私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

下照比売の声を聞いた親子は、地上に、「喪屋<モヤ>」を・・・

2018-05-22 11:01:43 | 日記
 下照比売の哭声が風に乗って天にまで届きます。その声は、当然、アマテラスや高御産巣日等の天上の神々にも、更に、地上に居るオオクニにも届いたはずですが、その哭声を聞いた天若日子の父母とその兄弟たちだけが、当然のことですが、歎き悲しみ、早速、地上に降って、先ず

           “於其処作喪屋而<ソコニ モヤヲ ツクリテ>

 喪屋<モヤ>を作り葬儀を執り行いますが、この「喪屋」についても、古事記伝から。
 
 宣長は、喪<モガリ>」は(まがごと)から出来た言葉で、「マガ」を詰めれば「モ}になり、「コト」をつめれば「コ」になり、「モコ」つめれば「モ」になり、それが「喪」と云う言葉になったのだ。と。
 だから、死は、「まがごと」の中でも、その最も「凶事(あしきこと)」だから、死者を、先ず、その死体置き場を作り、そこに仮安置してから葬儀を行う習慣が古代には普通であったのだと。

 ということは、それまで住んでいた場所に死者の「凶事」の総てが残らないように、他の場所に移してから、葬儀をする習慣が出来あがったのでしょう???

 これを読むと、少々話が違うのかもしれませんが、現代の葬儀は、その「通夜」も「葬儀」も、総て、葬儀屋で行われますから、ここが、現代の「喪屋」となって、その機能を果たしているのでしょうか???これも現代の「古代帰り」の一つでしょうかね。ただ、自宅でするのが面倒だからという理由だけではなくて、「大昔はね・・・」と云い訳出来るからでしょうかね。

 

天若日子の死して・・

2018-05-21 09:08:00 | 日記
 其の妻下照比売<ヒタテルヒメ>です。愛する夫が、突然、かって自分が愛用していた矢に当たり死んでしまいます。彼女には、どうしてそうなったかさへ分かりません。その死に対して、ただ

             “哭声ナカセルコエ>”

 だけです。「哭」ですから、一人ひっそりと悲しみをこらえて、静かに涙を流すのではありません。大声を上げて激しく悲嘆にくれて当たり構わず泣き騒ぐのです。彼女にとっては、それぐらい突然の夫の死だったのです。
 そのような激しい声でしたので

           “與風響到天<カゼノムタ ヒビキテ アメニイタリテ>

 ここでは「與風」を、特別に、<カゼノムタ>と読むのだそうです。意味は「風の共<ムタ>」で、風と一緒にと云う意味です。あまりの大声だったのでしょうか、下照比売の泣き声が天にまで届いたのです。どのくらいの大きさかと云う事が分かります。今では聞くことができないくらいの大音響だっはずです。 

雉之頓使<キギスノヒタツカヒ>no2

2018-05-20 09:28:40 | 日記
諺「雉之頓使」を、もう一つ、吉備と大いに関係のある「古事記」に記されている例からご紹介します。昨日の「崇神天皇」の次の次「景行天皇」の御代のことです。その后に

        “針間之伊那毘能大郎女<ハリマノ イナビ オオイラツメ>”

 と云う人がおられます。この女性は“吉備臣等之祖若建吉備津日子之女<キビノオミラガオヤ ワカタケキビツヒコ>だと書いてあります。ということは、大吉備津日子命の副将として吉備にやってきたあの弟日子の娘なのです。
 此の大郎女と天皇の間でお生まれに皇子に大碓命<オホウスノミコト>小碓命<ヲウスノミコト>等があられますが、この「小碓命」があの

       “倭建命<ヤマトタケルノミコト>”

 です。彼は有名な蝦夷征伐を行いますが、その時も、やはり、副将として

        “御鉏友耳建日子<ミスキトモ ミミ タケヒコ>”

 を遣わしております。
 この御鉏友耳建日子は「吉備臣等之祖」とあります。しかし、この人の名前は「日本書紀」にはなく、代わりに「吉備建彦命」の名が見えます。

 なほ、この二書を考慮してか、「吉備津神社記」には

     “若日子建吉備津日子命の子に、御鉏友耳建日子命あり、其の子を吉備建彦命となす”

 と記されております。

 蛇足;「針間之伊那毘能大郎女」は、日本書紀には、「播磨稲日大郎姫」となっております。

“二柱相副而”

2018-05-19 10:24:23 | 日記
       “雉之頓使<キギスノヒタツカヒ>”
 が忌み嫌われて、「天若日子」の事件以後、誰かを何処かへ派遣する場合は、必ず、「副將」を副えて行うようになったのですが、その例を吉備の国の故事より。

『考霊天皇はその皇子「大吉備津彦命」と「若建吉備津日子命」の二柱を

           “相副而<アイソハシテ>”

 吉備の国を“言向和<コトムケヤハス>”ために派遣します。』
 と、古事記には記されておりますが、これが何時行われたのかは何も書かれてはいません。それが、日本書紀には、はっきりと、
 「大彦命を北陸に、武淳川別を東海に吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。」
と書かれてありまから、古事記には記されてはいないのですが、大吉備津彦命が吉備国を平定した時は「崇神天皇」の時代だと言う事が分かります。此の時、吉備津彦命は一人で遠征したのではなく、此の記事から、もきちんと「副将」として、弟君の日子若建吉備津彦命を従えて、一緒に吉備国にやってきたことが分かります。昨日の「雉之頓使」ではなかったのです。

”雉不還”で“雉之頓使”と云う諺が生まれます

2018-05-18 09:51:12 | 日記
 使いに出した雉も死んでしまい、その雉を射殺した矢は天にまで届き、その矢を、再び、地上に天神が「衝返下<<ツキカエシ>」、投げ返します。結局、その矢に当たって天若日子も死んでしまったのですが、此の事件から『諺』が生まれたとあります。「コトワザ」です。日本で生まれた「諺一号」です。その諺を生む原因になたそれが、

        “雉不還<キキスカエラズ>”
 
 と、此処では、この3字は何らその必要性が無いように思えるるのですが、どうしてかは分からないのですが、敢て、ご丁寧に添えて居りますが。しかし、その言葉が元になって引き出された「諺」の日本初の言葉が

        “雉之頓使<キビスノ ヒタツカヒ>”

 です。
 此の説明も、又、かの宣長先生より。彼曰く、

 『頓<ヒタ>は、「ヒタスラ」などのような「ヒタ}で、「一」と云う意味があり、誰も家来などを連れずに単独で使いをするを頓使い<ヒタツカヒ>と云い、これ以降、単独で派遣することが忌み嫌われ、避けるようにりなったのだ。』

 と。
 
 これまでの歴史を見ていますと、これ以後の幾多の重大な遠征などの場合は、必ず、副將や従者を付けて派遣する例がほとんどです。それ以前は、「天菩比神」や「天若日子」の例で分かるように、単独で地上に派遣されております。
 それ以後にあった副將や従者を随えて派遣した例を、またまた、「私の町吉備津」の例を引いて、2、3ご紹介したいと思いますのでご期待を?????