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コジキジゲン

すくわれしトキ・・・

2017-03-30 23:24:34 | 古事記字源

 ・・・「救われし時」・・・生きているモノが危機的な生死の境目で彷徨っている時に、なんらかのコトで「延命」と云う梯子を手に入れた時だろう・・・それは、自力的の場合もあろうが、それらの殆んどは他力的にダレかに、ナニかに「スクワレタ」と云うコトだ・・・結果、アリガタイか、ドウカは別問題だが・・・生きている限り、先行き「確かなモノ」と云うモノは「ナニモナイ」が、生きている「確証」は自分自身の手で鼻と口を塞ぐだけで簡単に判る。30秒も経てば息苦しくなり、それに耐えられなくなるのは確実に実感できる。今現在、息をして生きているコトは確かであるが、「脆(肉+危・もろ)い存在」としてである・・・
 ハルらしいけれど・・・まだ、サビィ、ッ・・・


 再三考・・・前々回に「確実」の「確」の「隺(冖+隹)」と、「鶴亀」の「鶴」の「寉(宀+隹)」の考察が曖昧だったようである・・・単純にいえば漢字の部首の「ワかんむり」か、「ウかんむり」の相違(相異)だが・・・「ワカンも無理(ム里)」、「ウカンも無理(ム裏)」・・・「ム=わたくし=私=ム=よこしま=邪・横島・横志摩・横縞・与故揣摩」・・・
ーー↓↑ーー
 「確=石の寉(宀+隹)」の漢字か?
 or
 「確=石の隺(冖+隹)」の漢字か?
  ↓↑
 「隺」は、「硬い」という意味の
 「確実」の「隺(冖+隹)で
 「寉」は、「高く飛ぶ」という意味の
 「鶴」の「寉(宀+隹)=鶴」で
 別字・・・
 確実の
 「確(石+冖+隹)=石+隺
         =「石(いし・セキ)の
           冖(ベキ・ミャク・ワかんむり
             冪・
             布で物を覆うこと・被せる)
           隹(小鳥)」
 ならば、飛べないことの確実性だろう・・・
 「鶴=寉+鳥
   =宀(ベン・ウかんむり
      交差して覆う屋根の形象・家屋)
      宇・宙・空・寓・宮・塞・安・憲・家、
      宇宙空間を遮って包み支えているモノ(?)
     「宀=ウ」は屋根で空を仕切るモノ(?)ならば
      屋根の上、屋根の下(軒下)の   
    隹(小鳥・ふるとり・舊鳥・旧鳥)
    鳥
    つる・カク・鳥の名
    長いくちばし、首、足をもつ大型の水鳥
    羽毛は部分的に頚と尾は黒、
           身体は白、
           頭は赤
    くちばし(嘴・喙)が細長く、全身が白く
    千年生きるとされ、・・・実際の野生では30年位
    亀とともに長寿のたとえ
    たず・白い・細長く痩(やせ)たコトのたとえ」
    鶴嘴(つるはし)=先端を尖らせて
             左右に長く張り出した頭部を
             ハンドル部分に直角に連結した道具
             唐鍬の一種
             固い岩石、鉱石、岩場の地面や
             アスファルトを砕くために使われる
             ピカクス(Pick-axe)
             硬い土を掘り起こすのに用いる道具
             鉄製で両端または片方だけを
             鶴の嘴のような形に作り
             柄をつけたもの
             pickaxe・mattock
ーー↓↑ーー
 「隹」は更に分解出来る
 「隹=イ(人)+主+丄」
 「隹=イ(人)+亠+圭」
 「隹=い(人)+亠+十+一+丄」
ーー↓↑ーー
 伊勢・・・伊勢津彦=建御名方(タケミナカタ)神?
      語源は「伊呂 勢(=弟)」?
 志摩・・・しま=島・嶋・嶌
          =縞
          =揣摩
 志摩市・・・北緯34度19分41.5秒 東経136度49分46.8秒
 の
 大王町~志摩町
 にかけて
 英虞湾を囲む部分を
 「先志摩(さきしま)半島」
 三重県東部、志摩半島、南部の地域
 奥志摩とも呼ぶ
 先志摩台地は
 隆起海食台地としては日本最大
 志摩半島
 小さな島・岬・入り江(溺れ谷)の多い
 リアス式海岸が発達した地形
 平城京跡から発見された
 和銅五年(712年)木簡に
 『志摩国志摩郡手節里』、・・・手節里
 養老七年(723年)木簡に
 『志摩国答志郡和具』・・・・・答志郡和具
 の文字がみえる。
 ↓↑
   答志(とうし)島 北緯34度31分
        淡路島 北緯34度30分
       出雲大社 北緯35度24分
       平城宮跡 北緯34度41分
       平城京
      朱雀大路跡 北緯34度41分
     伊勢神宮内宮 北緯34度27分
     伊勢神宮外宮 北緯34度29分
 ↓↑
 『和名抄』でも、
 答志郷・和具郷との名が記録・・・
 ・・・ナゼ、「答(こたえ・トウ)を志(こころざす・シ)」で、「和(にぎ・やわらぐ・ワ)の具(そなえ・グ)」なんだか、「和名抄」=「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)=平安時代中期に作られた辞書・承平年間(931年~938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂 した」・・・源(みなもと)の順(したごう)・・・
 「勤子(いそこ・キンシ)内親王
  延喜四年(904年)
   ~
  天慶元年十一月五日(938年 11月29日)
  醍醐天皇の第五皇女・四品
  母は更衣・源周子
  女四の宮
  夫は右大臣・藤原師輔・・・臣下として初めて
               内親王と結婚した人物
               密通(?)の後に正式に
               皇族と結婚した最初の相手
  時代は「931年~947年」の
 「承平~天慶」
 「平将門の乱・藤原純友の乱」
 ↓↑
 伊勢志摩
 律令制以前は
 島津国造の領域・・・「島津藩」は鹿児島・・・
 令制国設置に伴い
 伊勢国が成立し、
 志摩は伊勢の属領域
 7世紀後半~8世紀初
 志摩国として分立
 8世紀初めまで、
 嶋国、志麻国とも記録
 ↓↑
 飛鳥・奈良時代
 代々
 内膳司の
 高橋氏などが・・・・・高橋虫麻呂・・・日下部の浦島子
 国司であったが、
 志摩に赴くことはなかった・・・
 ↓↑
 志摩国
 面積が小さく
 平地もほとんどなく
 稲米の収穫量が少なかった
 伊勢国や尾張国の田を
 志摩国の口分田とし、
 国衙や国分寺の費用を
 伊勢国・尾張国・三河国
 が負担した。
 海産物を贄として、
 宮中へ貢ぐ
 御食(みけ)国の一つとされた・・・
 ↓↑
 平城京発掘で出土した木簡
 伊雑郷・名錐郷・船越郷
 などの表記
 海産物を貢租していた
 船越郷は、
 名錐郷に隣接する船越とする説があるが、
 現在の
 度会郡
 南伊勢町
 船越とするのが一般的・・・
 ↓↑ 
 志摩国の領域
 三重県の
 鳥羽市・志摩市だけではなく、
 度会郡南伊勢町、
 大紀町の錦地区、
 北牟婁郡紀北町、
 尾鷲市全域
 までが
 志摩国
 英虞(あご)郡に含まれていた・・・英語?
 国府は
 志摩市
 阿児町
 国府に比定
 ↓↑
 守護代所が、
 室町時代に
 答志郡泊浦(鳥羽市鳥羽)にあった
 ↓↑
 天正十年(1582年)
 紀伊新宮城主の
 堀内氏善
 と
 伊勢国司の
 北畠信雄
 が
 荷坂峠を境として、
 それぞれが
 紀伊国
 牟婁郡
 と
 伊勢国
 度会郡
 に編入したため、
 志摩国は現在の
 三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された・・・
 ↓↑
 安国寺 - 三重県志摩市沓掛・・・沓掛(くつかけ・トウケ)?・・・長野県中軽井沢の地名・・・「くつかけ」の「くつ」は「朽ちる」、「かけ」は「欠ける」?・・・信濃国小県郡沓掛村・・・「沓掛の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた」・・・「沓懸(くつかけ)」=「旅に草鞋(わらじ)を履き替え、古いものを神社の松の枝などに掛け、旅の平安を祈る習俗があり、地名はこれらの習俗から起こった」・・・
 「沓」=「くつ(足を覆うように作った履物の総称」・・・一般的な漢字は「靴(くつ・革靴・軍靴)・履(ぞうり・草履・草鞋・足袋)」だと思うが・・・「沓=水+日」が「くつ」?・・・「舞踏会」の「踏(ふむ・トウ)」
 「踏」=足 + 沓=口+ト+人+水+曰」
     タリのクツ 口で占う人、ミズのイワク
     拾 の沓・・・天智天皇の「沓」を拾った?
            藤の木古墳の「沓」?
 だろう・・・
 「沓=くつ・はきもの・かさなる・かさなりあう・トウ・こみあう=雑沓・よくしゃべる=饒舌(冗舌)=お喋り・沓沓・むさぼる(貪る)」・・・「沓石(くついし)=礎石の上、柱や縁の束柱(つかばしら)の下に据える石・根石(ねいし)・礎盤(そばん)・束(床の下に使う束)の下に敷く石が束石、外の柱が腐らないように沓のように履かせる石が沓石」、「沓手鳥(くつてどり・ほととぎす=時鳥・不如帰・杜鵑)」・・・
 「郭公(かっこう)」は「ホトトギス」なのか?
 「郭務悰」・・・郭(囲む廓)の務(つとめ)は悰(忄=立身弁の宗=ウを示す)・・・
 「ほととぎす」の異名、別名・・・
 杜鵑・時鳥・子規・不如帰・杜宇・蜀魂・田鵑
 霍公鳥・霍公・郭公・杜魂・布谷・無常鳥
 黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥・初時鳥・山時鳥
 沓手鳥・山郭公
 ・・・「沓の手の鳥」って?・・・
ーーーーー
 ・・・「沓」の漢字を上下に入れ替えたら「泉」・・・「泉水」の象徴は「蘭学」・・・「鳴瀧(滝)塾」・・・

