私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

もう少し強大な吉備の痕跡を・・・

2020-09-24 09:38:19 | 日記
 私は、古墳時代から人々が暮らしていた遺跡の残る「日羽郷」の一部である総社市美袋に生まれました。その日羽には、今は取り壊されてその姿がありませんが、数基の円墳が存在していました。
 この日羽にあった古墳は、吉備平野の南部にある前方後円墳のような大型の古墳ではありません。直径が15~20mぐらいの小さな円墳だったようですが???高梁川を相当上った場所にある小さな古墳です。
 この古墳から出土した3~40㎝ぐらいの完全なる家型埴輪が、今は廃校になっている小学校の戸棚に、私の小学校時代には、飾られていたように、おぼろげに記録しているのですが(70年前)・・・・また、私の家には、その学校(日美小学校)の教師をしていた母親が頂いた日羽の古墳から出土した鉄の鏃や金の耳輪があります。
 こんなに吉備の中心部から遠く離れている山奥の小さな古墳にも埴輪や金属製品があたということは、当時、吉備国にはそれらのものが大量に生産されていたことを示しており、より豊かで強大な力を持つ国であったことを証明することにもなるのです。
 その写真を

    

 そにあった「家型埴輪」は、今は完全に消失してしまっております。もし今あれば「国宝」か「重文」ぐらいの価値があったのでは????とも。
 また、 これは霧に包まれた最中にいるようで、全く、確かなことではないのですが、・・・・家型埴輪と一緒に戸棚に飾られていたようにおぼろげなるものが頭の片隅にあるのですが・・・もしかして「銅鐸」ではなかったかとも????????

 こんな文を書いていますと、私の頭には夢のように、太古の我が国の最列強国「吉備」の姿が、吉備津神社と共に、ぼやけてはいますが、浮かび上がってくるようです・・・

上古では出雲より吉備のほうがより強国では・・・・・

2020-09-23 09:45:17 | 日記
 「吉備の弥生時代」(岡山大学埋蔵文化財調査研究センター編)によると弥生時代の岡山平野南部の地形の地図が載っています。
 先ずは弥生前期の地形(1)です。
  
     

 次に弥生時代後期の地形(2)です。

    

 この絵(1)によると、2500年位前には瀬戸内の海岸線は「吉備の中山」の北麓まで、更に、足守川に沿って岡山平野の奥深く(JR桃太郎線足守駅付近)まで入り込んでいました。それが1700年位前(2)は庭瀬付近まで後退しています。
 この海岸線の後退(旭川や高梁・足守川による三角州)により肥沃な稲作可能な広い湿地が生まれます。それとともに大陸から最新の鉄器製造技法も伝わり、多くの鉄製品(鏃・斧・刀子など)が作ら、その新しい技術を利用した沢山の農産物が作られるようになり、より裕福な国が誕生するのです。
 なお、当時はまだ日本には製鉄の技術はなく、素材となる鉄片が中国や朝鮮から輸入され、それを加工して二次鉄製品を作っていたのです。それを示す「鍛冶炉」も確認されています。また、それ以前より此の地には銅鐸も作られます。その原料として使われただろう???中国の「新」の貨幣である「貨泉」も沢山出土しています。
 高塚遺跡から出た「貨泉」

  

 と、重文の「突線流水文銅鐸」

  

 です。

 「豊かな国」は人口の増加を生み、より強大な古代社会が実現するのです。現在と同じように、繁栄を示すバロメーターになるのです・・・・・・と考えると、やはり出雲より吉備の方がより豊かで強力な国であったのではないでしょうか???    では、なぜ、8世紀の「記紀」は、吉備国より勢力の劣る????オホクニの出雲国をさも強国であるように書き記したのでしょうか。より重視したのでしょうか。
           
               皆さんはどう思われますか。

吉備を代表するもう一つの土製品「分銅形土製品」とは・・・

2020-09-22 09:54:03 | 日記
 吉備地方には、この土器は何に使ったのか、その用途の不明な土器が出土します。この土器の正式な名前はまだついてはいないのですが、「分銅形土製品」と呼ばれているのです。江戸時代の中~後期ごろから、瀬戸内地方や山陰地方などから900点が出土しており、その40%が高松地方から発見されている土器です。
 その写真を

   

 その「分銅形」の「分銅」とは、江戸時代に両替屋などで大判小判の目方を計るために使われ「おもり」ですが、その形とこの土製品の形が似ているので、誰言うととなく命名されたそうです????
 その分銅の写真も
   
 これが吉備と出雲の2か所で使われたということは、それだけ吉備王国の勢力が独特の特色を持つ強大な王国を形成したことを意味します。

 なお、記紀には、太古の日本では「大和」と拮抗するくらいオホクニの活躍する「出雲」の力が大きく、吉備の影はほとんどその顔が見えません。故に、吉備が出雲の勢力に飲み込まれていたという説もあるようですが、「特殊器台」にしても「分銅型土製品」にしても、このような新しい史実の発見により日本の古代における吉備が出雲以上に大きな力を持っていたといっても過言ではないように思われますが???

古代の吉備の勢力範囲は

2020-09-20 11:25:10 | 日記
 吉備の勢力範囲を示す資料として、千足古墳にある石室内部の構造から北九州との深い繋がりがあったと考えられるのですが、その他にも吉備特有の出土品があります。それが

       ”特殊器台(”

 と呼ばれる土器です。

          

          

 この特殊器台は弥生時代の後半に入ってから、丘墓が巨大化するに伴い、そこに置かれた葬送用の特別な器台(供献物台)として吉備地方に生まれたのです。岡山県では、現在、40数遺跡が確認されています。主に総社市周辺の県南部を中心に、備前、美作・備中北部・備後まで、当時の吉備の国を中心に見られ、出雲にも、また、大和の箸塚古墳からも出土しています。

このことは弥生の終わりごろから(2~3世紀)、吉備の勢力が出雲や大和と何らかの形で繋がっていたということを意味します。

 なお、これは余残ごとですが、この特殊器台(総社市宮山墳丘墓)にある円形の穴形をよく見てください。刻線に沿って一方に小さく刻みこまれていて、完全なる円形ではありません。これは直弧文の刻線と同様に、何を意味しているのでしょうか。



これって弥生人の美的感覚がなした技でしょうか、それとも当時の人たちが持っていた特別な呪術的な形だったのでしょうか。いやいやそうではない、岡本太郎ではないのですが、弥生人の持つ心に内在する芸術性の爆発を意味しているのでしょうか????

      おとと、つい、いらんことを・・・・・

千足古墳について

2020-09-19 07:14:26 | 日記
 千足古墳の横穴式石室内部にある石組や直弧紋の描かれている石障が筑後地域のものと深い関係があるのですが、この千足古墳とは一体どのような古墳なのでしょうか。吉備を知る上で大切な古墳ですので、それについて少しばかり説明しておきます。
 五世紀の前半にできたのではと考えられてる全長74mの帆立貝式前方後円墳です。この石室には、昨日見たような北九州地方に多く見られる呪術的な古代模様の直弧文の精美な石障が見られます。その後の調査で新たに直弧文が刻まれた靭形埴輪の破片も採集され、此と同じような埴輪は近畿地方の古墳からも出土していますので、この時代の吉備は、九州だけでなく、近畿との交流もあったと窺われます。
 その写真を今日も
 まず。千足古墳の位置です(造山古墳の陪塚)
     
 次に、埴輪に刻まれた直弧文です
     
 弓矢を納める筒をかたどった靭形埴輪です