私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

仲哀天皇の代になってもまだ

2018-02-14 08:42:01 | 日記

 武内宿禰について調べているのですが、先に上げたまだ幼子にお酒を無理やりに飲ました母親ですが、この人こそ「神功皇后」です。この皇后は、成務天皇の後の仲哀天皇の后です。

 此の仲哀天皇ですが、日本武尊の皇子です。ある時、熊蘇を征伐するために九州に赴かれます。その時、
 
 「今、何もない至って貧しげな熊蘇などを相手にしないで、此の海の向こうにある、金銀財宝がいっぱいにある大変豊かな国を攻めなさい」

という神のお告げが神功皇后にありました。それを伝え聞いた仲哀は、早速、そこら辺りにある高山から海の彼方を眺められます。そこにはあるのは荒波の立つ海で、神のお告げのような島影なんて、いくら目を凝らしても見えません。天皇は神のお告げを無視してしまいます。折角、神のお告げを賜ったにもかかわらず、天皇はそのままにしていました。そのためかどうは、書紀には何も書かれては無いのですが、神の怒りに触れられたのか、その半年ほどの後、突然に、病気で亡くなられます。神の怒りに触れたのでしょうか???此の時も皇后のお側にいた武内宿禰が活躍します。それから皇后のあの三韓征伐が行われます。あのお酒の皇子は、此の時、皇后のお腹の中にいたのですが、お生まれになられたのはそれから約16ヶ月後です。

 このように、この天皇は神の崇理の為か在位9年で亡くなられます。でも、その時は武内宿禰の年は、すでに116歳になっております。


成務天皇の御代です

2018-02-13 08:46:43 | 日記

 景行天皇は在位60年、御年106歳、御子70余人であったと伝えられています。次の天皇が

         “成務天皇”

 です。日本書紀には、

   “三年春一月七日、武内宿禰を大臣とされた。天皇と武内宿禰は同生まれであって、その為に可愛がられた”

とあります。此の天皇は107歳でおなくなられておりますが、ということはその時の武内宿禰も107歳であったのです。
不思議なことですが、この成務天皇の後の仲哀天皇の時にも「武内宿禰」は、まだ、活躍しておるのです。それは仲哀天皇がお亡くなりになった九年二月五日、

  ”皇后と大臣武内宿禰は、天皇の喪をかくして天下にしらされなかった。・・・」

 とあります。ということはまだ生きておられたのです。御年を計算すると、116歳です。それでもまだ彼の名前は次の天皇の時代にも見られます。なお、ここにある皇后はあの有名な「神功皇后」です。

 


さて、武内宿禰は・・・・

2018-02-12 09:30:57 | 日記

 世界で最も長生きした長寿記録保持者だと思うのですが、武内宿禰の事について書かれている古事記・日本書紀を少々覗いてみます。

 まず、武内宿禰の名が見える最初は「日本書紀の景行天皇」の時にです。

     “二十五年春二月十二日、武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民のあり様を視察させ
      られた。”

 とあります。その結果、これが元になって日本武尊の蝦夷征伐が行われたのです。

 此処で又例によって、「ええかげんにせえやー」と言われること覚悟で例の脱線にです。

 というのは、この遠征に日本武尊の副將として遣わされた人が吉備の国の人ですので御紹介しようと、敢て、書いております。その人の名前は、古事記には「御鉏友耳建日子<ミスキトモミミタケヒコ>」と書かれております。この人は孝霊天皇の時に

                   “言向和吉備国<キビノクニヲ コトムケ ワス>”

するために派遣された吉備津彦命と共に吉備の国にやってきた弟君の「若建吉備津日子命」のお子様なのです。なお、日本武尊の母親はこの「若建吉備津日子命」のお子様で

                   “針間之伊那毘能大郎女<ハリマノ イナメノ オオイラツメ>”

 です。ということは、この遠征に参加した大将と副将は従兄弟関係にあり、当時、大和と吉備がとても深い絆で結ばれていたと言う事が分かります。

 しかし、この「御鉏友耳建日子」の名前は、どうしてかは分からないのですが、「古事記」にだけで、日本書紀にはありません。それも、「吉備武彦」という別の名で書かれております。