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ナ・ダ・レ・・・なだ・れ・・・ナ・だれ・・・

2017-03-29 23:15:45 | 古事記字源

 ・・・「雪崩(なだれ・セツホウ)現象」?・・・「なだ-れ=灘例」、「なだ-れ=涙(泪・涕)例」、「灘(氵+難)=水の難」なのか?、「灘(漢+隹)=漢の隹」なのか?・・・「氵+艹+口+二+人+隹」・・・「漢(あや・から・オトコ・カン)=乾いた川=天の河」・・・「儺=イ+難=やらい・おにやらい」、「癱=疒+難=しびれる」・・・「崩落現象」・・・NHK・TV・プラネットアースの「イグアナの子と蛇、阿呆鳥夫婦の再会、ペンギン(penguin・企鵝・人鳥・片吟)夫婦の子育て・・・「企鵝(キガ・ペンジュン)=たくらむ(企)+ガチョウ(鵝=我のトリ)」ですか・・・ペンギン(penguin)の紹介は新井白石(1657~1725)の著書「菜覧異言(サイランイゲン)・1713年」で「ペフイエゥン」と記録・・・「笆(ヘ=屁・邊・経)附意柄(木丙)絵舞」?・・・「笆(ヘ・いばらだけ・トゲがあって、物に絡みつくタケ・垣(かき)・いばらダケをカラませてつくったカキネ・ヘ=荊竹、茨竹、棘竹」・・・ブログ記事で検索していたら、幕府の若年寄で、鳥類学者「堀田正敦(1755~1832)」の1794年~1831年に刊行編纂され、「堀田禽譜(キンプ)」に紹介されたペンギンの剥製写生に「ピングイン」と表記されている、らしい・・・明治十年発行の文部省の教科書「具氏博物学(グシハクブツガク)・須川賢久訳 1876年(明治九年)」に「企鵝(ペンジュン)」と表記され、「具氏」は原本著者の「Samuel Griswold Goodrich・1793年8月19日~1860年5月9日)・グードリッジ」・・・「Good-rich(グッド-リチ)」が「具の理智(理知)」ですか・・・「I gave it(to smoke・smoking) up for good.」とは思えんが・・・「forever=for ever=Good bye=for good」でもあるらしい・・・で、1915年(大正四年)、ペンギンが上野動物園にやってきたらしい・・・
ーーーーー
 で、ハナシは跳ぶが・・・「いしぶたい」
 ↓↑
 「石舞台古墳」・・・「いしふとや」・・・「李氏、太哉」?
 江戸時代
 になってからの記録
 延宝九年(1681年)
 林宗甫『大和名所記』(和州旧跡幽考)
 「石太屋(いしふとや)」という陵の記録
 天武天皇の陵?
 「石太屋(いしふとや)」が
 「石舞台」に転訛・・・
 嘉永元年(1848年)
 『西国三十三所名所図会』
 石舞台=天武天皇の殯のあと・・・
 ↓↑
 「石蓋
 (いしぶた・セキガイ)」・・・「石+亠(音の字の略)」
 地元では
 「石蓋(いしぶた)」などと呼ばれていた
 「狐が女の姿に化けて
  古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」
 という伝説については、
 古墳のすぐそばで生まれ育った
 網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく
 近年に創作された話であろう、としている・・・
 ↓↑
 明治時代に喜田貞吉が
 『日本書紀』にみえる
 桃原墓
 が石舞台にあたるとする説を発表
 ↓↑
 石舞台古墳
 名前の由来は、
 「月夜の晩に石(天井石)の上で狐が踊ったから」
 封土(もりつち)の上部がなくなり、
 玄室部の天井石と側壁 の上方が露出し
 天井石が平たいので、
 古くから
 石舞台と呼ばれている・・・呼ばれてはいなかった
 ↓↑ 
 1933年(昭和8年)
 1935年(昭和10年)
 京都帝国大学の
 浜田耕作らが
 発掘調査
 貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、
 方形であることが判明
ーーーーー
 ↓↑
 灘(なだ)
 ↓↑
 なだ=灘=洋=海で、風波が荒く、
        海流が速くて航海の困難な海域
        対馬海流の
        玄界灘・響灘
        日本海流の黒潮
        遠州灘・相模灘・熊野灘・日向灘
 ↓↑
 「灘 - Wikipediaから」
 沖合の波が荒く、潮流が速い所
 洋とも書き表される
 「氵(さんずい)」+「難」という字の如く、
 古くから航海が困難な場所とされた
 そのため沿岸には避難港が発達
 黒潮(日本海流)が流れる太平洋側に多く分布
 反面、
 鹿島灘以北の太平洋岸には全く灘が見られない
 灘という地名の由来が、
 海運交通の発展と関係が深い・・・
 瀬戸内海にも灘が多数分布するが、
 この灘は穏やかな水域が多く、
 本来の定義から大きく反する
 ・・・なだやか←凪ぎ・穏やか・・・
 ↓↑
 瀬戸内海・豊後水道
 これらは洋上のものとは逆に、
 水面が穏やかなものが多い
 「灘」には、風や波が荒く、
 航海が困難な場所という意味のほかに、
 陸地の沖合で島が少ない地域を指すことがあるため
 神戸市東部の
 灘五郷の地域に代表されるように、
 目の前に海原が広がる一帯に
 灘という地名が付けられている事例がある
 瀬戸内海を航海中は、
 至る所に小島が見られ、
 灘と呼ばれる場所は島が少ないことから、
 海原を表す「灘」と名付けられた・・・
 航海に注意を要する
 狭い海域と認識されている・・・
 ↓↑
 縹(はなだ)
 縹色(花田色、はなだいろ)
 明度が高い
 薄青色のこと
 後漢時代の辞典によると
 「縹」は「漂」(薄青色)と同義
 「薄青色」=「花の色」
 ↓↑ 
 「灘」
 open sea・・・?・・・開けられた海?・・・海没
 遠州灘=the Sea of Enshu.
 nada
 Nada nishiki=灘錦(なだにしき)
 風波や潮流が激しい航海の難所
 海、潮流の流れが速い所
 風浪が激しく航海が困難な海域
 「灘(タン・ダン・なだ)
 「灘=氵(さんずい)+難」
    平らにのびた海岸や湖岸のあさせ
    陸からやや離れて、波が荒く航海の難所
 「灘」
 風波が強く、航海が困難な海域
 兵庫県にある地域
 神戸市灘区から西宮市にかけての海岸地帯
 灘区 - 兵庫県神戸市にある区
 東灘区- 兵庫県神戸市にある区
ーー↓↑ーー
 遭難・・・海事遭難・山岳遭難
ーー↓↑ーー
 涙(なだ)=涕・泪・那美だ・並みだ・波だ
       なみだ
       江戸時代、
       奴 (やっこ) などの間で用いられ た
 ↓↑
 なだれ(雪崩=なだれ=傾れ=頽れ)
 動詞「なだる」の連用形
 雪崩=山の斜面に積もった大量の雪が、
    急激にくずれ落ちる現象
    表層雪崩・全層雪崩
    斜めにかたむくこと
     押しくずれること
    くずれ落ちること
    頽れ(なだれ)
    陶器で、
    釉 (うわぐすり) が
    溶けて上方から流れ下がったもの
    やきなだれ
ーー↓↑ーー
 「熟字訓」
 アバランシュ(Avalanche)=雪崩
 スラッシュ雪崩=スラッシュ=半溶け
 雪解け水や土砂と一緒に、
 大規模な雪崩を起こす・・・
 雪泥流(セツデイリュウ)
 大量の水を含んだ雪崩(スラッシュ雪崩)が、
 斜面から渓流へと流下する際に、
 渓岸や河床の堆積物を浸食し土石流化
ーー↓↑ーー
 なゐ、なだれ、なだり
 「なゐ」の語源
 「な」=「土地」?・・・・「な」が「土地」って?
               な=名・拿・納・萎
                 皺(しわ)の土地
                 砂漠・沙漠
                 萎縮不毛の土地
     土地が垂れる?
     崩れる形が「なだれ」・・・?
  ・・・「ないる」は「Nile」?・・・埃及(Egypt)
     萎える・綯える・痿える
     皺(しわ)くちゃになる
     皺々=しわしわ=皴・紫波・詩話・志和・史話
     「震動・振動」
     「なんくるないさ」の沖縄方言の解釈
     「ないるうっさるないさ」
     「できるだけしか、できるさ」
     「できる範囲でしかできない」
     「できるようにしかできない」
 ・・・自然の前には・・・「なるようにしかならん」・・・?
ーー↓↑ーー
 avalanche=雪崩(なだれ)
       an avalanche of …
 an avalanche of questions=質問攻め
 雪崩(なだれ)
 ナマズ・鯰(なまず)
 「fall in love」
 「恋(戀)に落ちる」・・・・「故意に墜ちる」・・・「鯉(魚の里=龍宮城・竜寓城・水晶宮)に落ちる」・・・うらしまたろう(浦島太郎・水之江の)・・・
ーー↓↑ーー
 「雄略天皇廿二年(中略)秋七月。丹波國餘社郡管川人瑞江浦嶋子乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬莱山歷覩仙衆。語在別卷。
  ↓↑
 雄略天皇廿二年(中略)秋七月
 丹波国余社郡の管川の人、端江浦島の子、舟に乗りて釣りす。遂に大亀を得たり。便に女に化為せる。是に、浦島子、感りて婦にす。相遂ひて海に入る。蓬莱山(とこよのくに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴り(めぐり)観る。語は別巻に在り。
ーーーーー
 ・・・「語は別巻に在り」・・・

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忖度=ソンタク=孫詫・・・「忖=心+寸」?・・・立身の弁をハカル

2017-03-27 22:39:11 | 古事記字源

・・・三猿の「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」の「悪」ってナニ(何)?・・・「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動(論語)」、「不見・不聞・不言」・・・「瓊瓊杵尊=ににぎのみこと=瓊々杵尊=邇邇芸命」の「天孫降臨」の時の「さるたひこ・サルタビコ=猿田毘古→彦(产彡=立ノ彡=彥=文厂彡=亠乂厂彡)=エンデンゲン」は裏切りなのか、降伏なのか・・・「諺(ことわざ・ゲン)=言+彥(彦)」・・・「彦=彥(繁体字・旧字体)」・・・「降伏=コウフク=幸福・香福・公福・降服・口腹」・・・「降伏=コウフク=降服」=「戦争において軍隊、あるいは個々の戦闘員が敵に対する戦闘行為をやめ、その支配下にある地点・兵員・戦闘手段を敵の権力内に置く事・投降・帰伏・屈伏・帰服・降参・戦闘に負けて従うこと・抵抗を止めて相手に服従すること」・・・「降(くだる・コウ)」の類字は「降(くだ)す・降(くだ)る」=「阝+夅」・・・「隆(おこる・のぼる・たか・リュウ)」・・・西の郷の隆盛(リュウセイ)・・・「隆起=勃興=勃起=渤海」・・・海底火山の爆発、陥没→大津波・・・「庚申信仰(守庚申)の青面金剛明王」=「猿田毘古」・・・「掛け軸の画では中央に青面金剛、上に日月、左右に猿、下に鶏を配して描かれている・・・
[

