私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

太古の人の長寿について

2018-02-20 09:40:03 | 日記

 武内宿禰が320年もの(愚管抄には380余歳と)長寿であたっと書いたのですが、大変な長寿者が太古には存在していたように記記には記されております。この宿禰の他にも200歳以上を生きた人はざらにいたようです。まあ、事のついでですのでその例を幾人か挙げてみたいと思います、なお、オホクニ、イザナギ、アマテラスなどの年齢は何も記されていないので不明なのです、此処に上げたのは記紀等に記されている者だけなのです。念のため。

 さて、女性に年齢を尋ねるのは失礼だと言われているのですが、敢て、今日は、其の年齢を、大変不敬なる事だとは思いますが、探ってみます。
 まず、初めは
             
                     “倭迹迹日百襲姫命<ヤマトトトヒモモソヒメノミコト>”

 御存じだとは思いますが、彼女は孝霊天皇の皇女で、我が吉備津彦命の姉君で「箸塚古墳」の主です。この人は吉備津彦命と共に吉備津神社にもお祭されております。
 さて、此の姫については、父孝霊天皇の死後百二十七年(崇神天皇の十年)に起きた
                       「武埴安彦」
 の反乱を事前に察知して未然に防いだと、書紀に書かれております。それから推定しても、その時の姫の年齢は150歳近くはなっていたはずです。然るに、書紀には、更に、姫は、この後、大物主神の妻になります。その時の年齢は驚くことなかれ百七,八歳になっていたのす。
 此の姫の夫となった大物主神は妻の家に夜しか訪ねて来ません。だから、姫は夫の顔を見たことがありません。だからある夜、夫に
 「愛しの我が背子。私はあなたのお姿を見とうございます。朝まで此処にいてください。おねがいします」
 と、頼みます。夫である大物主神は
 「そうか、わかった。明日の朝、あなたの櫛箱の中にいます。見て下さい。でも、私の姿を見ても、決して、驚かないでくださいね。約束ですよ」
と。その翌朝、その箱を見た姫は驚きの声を上げます。そこには美しい小蛇(こおろち)がいたのです。姫は思わず「キャー」と驚きの声を上げます。それを聞いた大物主神は「よくも私に恥をかかせたな」と怒って三輪山に逃げ帰ったのだそうです。それを悲しんだ姫はその場に座り込んで、その時、箸が陰部に突き刺さり姫は死んでしまったのだそうです。なお、その事からこの姫の墓を「箸塚」と呼ぶようになったのだと言い伝えられております。


武内宿禰の生涯

2018-02-19 10:07:49 | 日記

 へんてこりんな道に迷い込んでしまったのですが、ここで「武内宿禰」の生涯をまとめてみます。私の持っている、これも、又も又ものですが、前に何回かご紹介したことのある自慢本ですが「日本王代一覧」(文政7年の補刻本)によりますと、その生涯を次のように書いてあります。(巻之一)

                    

”武内大臣ハ景行ノ時ヨリ以来成務・仲哀・神功・応神ヲ歴テ、此代に薨ず。凡六代ノ間政ヲ執コト二百四十余年、其齢三百十七歳トナン。或ハ三百三十歳トモ云リ”

 と。
 あの現代の最も有名な長寿者「日野原先生」も百五歳で大往生されましたが、それよりも三倍も長生きされたのです。多分、これまでの記録に残っている世界一の長寿者だったことに間違いありません。それに、昨日書いたように、300歳近くなっても、まだ、その子が生まれたのですから驚くべき世界的な珍事だとしか言えないと思います。

 


武内宿禰の驚くべき力が!

