずの倭の国などへ旅立ちたくないように思っていたのではないでしょうか。本心は、愛する毘売から離れたくなかったのではないでしょうか???

 


須瀬理毘売は超美人だったのか???

2017-12-07 10:13:53 | 日記

 オホクニが、妻の嫉妬のため、出雲から逃げ出そうとしたのです。その妻に知られないように、こっそりと出て行くのが当たり前だと思うのですが、どうしてか分からないのですが、オホクニはその出発に先立って、須瀬理毘売に歌を歌って出発されようとします。「手を馬の鞍に宛てがい片足を鐙に掛けて。」と説明があります。完全に馬に乗ってからではないのです、将に、これから馬に乗ろうとしてからです。どうして、こんな時に、妻に向って偉そうに悠然と歌など歌ったのでしょうかね???オホクニの心は、此の時は、この美しい妻である毘売に、まだまだ、十分に愛着を感じていて、出来ることならそのんな倭国等には行きたくなかったのではないかと、それくらいこの美しい毘売を愛していたのだろうと想像がつきます。何か出発の挨拶をすれば、きっと妻はその嫉妬心を和らげ、もう少し私の立場を考えてくれるようになるのではと、大いに期待を込めて、わざと歌ったのではないでしょうかね???でも、この歌があったために、当時の旅の装束の一端を伺い知ることが出来き、風俗歴史を研究する者を喜ばす一文になったのです。

 さて、その歌ですが、まず最初に、

     “久路岐 美祁斯遠<クロキ ミケシヲ>”
 
とあります。
 これは「黒き御衣」で「黒色の服を着て」と云う意味です。なお、この「黒き御衣」ですが、当時も、黒い衣裳は喪服で、大変縁起が悪い着物であり、普通だったら旅立ちの時には、そのような服装をしないのが当たり前でした。
 これについて、宣長は「此処で言う黒は、鼠色か鈍色みたいな色だ」と、説明があります。そのような服を

   “麻都夫佐爾 登理與曾比<マツブサニ トリヨソヒ>”

 です。「ま具(つぶさ)に 取り装(よそ)ひ」、「私は落度なく立派に旅装束を整えております」と云う意味です。


オホクニの旅立ちの裳束は

2017-12-06 09:52:38 | 日記

 古事記を読んでいくと、時々、どんでもない珍しい当時の風習を知ることができます。民俗学者にはたまらない貴重な資料となっていることには間違いありません。
これからの数行に書かれている文もまたその一つではないかと思われます。当時の旅立ちの様子が次のように記しております。まず

                   “束裳立時<ヨソヒシ タタストキニ>” 

 と、「装束」ではないのです。辞書によりますと「装束」とは、特別な時に備えて身支度をする事ですが、それがここでは“束裳<ヨソヒシ>”となっております。この二つはどのような関係かは分からないのですが、兎に角、オホクニは遠い倭国まで出て行くのですから大変な身支度を整えて出発したものだと思われます。一人で出発したとも思えませんが、その辺りのことはないも説明がありませんが、もし書いてくれていてくれたなら、ものすごい古代研究の資料となるのですが・・・

 これからいよいよ倭の国に出発ししようとする時、オホクニはその妻「須勢理毘売]にわざわざ挨拶をして旅立っております。それは当時の風習うだったのでしょうが、大変珍しい別れをしていたのでしょうね。

 片方の手を馬の鞍に懸け、片足は馬の鐙に入れて別れの挨拶をしております、馬に乗ってではありません。

 


オホクニは倭の国へ逃げ出します、其の倭とは?????

2017-12-05 08:39:47 | 日記

 オホクニはその妻「須勢理毘売」の嫉妬に嫌気がさしたのでしょうか、出雲から逃げ出して、倭国へ行こうと思われます、それを古事記では

                    “自出出雲将上坐倭国而”

と書いて <イズモヨリ ヤマトノクニニ ノボリマサム トシテ>と読ましております。
 スセリヒメのいる出雲から逃げ出したくなったのですから、その逃げ先は、普通ならば、須佐理日売のいる越国か、あの八上比売がいる伯耆国に向かわれるのが当り前だと思うのですが、オホクニが向かった先は倭国だったのです。何故、倭の国を目指したのかは分かりませんが???また、ここでは「上」を<ノボル>と読ましております。本来なら「上<ノボル>」は、一寸法師のお話からでも分かるように、「鄙の地」から「都」へ出て行く時に使う言葉です。でも、其の当時は、まだ、倭国に日本の「都」があったわけではないのですから、本来なら少々この場にそぐわないおかない表現のはずですが、何らかのオホクニと倭が当時から繋がりがあって、その倭は後の都になった場所ですから、それを先取りをしてそのように言い表わしたのでは???と、宣長も書いております。

 これを今では普通に
  「出雲から遠い大和の国へとたびたつことにきけた。」
 と訳されています。あまりあれこれと詮索しなくても、それでいいのではと思いますが、このような私流儀の理屈っぽい解釈も、又、案外面白い思いがするものですよ。