ーー↓↑ーー
 「守庚申」
 『柏崎物語』
 によると
 織田信長
 柴田勝家
 ら重臣20余人が揃って
 「庚申の酒席」を行った・・・
 度々途中で厠に立った
 明智光秀
 を鎗を持って追いかけ、
 「いかに、金柑(きんかん)頭、なぜ中座したか」
 と責めたと・・・?
 ・・・「猿=さる=申・狙・猨・猴・沙流」なら「(太閤)豊臣秀吉・木下藤吉郎」である・・・織田信長に対する「告げ口」の怖れが、権力を握った「日吉丸」に移ったからで、太閤の周辺の「御伽衆」が、情報と、助言で太閤を動かしたからであろう・・・豊臣秀吉は「針鼠(はりねずみ)」の綽名(渾名・仇名・婀娜名)で信長から呼ばれていたが、秀吉の正妻(高台院)は「おね(ねね・おね・祢(ね)・寧(ねい)・寧子・子為(ねい)」と表記されたらしい・・・「ONE=ワン=おね」・・・「北の政所」の場所の象徴は「子・鼠」である・・・権力者の妻女には媒介的、間接的に「情報」が集中するのがアタリマエである。朝廷との交渉、諸大名の人質として集められた妻子の苦情、監督をした・・・秀吉死後は徳川家康への情報提供者だった・・・なるほど、「阿(おもね)る・佞(へつらう・侫・諛)」で、松井大阪府知事は「善良な忖度(他人の心をおしはかること)」で、「善良な斟酌(思いを汲み取る)」で、「法の枠内」で「便宜」をハカルですか・・・「侵スベカラズ」って?・・・バッタ商品の販売・・・大量余剰商品の安売り在庫処分・・・激安商品販売・・・商品の格安販売・・・叩き売り・・・資本主義の鉄則?・・・商品市場の「需要供給」での価格決定は「売り手と買い手」の「気分、思惑」次第・・・イワユル、「博打=ばくち=葉句値」・・・
 「情報提供」で権力者の側近、幇間(ホウカン・太鼓持ち→他意拠摸知?)は利用されるが、利用もする・・・だが、罠(わな)にハマって自滅する人物もいる・・・「罠=わな=和名」である・・・独裁者は「情報」を独り占めにするが、「限界」があるのは当然である・・・
ーー↓↑ーー
 「守庚申」は、
 「庚申待(こうしんまち)」となり
 一般の夜待と同じように
 会食談義を行って徹宵する風習となった。
 「庚申待」とは、
 「庚申祭」
 「庚申を守る」の訛ったものとか、
 「日待・月待」
 といった行事と同じく、
 夜明かしで神仏を祀ることから
 「待」といった・・・
 「庚申待」
 15世紀の後半
 「守庚申」の際の勤行や功徳を説いた
 『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、
 「庚申信仰」は仏教と結びつき
 諸仏が本尊視され
 行を共にする
 「庚申講」が組織化され、
 講の成果として
 「庚申塔」の前身にあたる
 「庚申板碑」が造立され
 「日吉(ひえ)山王信仰」
 とも習合することにより、
 室町時代の後期から建立が始まる
 「庚申(供養)塔、碑」には、
 「申待(さるまち)」
 「山王の神使」である
 「猿」を描くものが著しくなった・・・