2018-02-18 12:06:49 | 日記

 武内宿禰の活躍は仁徳天皇の時代になっても続いております。それについて書紀には 
 
 応神天皇の皇子が生まれた時、その産殿<ウブドノ>に、なぜか、木莬<キズ>が飛び込んで来たのだそうです。不思議がられた天皇は、早速、武内を呼び
  「こんなことってあるのかな??」
 と尋ねられます。丁度その時、武内の家でも、武内の子が生まれ、天皇の子と同じように、その産殿には「鷦鷯<サザキ>」という鳥が飛び込んできたのです。
 武内宿禰は答えます。 
 「これは、これからその皇子の将来に大変にいことが起こるという天のお告げです」
 と。そこで天皇は言われます。
 「これは大変嬉しい事だ。では、お互いにその鳥の名を交換して、子供の名前にしただどうだろうか」
 こうして天皇の皇子の名を「大鷦鷯皇子」に、武内の子の名を「木莬宿禰」と付けられたのだそうです。

 これだけ聞くと、これは大変な慶事のように思えるのですが、「ちょっと待てください。」という、大変な疑いが当然のことのように起きて来ますよね。だって、その時、武内宿禰は、もう300歳近くになっていたはずです、そんな年になっても、まだ、子供ができるなんて????そんな生物的生殖能力があったとは、到底考えられませんもの。
 でも、この事からは、応神天皇の皇子の名が「大鷦鷯」となったという訳だけは分かりますが。


116歳が、まだまだ、活躍します・・・

2018-02-16 10:45:14 | 日記

 神功皇后の御代、この武内宿禰はこの新羅征伐の後も数々の功名を打ち立てます。あの幼子に酒を飲ませ泥酔させた事件もありました。でも皇后は六十九年間も、武内宿禰などの良臣に支えを受けながら政務に励まれ、御年百歳で崩御されます。しかし、宿禰は、まだ存命で、次の応神天皇になっても、この幼い天皇を助けて政務にあったっておりました。御年はもうとっくに二百年か越えております。でもまだ、驚くなかれ!!!!。大臣として天皇のお側に仕えております。
 その応神天皇も在位四十一年で御年百十歳で崩御されます。しかし、武内宿禰は、まだ存命で、次の天皇「仁徳天皇」の御代になっても大臣として活躍されるのです。驚くべき長寿の人だったのです。日本書紀に、この仁徳天皇の時の武内宿禰の活躍も書いてありますので、それを、また、明日にでも書いて、世界一長寿者の記録を探っていこうかと考えております。


神の崇りのため亡くなられた仲哀天皇の・・・

2018-02-15 09:42:29 | 日記

 たった在位9年でお亡くなりになった仲哀天皇の後を受けて政治をしたのが、その妻であった「神功皇后」です。この皇后の政治を助けたのが116歳になっていた武内宿禰です。
 この皇后が、先ず、行った政治が、先の天皇が神託を受けて、それを無視したために早死にした原因になた海の向こうにある国への侵攻です。皆さんは、既に、この時の数々の神事について御存じだとは思いますが、誠に、日本の国に都合いいことばかり書いてありますが、それもついでですから書いてみます。お暇なら御読みください??????

 その時、皇后は、116歳の武内宿禰をして、まず、神に剣と鏡を掲げさせ、神に捧げるお米を作る神田を造るための溝を掘らせます。でも、その途中に大きな岩があり水を流すことがでず、稲を植えることができません。どうするべきかと宿禰が考えていた矢先にです。天、俄かに掻き曇り、大轟と雷鳴が鳴り響き、その大岩を打ち砕いて、水が神田まで流れ出したのです。
 さらに、この後、皇后はすぐに香椎宮に戻り髪を解いて海に入って行かれ、頭を水につけます。すると、自然に皇后の髪が二分されます。皇后はその髪を「美豆羅<ミズラ>

                  

 に結いあげ男装になられて、神のお告げの西にある国への軍を進めます。その時、皇后は臨月であったのですが、傍にあった石をとり
 「事が終わって帰ってきたから此処で生まれてほしい。その時まで、しばらく待ちなさい」
 と、お祈りします。その為に、その御子(応神天皇)は皇后の腹に1年6ヶ月もいたのです。それから軍団を組んで玄界灘の大海原にこぎ出ます。でも、風神も浪神の助けもあり、更に、そこら辺りの海にいる総ての魚までもが集まり船団を囲んで運んでくれたので、舵や櫂を使うことなく大海原を渡って、何事も無く新羅にお着きになられたのです。

 このような日本の国に「いい事づくめ」ばかりのお話が、まあ、日本のお話ですからそれでもいいかとは思うのですが書紀には載っております。