 なお、現在、吉備津神社では、日本書紀にある「吉備武彦命」は「新宮」として特別に神殿を作りお祭しておりますが(明治以降は本宮に合祀)、古事記にある「御鉏友耳建日子」は、祭神として、どうしてかは分からないのですが、その名前すら見ることができません。「タケヒコ」という名だけが同じになっておりますが。


建国記念日です

2018-02-11 16:07:13 | 日記

 今日は「建国記念の日」です、どうして今日かと云えばです。明治の御代,どなたが思い付かれたのかは分かりませんが「2月11日」を日本の「紀元節」として休日にしたのだそうです。それが、戦後、暫らくして、これ又調子者の歴史を知らない復古調の馬鹿者たちが、紀元節を「建国記念の日」という呼び名に変えて、国民の祝日としたのです。
 今、私も、その歴史的事実としての信用性のあまりない古事記や日本書紀を元にして「オホクニヌシ」や「武内宿禰」を書いているのですが、この人と、この「建国記念の日」は何らかかわりはないのですが、古事記を今取り上げている関係で、日本の建国について、ちょっと、その事に触れてみます。
 その古事記には、何時頃、「神武天皇」が即位されたかは書かれては無いのですが、日本書紀には、はっきりと、書かれております。

      ”辛酉の年春一月一日、天皇は橿原宮にてご即位になった。この年を天皇の元年とする。”

 と。
 
 この「辛酉の年春一月一日」が、新暦に当てはめると、ちょうど「二月十一日」にあたるので、この日を無理やりにではないでしょうが、やや強引に????我が国の建国の日と定め、明治の政治家たちが、本気ではないでしょうが、「紀元節」としたのです。
 天照大神が生まれた日とか、イザギイザナミが国生みをした日とかの方が、伝説的にですが、より適切な「日本の建国の日」だと思うのですが、それらの日が何時であると言うことが記紀にははっきりとは書かれては無く、仕方なく「日本書紀」に出ているこの日日が一番はっきりとした日本歴史上の日ですから、この日を「建国の日」にしただけのことなのです。もし、日本書紀にでも、「天照大神が何時何時お生まれになった」と書かれていたなら、二月十一日ではなく、当然、その日が建国日にあなっていたはずですから、余り本気で此の日が「建国記念の日だ」なんて騒ぎ立てないでもいいのですが??????
 でも、今年は、幸い今日は冬季オリンピックが開催されて、関心がその方に向いているので、丁度、いいのではと私は一人ニヤニヤしております。

 またまた、今日も、横道の横道の細道の中にはいりこんで、此の「愛国心のない非国民の馬鹿者めが」と、お叱りは覚悟して書いております。

     


武内宿禰の長寿は並大抵のものではありません

2018-02-10 09:47:31 | 日記

 景行天皇の時代に登場した武内宿禰は、日本書紀によりますと、景行天皇の次の成務天皇も宿禰と歳が同じだったということから、特にかわいがられ大臣になっております。この天皇は書紀によりますと、亡くなられたのが御年百七歳だと記されております。ということは、此の時、宿禰もやはり百七歳だったのです。まあ、このくらいの長寿者は、あの日野原さんもおられたのですから、驚くには値しません。でもです。この武内宿禰は、これも書紀からですが、次の仲哀天皇がお亡くなりになられた時に、皇后は、その亡骸を天皇が大変愛していた土地「豊浦津」(山口)にある「穴戸」に宿禰に命じて、一時的に仮葬させます。ということは、此の時間宿禰は、まだ、存命だったのです。ちなみに仲哀天皇の在位期間は九年ですから、この時、すでに百十六歳だったのです。

 「へー、まだ!!!!」と思うのですが、驚くなかれです。この仲哀天皇の皇后であった「神功皇后」の時代になっても、百十六歳で、まだ、政治の中心にいて皇后の政務を補佐しています。この皇后は在位六十九年です。皇后が崩御の時は宿禰の年は百八十五歳になっております。