 庚申信仰は、
 神仏習合の流れの中で、
 猿を共通項にした新たな信仰へと変化
 江戸時代は、
 「庚申信仰」が最も多彩かつ盛んになり
 大正時代以降は急速にその信仰が失われた・・・
ーーーーー
 青面金剛・・・猿田彦神
 庚申信仰では
 青面金剛と呼ばれる神体を本尊とする
 庚申信仰、猿田彦神
 「猿」の字が
 「庚申」の「申」に通じ
 「猿田彦」が
 「塞の神」とも同一視され、
 これを
 「幸神(コウシン)」と読んだ・・・
 庚申信仰では
 猿が「庚申の使い」とされ、
 青面金剛像
 庚申塔
 に
 「見ざる、言わざる、聞かざる」
 の
 三猿が描かれた・・・
ーー↓↑ーー
 塙 保己一(はなわ ほきいち)
 延享三年五月五日
 (1746年6月23日)
   ~
 文政四年九月十二日
 (1821年10月7日)
 国学者 幼名は丙寅にちなみ
 寅之助(とらのすけ)、
 失明後に
 辰之助(たつのすけ)と改名
 多聞房(たもんぼう)とも名乗る
 雨富検校に入門してから
 千弥(せんや)
 保木野一(ほきのいち)
 保己一(ほきいち)
 と改名
 『群書類従』
 『続群書類従』の編纂者
 総検校。贈正四位。
 子に
 伊藤博文と山尾庸三に
 暗殺された
 国学者の
 「塙忠宝」がいる・・・伊藤博文もテロリストだった・・・
ーー↓↑ーー
 武州
 児玉郡
 保木野村(埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた
 「塙」は
 師の
 「雨富須賀一」の本姓を用いたもの
 荻野(おぎの)氏の出自
 近世に帰農した、百姓の家系
 父は宇兵衛、
 母は藤木戸村(加美郡木戸村)の
 名主
 斎藤理左衛門の家の娘
 「きよ」
 弟は
 「卯右衛門(うえもん)」
ーー↓↑ーー
 五歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)で
 目痛や目やにの症状が出て
 視力が弱って、
 七歳の春に失明
 虎之助のことを聞いた
 修験者が生まれ年と名前の
 両方を変えなければ
 目が治らないと進言し、
 名を
 辰之助と改名、
 年を二つ引いたが
 視力が戻らなかった
 修験者の
 正覚房に弟子入り
 多聞房という名をもらい
 手のひらに指で字を書いてもらい、
 文字を覚えた
 また、
 手で形をさわったり
 「鼻」で匂いを嗅いだりして・・・ハナでニオイをカグ?
 草花を見分けた。
 和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、
 物覚えが良かった
 十歳江戸で学問を学びたいと考え悩む
 宝暦七年(1757年)六月十三日
 母きよが死去
 形見として
 きよのお手縫いの
 巾着(キンチャク)をもらう
 巾着には23文入っていた
 宝暦八年(1758年)
 絹商人に
 「太平記読み」で暮らしている人の話を聞いた
 宝暦十年(1760年)
 十五歳(年を二つ引いて13歳)
 江戸に出、
 永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せる
 約3年間を
 「盲人(めくら)」としての修業に費やし、
 十七歳(二歳引いて15歳)
 盲人の職業団体である
 当道座の
 雨富須賀一検校に入門
 名を
 千弥と改め、
 按摩・鍼・音曲などの修業を始めたが
 保己一は、
 雨富検校に学問への想いを告げ
 「三年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」
 という条件付きで認められた。
ーー↓↑ーー
 国学・和歌を
 萩原宗固(百花庵宗固)に、
 漢学・神道を
 川島貴林に、
 法律を
 山岡浚明に、
 医学を
 品川の東禅寺に、
 和歌を
 閑院宮
 に学んだ。
 塙保己一は
 人が音読したものを暗記して学問を進め
 旗本の
 高井大隅守実員の奥方に、
 『栄花物語』40巻をもらい、
 初めて書物を所有
 雨富検校の隣人の旗本
 松平織部正乗尹
 (まつだいらおりべのかみのりただ)が
 講義を受けていた
 萩原宗固の講義をともに聞くことになった。
 乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を
 雨富検校に説き、
 萩原宗固の門人として教えを受けた。
 宗固の勧めで漢学や神道を
 川島貴林(たかしげ)に、
 同時に
 律令を
 山岡明阿(みょうあ・山岡浚明)
 に学んだ。
 宝暦十三年(1763年)
 衆分(盲官のひとつ)になり、
 名を
 保木野一と改めた
 明和三年(1766年)
 雨富検校より旅費をうけ、
 父と一緒に
 伊勢神宮に詣で、
 京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山など
 六十(六拾・陸拾)日ほどにわたって旅
 明和六年(1769年)
 に晩年の
 「賀茂真淵」に入門し、
 『六国史』などを学ぶ。
 十月に真淵が死去
 安永四年(1775年)
 衆分から
 勾当に進み、
 「塙」姓に改め、
 名も
 「保己一(ほきいち)」と改名
 安永八年(1779年)
 『群書類従』の出版を決意
 検校の職に進むことを願い、
 心経百万巻を読み、
 天満宮に祈願
 天明三年(1783年)
 検校
 天明四年(1784年)
 和歌を
 日野資枝(ひのすけき)に学ぶ
 寛政五年(1793年)
 幕府に土地拝借を願い出て
 和学講談所を開設
 会読を始める
 ここを拠点として記録や手紙にいたるまで
 様々な資料を
 蒐集し、
 編纂したのが
 『群書類従』
 歴史史料の編纂にも力を入れて
 『史料』としてまとめた
 『史料』編纂の事業は
 東京大学史料編纂所に引き継がれ、
 現在も続けられている。
 同所の出版している
 『大日本史料』がそれである
