私は、古墳時代から人々が暮らしていた遺跡の残る「日羽郷」の一部である総社市美袋に生まれました。その日羽には、今は取り壊されてその姿がありませんが、数基の円墳が存在していました。
この日羽にあった古墳は、吉備平野の南部にある前方後円墳のような大型の古墳ではありません。直径が15~20mぐらいの小さな円墳だったようですが???高梁川を相当上った場所にある小さな古墳です。
この古墳から出土した3~40㎝ぐらいの完全なる家型埴輪が、今は廃校になっている小学校の戸棚に、私の小学校時代には、飾られていたように、おぼろげに記録しているのですが(70年前)・・・・また、私の家には、その学校(日美小学校)の教師をしていた母親が頂いた日羽の古墳から出土した鉄の鏃や金の耳輪があります。
こんなに吉備の中心部から遠く離れている山奥の小さな古墳にも埴輪や金属製品があたということは、当時、吉備国にはそれらのものが大量に生産されていたことを示しており、より豊かで強大な力を持つ国であったことを証明することにもなるのです。
その写真を
そにあった「家型埴輪」は、今は完全に消失してしまっております。もし今あれば「国宝」か「重文」ぐらいの価値があったのでは????とも。
また、 これは霧に包まれた最中にいるようで、全く、確かなことではないのですが、・・・・家型埴輪と一緒に戸棚に飾られていたようにおぼろげなるものが頭の片隅にあるのですが・・・もしかして「銅鐸」ではなかったかとも????????
こんな文を書いていますと、私の頭には夢のように、太古の我が国の最列強国「吉備」の姿が、吉備津神社と共に、ぼやけてはいますが、浮かび上がってくるようです・・・
この日羽にあった古墳は、吉備平野の南部にある前方後円墳のような大型の古墳ではありません。直径が15~20mぐらいの小さな円墳だったようですが???高梁川を相当上った場所にある小さな古墳です。
この古墳から出土した3~40㎝ぐらいの完全なる家型埴輪が、今は廃校になっている小学校の戸棚に、私の小学校時代には、飾られていたように、おぼろげに記録しているのですが(70年前)・・・・また、私の家には、その学校(日美小学校)の教師をしていた母親が頂いた日羽の古墳から出土した鉄の鏃や金の耳輪があります。
こんなに吉備の中心部から遠く離れている山奥の小さな古墳にも埴輪や金属製品があたということは、当時、吉備国にはそれらのものが大量に生産されていたことを示しており、より豊かで強大な力を持つ国であったことを証明することにもなるのです。
その写真を
そにあった「家型埴輪」は、今は完全に消失してしまっております。もし今あれば「国宝」か「重文」ぐらいの価値があったのでは????とも。
また、 これは霧に包まれた最中にいるようで、全く、確かなことではないのですが、・・・・家型埴輪と一緒に戸棚に飾られていたようにおぼろげなるものが頭の片隅にあるのですが・・・もしかして「銅鐸」ではなかったかとも????????
こんな文を書いていますと、私の頭には夢のように、太古の我が国の最列強国「吉備」の姿が、吉備津神社と共に、ぼやけてはいますが、浮かび上がってくるようです・・・