 寛政七年(1795年)
 盲人一座の
 総録職
 文化二年(1805年)
 盲人一座十老となる
 文政四年(1821年)二月
 総検校
 9月に76歳で死去
 四男
 忠宝が跡を継いだ。
ーー↓↑ーー
 墓所は東京都新宿区若葉の愛染院
 豊臣秀吉を尊敬・・・・豊臣秀吉=サル・ハリネズミ
 平田篤胤
 安藤野雁
 も、
 保己一の門下
 日本外史を著した
 頼山陽
 も保己一に教えを請うた
 保己一の弟子
 中山信名(なかやまのぶな)
 石原正明(いしはらまさあき)
 屋代弘賢
 松岡辰方(まつおかときかた)
 長野美波留(ながのみはる)
 など・・・
ーー↓↑ーー
 『群書類従』666冊が完成・・・666・六六六=悪魔の数字
 保己一が74歳のとき
 34歳のときに決心してから41年後
 『続群書類従』1885冊を編纂
 生前は版は未完
 保己一の死から100年余りが過ぎた
 1922年
 続群書類従完成会が設立
 『続群書類従』出版事業が始まった
 続群書類従完成会は、
 江戸時代の出版物の復刻を手掛けていた
 「国書刊行会(1905年創業)」
 『群書類従』
 『続群書類従』
 『続々群書類従』、
 『史料纂集』の刊行を行っていたが、
 2006年9月閉会(倒産)。
 同会の出版事業は
 2007年6月より
 八木書店に引き継がれ、
 続群書類従完成会発行の書籍も
 八木書店から発売
 嘉永四年(1851年)
 保己一が編纂した
 『令義解』に
 女医の前例が書かれていることを
 根拠に女医の道が開かれ、
 荻野吟子が
 日本初の国公認の
 「女医第一号」となった
 1921年
 昭和天皇が皇太子であったころ、
 ケンブリッジ大学を訪問した記念に
 『群書類従』を寄贈することを約束され、
 実弟である秩父宮が届けた。
 その他、『群書類従』は、
 ドイツの博物館、 ベルギーの図書館、
 アメリカの大学等にも贈られた。
ーー↓↑ーー
 ヘレン・ケラーは幼少時より
 「塙保己一を手本にしろ」
 と母親より教育されていた
 昭和十二年(1937年)四月二十六日
 ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、
 人生の目標であった
 保己一の座像や保己一の机に触れた・・・
ーー↓↑ーー
 『花咲伝』・・・ハナがサク伝 or ハナがワラウ伝?
 は
 44歳のとき、
 「新葉集」を拠所として、
 長慶天皇・・・「南北朝時代の第98代天皇
         南朝、第三代天皇
        (在位:正平二十三年=応安元年
         1368年)三月
          ~
         弘和三年=永徳三年(1383年)冬
         諱は寛成(ゆたなり)」
 の即位がなかったことを「論証」した書籍・・・?
ーー↓↑ーー
 天皇の在位・非在位の議論
 林春斎 (『日本王代一覧』他)
 榊原忠次(『新葉和歌集作者部類』)
 徳川光圀(『大日本史』)は在位説
 新井白石(『読史余論』)
 前田綱紀
 塙保己一(『花咲松』)は非在位説
 ↓↑
 明治
 黒川真頼
 菅政友
 谷森善臣
 らは非在位説を論じた。
 ↓↑
 大正
 八代国治・・・在位論(『長慶天皇御即位の研究』)
 武田祐吉・・・『耕雲千首』古写本の奥書から
        「仙洞並当今」、
        すなわち上皇と天皇が
        元中六年(1389年)に並存
        後村上天皇崩後のこの時期に
        「仙洞」の資格があるのは
        「長慶上皇」しか存在しないとして
        八代の見解を補強
        大正十五年(1926年)十月二十一日
        皇統加列の詔書発布
        長慶天皇は正式に
        第九十八代天皇として公認
ーー↓↑ーー
 仙源抄=『源氏物語』の辞書形態の注釈書
     内容がさまざまに異なる写本が存在し、
     表題も
     『源氏いろは抄』
     『源氏物語色葉聞書』
     『源氏秘抄』
     『源語類集』
     などのものが存在する・・・
ーー↓↑ーー
 『仙源抄』・・・・・・・仙=イ(人)+山
 (せんげんしょう)・・・撰(潜)現象?
  ↓↑         腺(泉)現象?
             宣言・・・本居宣長?
             浅間・・・木花之佐久夜姫
             選言・千元・千言・壱千元
  ↓↑         泉源
 1381年
 長慶天皇の著作の
 『源氏物語』の注釈書
 『源氏物語』の語句
 約一千についての説明
 それまでの『源氏物語』の
 ほぼ全ての注釈書が
 『奥入』のように、
 写本に
 書き添えられた
 注釈が増え
 やがて
 別に綴じられるようになった
 経緯で生み出されてきた
 巻序を追ってさまざまな事項に
 説明を加えていたのに対して、
 本書では説明する事項を
 「いろは」順に並べ、
 辞書形態の注釈書と呼ばれている
 『源氏物語』の
 辞書形態の注釈書としては最古のもの・・・
ーー↓↑ーー
 南北朝時代
 南朝は、
 北朝に対して
 政治的・軍事的側面からの
 優位性を示そうとしただけでなく、
 正当な皇位の継承者にふさわしい
 文化的な側面からの優位性を示すことに熱心
 宮中では
 天皇臨席の下で
 歌会や古典の講義を行った
 本書のような
 実用的な著作が
 天皇自らの手によって成立したことは、
 そのような状況を背景にしている・・・
ーー↓↑ーー
 『水原抄』
 『紫明抄』
 『原中最秘抄』
 の
 「河内方三抄」と呼ばれる
 注釈書の内容を中心にして、
 『奥入』などに見える
 藤原定家の説を比較し、
 さらには
 後醍醐天皇
 後村上天皇
 の説などを批判統合し、
 自説も
 「愚案」
 として記録・・・


ーーーーー
 ・・・???・・・「愚案」です・・・なんで、『源氏物語』は、時代ごとの「注釈書」が必要なのか・・・「平安王朝の言語」が理解出来なかった?・・・「源字の物述べの語、or 仏の語」が理解出来なかったのか?・・・

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タシカナモノ・・・有無・・・

2017-03-26 23:25:51 | 古事記字源

 ・・・生きている限り、先行き「確かなモノ」と云うモノは「ナニモナイ」・・・でも、「たしかなこと・小田和正」の歌がある・・・「確かに」・・・イイ-カシだけれど・・・歌詞・瑕疵・可視・菓子・掛詞・華史・・・仮施?・・・「確=石の寉」の漢字は「隺とは、硬い、高く飛ぶという字・確実の寉(冖+隹)の字とは別字・漢字として隺(宀+隹)=鶴」・・・確実の「確」=「石(いし・セキ)の冖(ベキ・ミャク・布で物を覆うこと・被せる)+隹(小鳥)」ならば、飛べないことの確実性だろう・・・「寉=宀(うかんむり)+隹・つる・カク・鳥の名・くび・足・くちばしが細長く、全身が白い・千年生きるとされ、亀とともに長寿のたとえ・たず・白い・細長く痩(やせ)たコトのたとえ」・・・痩せるとは「病身」で、「鶴の恩返し」の自らの羽毛を反物に紡いだ「おつう(お通)」だが・・・「よひょう(与兵)」・・佐渡の民話の一・・・高千地区・片辺集落の昔話・・・ナゼ?・・・金山と島流しの島・・・鶴嘴(つるはし)と重労働の囚人・・・「霍去病」、「霍乱・揮霍撩乱」・・・金鉱山の坑内労働による「熱中症」での水分不足、脱水症状かも・・・
ーーーーー
 日射病=直射日光で発生する病気で、発汗で脱水症状となり、倦怠、悪心、頭痛、目眩、意識障害、痙攣を起こす。
 熱射病=高温多湿な環境下で運動、作業をした時に起こり、体温調節機能が不全となり、倦怠、頭痛、目眩、意識障害を起こし、発汗せず、40度以上の高体温となる。
 熱中症=高温や多湿の環境下で起こる身体の障害の総称。
     発汗による脱水と、血管の拡張で血圧が下がり、
     目眩、失神などを起こし、大量の発汗により、
     塩分やミネラルが不足し、
     筋肉の痙攣を起こす。
     多量の発汗に水分や塩分の補給が追いつかず、
     脱水症状となった時に発生。
     体温調節機能が失われての「熱射病」がある。
     熱中症の重症度分類
     熱痙攣、熱失神が「軽症」
     熱疲労は「中等症」
     熱射病は「重症」・・・
ーー↓↑ーー
 「・・・
  小さな幸せに・・・・・大きな仕合わせってナニ?
  氣づかないんだろ・・・日常性はアタリマエだから
  時を越えて・・・・・・トキは今現在しかないから
  君を愛せるか・・・・・生きている限り・・・
  ほんとうに・・・・・・ホントウでなくてもサッ
  君を守れるか・・・・・マモレルチカラがあるならば
  空を見て考えてた・・・ソラには攫めるモノはないけれど
  ・・・」
https://www.youtube.com/watch?v=dJ9ve_EGYmw
Tashikanakoto
https://www.youtube.com/watch?v=UFBE6bdjlrE
ーー↓↑ーー
 「確かを英語に訳すと
   1〈たぶん〉maybe・・・多分=たぶん=多聞・他聞・多文?
        probably
        if I remember right (rightly)
        if I am not mistaken.
    主な英訳
    probably、likely、belike、
    in all likelihood、
    in all probability、
    sure as shooting、
    sure enough、
    for certain、sure、・・・
    「確かなモノはナニもない・・・」
    It's not for sure.
    I have no hard evidence of...
   there is no hard evidence that...
   credible evidence to support someone's claim
     hard evidence to support someone's claim
        evidence=証拠・物証・証言
        claim=請求・要求
ーー↓↑ーー
 「確」=石+隺
    =石(一ノ口)+冖(わ・ワ)+隹(ことり・スイ)
    =たしか(真実で間違いない事
         危なげない事
         はっきりしている事)
  確実・明確
    =たしかに・たしかめる(確認)
    =堅い(中がつまって砕けにくい)
        強くて堅い
    =しっかりして動かない(確立)
 「確」=石+隺
     崖の下に落ちている「石」
     と
     はるか遠いを意味する指事文字「冖」と
     尾の短い小鳥「隹」の象形
     小鳥が高く飛ぶの意味・・・
     だが
     「硬」に通じ「硬(かたい)」と同じ?
     かたい石
     カク・たしか・たしかめる
     「かた(い)・しか(と)・しっか(り)」
     名前
     「あきら・かたし・たい・たかし」
     はっきりしていて間違いがない
     たしか
     確実・確証・確認・確報
     確約・正確・的確・明確
     かたく決めて動かないさま
     確固・確執・確信・確定・確保・確立
     「確実」の略・「当確」
     確と=しかと
     簡体字=确
     異体字=塙・碻
         礭(石+霍)・・・迨・瞿・迮
         霍=にわか・カク・・・霍乱
           俄(にわ)か・・・鬼の霍乱
           「揮霍撩乱(キカクリョウラン)」の略
            日射病、暑気あたり
            江戸時代には夏に起こる
            激しい吐き気や下痢を伴う急性の病気
          =「飛び去る・飛び散る・さっと
            雷光の閃き・瞬時・一瞬」
          =霍去病(カクキョヘイ)
           紀元前140年~紀元前117年
           前漢の武帝時代の武将で
           紀元前119年
           匈奴を撃破殲滅
           紀元前117年
           24歳で死亡・・・
          「去病という名は速やかに病気が去る」
           と云う意味の名前らしいが、
           後付けの名前で
           霍(にわか)に病で死去の意味カモ?
        =㟼・㠂
        =墽・嶅
     声符=「隺(カク)」
        「迨・瞿・迮」
        「雀・孔雀・紅雀(ベニスズメ・紅雀蛾)」



 「塙」=はなわ・かたい・バン
     土が固い・堅土・土が小高くなった場所
     「確」と通じて確(たし)か
     「确」と通じて硬(かた)い
     「墽」と通じて「石の多い土地」
      墽=十+一+白+方+攵(ボク・ホク)
         ↓↑
        「敫=白+方+攵」・・・類字は「敷(しく)」
        「攵=攴=ト(筮竹)+又(右手)」
         攵=(ノ一)+(乂)
           「ノ―」=髪挿し・櫛(くし)
          =ノ+―+乂
         攵(ぼくづくり・ぼくにょう
           のぶん・しぶん・とまた)
         ↓↑
         類字は「檄文」の「檄」
         敫(キョウ・ヤク)
         白(白光)+放=白光が四方に輝く
         役所から出る木札の文書
         同志に行動を求める文書
         檄文(ゲキブン)
         ↓↑
        「高札(たかふだ・コウサツ)
         農民、商人を取り締まる
         基本的なきまりを公示したもの
         路傍の一定場所に
         法度や掟書を記した板札(掲示板)」
         五榜の掲示
         慶応四年三月十五日(1868年4月7日)
         明治政府太政官が立てた
         五つの高札
         民衆に対して出した最初の禁止令
         ↓↑
         明治七年(1874年)に
         高札の廃止が決定され、
         2年後の
         明治九年には完全に撤去された
         ↓↑
         檄文(ゲキブン)
        「励ます文辞」
        「敫・激・檄・邀」
         激(はげ)しい
         激流(ゲキリュウ)
         激励(ゲキレイ)
         急激(キュウゲキ)
         感激(カンゲキ)
     「檄」
      ↓
     「塙=はなわ・かたい・バン」
      日本語では、山の突き出た場所
     「説文解字・巻十三」に
     「堅くして拔くべからざるなり」と記録
      高は高楼の象形文字
     「塙=土と高で、乾いた土と、高い土地」
      はなわ=山のさし出た所?・・・嵌名倭・牛の鼻輪
      かたい・はなわ・バン
  ・・・ナゼ、「はなわ」が
        「塙=十一亠口冂口」の漢字なのか?・・・
        「津軽三味線」の「はなわちえ」も
        凄いけれど・・・
        「塙」は歴史的にヤッパ
         ↓↑
        「塙 保己一(はなわ ほきいち)
         延享三年五月五日
        (1746年6月23日)
          ~
         文政四年九月十二日
        (1821年10月7日)
         国学者
         幼名は丙寅にちなみ
        「寅之助(とらのすけ)」
         失明後に
        「辰之助(たつのすけ)」と改名
        「多聞房(たもんぼう)」とも名乗る」
        「雨富検校=雨富 須賀一
           (あめとみ すがいち)」
         に入門してからは、
         千弥(せんや)
         保木野一(ほきのいち)
         保己一(ほきいち)
         と改名
        「群書類従・続群書類従」の編纂者
         総検校・贈正四位
         子供は
         伊藤博文と山尾庸三に
         暗殺された
         国学者の
        「塙忠宝」・・・
      ↓↑
     「康煕字典」に
     「塙」と同じとある異体字は「檄」
     「橋」の異体字でもある・・・
ーー↓↑ーー
 五榜の掲示
 前日に
 五箇条の御誓文が発出
 五箇条の御誓文
 天皇が神明に誓う形式で表明した施政方針
 公卿や大名に示され、
 都市で発売されていた
 太政官日誌に布告された
 ↓↑
 五榜の掲示は、
 全ての国民を対象に、
 全国各地の高札場で掲示され
 民衆への新政府の姿勢を表明
 第一札~第三札
 「永世の法」
 第四札~第五札
 万国公法の履行
 外人殺傷の禁止
 脱籍浮浪化の戒め
 内容
 君主や家長に対する忠義の遵守、
 集団で謀議を計ること
 (徒党・強訴・逃散)の禁止
 キリスト教・邪宗門の信仰の禁止
 旧幕府時代の高札の廃棄
 奥羽越列藩同盟の藩では、
 五榜の掲示は立てられず、
 新政府との開戦と同時に破棄された
 佐幕派の大名・旗本領でも掲示されていなかった
 五榜の掲示の
 第三札(切支丹邪宗門の禁制)
 慶應四年=明治元年閏四月四日
 (1868年5月25日)
 「切支丹宗門」と「邪宗門」を別条で禁じ、
 密告褒賞を削除するよう改められた
 明治四年十月四日
 (1871年11月16日)
 第五札が除却
 明治六年(1873年)二月二十四日
 高札制度が廃止
 と同時に
 第一札~第四札も除却
 五榜の掲示に示された各条は
 事実上廃止された
 ↓↑
 五榜の掲示内容
 ↓↑
 第一札:五倫道徳遵守
 第二札:徒党・強訴・逃散禁止
 第三札:切支丹・邪宗門厳禁
 第四札:万国公法履行
 第五札:郷村脱走禁止
 ↓↑
 第一札
   定
 一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
 一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
 一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ惡業アル間敷事
     慶應四年三月   太政官
 ↓↑
 第二札
   定
 何事ニ由ラス宜シカラサル事ニ大勢申合セ候ヲ徒黨ト唱ヘ徒黨シテ強テ願ヒ事企ルヲ強訴トイヒ或ハ申合セ居町居村ヲ立退キ候ヲ逃散ト申ス堅ク御法度タリ若右類ノ儀之レアラハ早々其筋ノ役所ヘ申出ヘシ御褒美下サルヘク事
     慶應四年三月   太政官
 ↓↑
 第三札
   定
 一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事
     慶應四年三月   太政官
 ↓↑
 閏四月四日改正
 先般御布令有之候切支丹宗門ハ年來固ク御制禁ニ有之候處其外邪宗門之儀モ總テ固ク被禁候ニ付テハ混淆イタシ心得違有之候テハ不宜候ニ付此度別紙之通被相改候條早々制札調替可有掲示候事
   (別紙)
 一 切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事
 一 邪宗門之儀ハ固ク禁止候事
     慶應四年三月   太政官
 ↓↑
 第四札
   覚
 今般 王政御一新ニ付 朝廷ノ後條理ヲ追ヒ外國御交際ノ儀被 仰出諸事於 朝廷直ニ御取扱被爲成萬國ノ公法ヲ以條約御履行被爲在候ニ付テハ全國ノ人民 叡旨ヲ奉戴シ心得違無之樣被 仰付候自今以後猥リニ外國人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業等イタシ候モノハ 朝命ニ悖リ御國難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦 御交際被 仰出候各國ニ對シ 皇國ノ御威信モ不相立次第甚以不届至極ノ儀ニ付其罪ノ輕重ニ随ヒ士列ノモノト雖モ削士籍至當ノ典刑ニ被處候條銘々奉 朝命猥リニ暴行ノ所業無之樣被 仰出候事
     慶應四年三月   太政官
 ↓↑
 第五札
   覚
 王政御一新ニ付テハ速ニ天下御平定萬民安堵ニ至リ諸民其所ヲ得候樣 御煩慮被爲 在候ニ付此折柄天下浮浪ノ者有之候樣ニテハ不相濟候自然今日ノ形勢ヲ窺ヒ猥ニ士民トモ本國ヲ脱走イタシ候儀堅ク被差留候萬一脱國ノ者有之不埒ノ所業イタシ候節ハ主宰ノ者落度タルヘク候尤此御時節ニ付無上下 皇國ノ御爲叉ハ主家ノ爲筋等存込建言イタシ候者ハ言路ヲ開キ公正ノ心ヲ以テ其旨趣ヲ盡サセ依願太政官代ヘモ可申出被 仰出候事
 但今後總テ士奉公人不及申農商奉公人ニ至ル迄相抱候節ハ出處篤ト相糺シ可申自然脱走ノ者相抱ヘ不埒出來御厄害ニ立至リ候節ハ其主人ノ落度タルヘク候事
     慶應四年三月   太政官
ーーーー
 ・・・???・・・

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それでも・・・ソラはクウ、ウミはカイ、ヤマはサン、カワはセン・・・

2017-03-21 00:56:26 | 古事記字源

 ・・・シリア・アレッポの「空」・・・なんか、TVの画面を見ていて、これが地球上の人間同士の「日常性」なんだ、と思うとウンザリである。それに世界的なニュースの日常を伝えるアナウンサー、キャスター、コメンター達の情報を伝える顔の表情は笑ったり、怒ったり、涙を浮かべたり、痛そうで、沈痛な面持ちになったり、驚きで眼を剥いたり、元気そうに鼓舞したりで、今現在の世界の天獄、煉獄、地獄の映像を絡ませ、事件ごとに表情を変えていく・・・あの「表情」は本物なんだろう、が・・・
 この時期、TVで合格発表の数字を確認し「笑い泣き」、「泣き笑い」はみるが、ニュース、or バライテイなどのTVに登場する人々は、まさにタレントの「竹中直人ばりの笑いながら怒る人」の表情の練習を無意識にしているんだろう・・・
 シリア・アレッポの「空」・・・爆弾、ミサイルが落ちてくるのをタダ、タダ、空を見上げて、病院が破壊される空間にいるだけでイイハズがない・・・しかも「毒ガス(爆弾)」の散布・・・
 紺碧の空、星々の輝く空を眺めている暇ない・・・だが、地下室に逃げても地中貫通爆弾(Bunker Buster)、遠くに逃げてもクラスター爆弾(cluster bomb・集束爆弾・親子爆弾)・・・ナパーム弾(Napalm bomb)が空から降ってきたら、その周辺も酸欠、一酸化ガスが蔓延・・・呼吸する場所は無い・・・
 アメリカ軍の焼夷弾空襲、原爆投下、ヴェトナムの北爆、北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビアに対する空爆、湾岸戦争でのイラクの首都バグダードへの空爆・・・
 そして、シリア・アレッポの「空」・・・「般若心境の色即是空、空即是色」か?・・・文字通り、「空の色、色の空」は変化させられる・・・
 「3月19日、21:00 NHKスペシャル・シリア絶望の空の下で閉ざされた街・最後の病院」・・・「今世紀最悪の人道危機」だってか?・・・「最悪」って「被害者の人数のコト」なのか?・・・「人道危機」にはランクはない・・・
 「アサドのシリア政府軍」と「プーチンのロシア軍の空爆」・・・「アベ」がナゼ、あんなデタラメな「プーチン」と「北方4島」で仲良くできるのか、「アベ」がナゼ、あんな白人主義者の「トランプ」と仲良くできるのか、哂っちゃう・・・
 それにNHKの「9:00・日曜討論・進むミサイル開発・北朝鮮にどう向き合う」での軍事衝突にまったく危機感のない「安全保障と国際政治の専門家6人?」の言辞には嗤っちゃう。日本のアッパレな「空」をタダ、タダ眺めていればどうなるのか・・・
 それに、「15:25・そこまで言って委員会」の無責任なプチブル客観主義者たちの言辞・・・
 オマケに「23:30・サイエンスZERO・チェルノブイリと福島~環境編~」・・・日本の山間の急流の河川が放射能のセシウムの「濃度」を早く減らすって、「農奴」も当然存在しなくなるのは事実だが、豊洲の「ノウド」はどうなる・・・そもそも原発が存在し、爆発し、事故れば、放射能汚染で人々が死ぬ以前に、この世の地獄の経験をするのだ・・・
 文明、文化の人間の知識と技術は、「人為的戦争破壊」がなくても、古代から近代、現代社会の事故は「天災(自然災害)」と「人災(人為災害)」が重なるのは当然である・・・自然に逆らった居住空間、交通機関は、その天災事故を人為空間領域に拡大させ、事故を巨大化させる・・・
 TVが家の中に6台もあれば、いや、今や巨大なモニター画面の中に、幾重もの世界の現実、世界の狂想、妄想が視覚的にも聴覚的にも「曼荼羅」パターンの情報で脳ミソに統合させていく?・・・喜怒哀楽が同時に、立体的に、五感を刺激しているが・・・これらを脳ミソは、協和的になのか、不協和的なのか認識しているらしいが・・・刺激が相殺されて消えていくモノもあるらしい・・・
 「交響楽団」の入り混じった「音」は、個々の楽器の「調和、和合(harmony)」なのか、どうなのか・・・指揮者は「絶対音感」を有している(?)らしいけれど・・・不協和音の「音楽」って・・・
 これって、酔っ払って、あるいは、ラリッて、感覚が麻痺しているのか、鋭敏に研ぎ澄まれてしまっているのか・・・無関心なのか、冷静なのか、自己保身、エゴの塊りになっているのか・・・
 「ソラ」を見ていたら次は「シド」で、「レミハ」・・・ナルほどである・・・
 アルプス山中の氷河で発見された5300年前の「アイスマン」・・・「0:00・地球ドラマチック・よみがえるアイスマン~科学とアートが明かす謎~」ですか・・・

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