・・・シンシンと雪が積もった朝、外に出て庭を見わたしてもモモちゃんの足跡は無い・・・女王の崩御は「十一月一日」だったけれど・・・「Kyrie eleison」・・・「鎮魂歌(requiem・レクイエム・ラテン語Requiem・レクィエム)=安息の歌曲・葬送の歌曲」、「鎮魂(慰霊・死者を悼む」・・・「レクィエム→霊悔(躯)意慧(恵)務?」・・・日本神道では「生者の魂を体に鎮める鎮魂、生者の魂の活性の魂振(たまふり)・御たましずめ(生き霊の鎮静)、御たまふり(生き霊の活性)」・・・ムカシの「日本人(?)」の考え方は「対象存在」とソレを「存在認識」する生きている人間の認識思惟の整合的、合理的なモノだった。「色(五感認識)即是空(無規定の存在)=空(対象存在)即是色(規定された対象思惟認識)」、「色=シキ=識」、「空=クウ・コウ・ク=句得・故有・具」=「矩宇(クウ)」・・・死者の為ではなく、生きているモノに対するコトバであるらしい・・・確かに、「鎮魂式」を行うとは、愛しいモノを失って、悲しみに涙を流し、落ち込んでいる「遺され生きている者のタメの鎮魂の儀式」であるカナ・・・遺族、親族、友人でなくても、御近所の知り合いが集って「涙(泪・涕)」を誘われ、流すのは、「遺されて生きているモノに対する鎮魂のナミダ」である。そして、喪に集会した人々自身の「己の鎮魂」に、である・・・「泣き屋」と云う「不思議な職業」もあるらしいが、他人の「喪=(十口口一丄乀ノ)or(亠口丄口レ乀ノ)」は「おまつり」、生き残(遺)ったモノの「協同体のevent・festival・celebration・fete」だから不思議ではない。元気づけに遺族を囲んでドンチャン騒ぎもする・・・「祀り・祭り・奉り・政り」・・・「鎮魂・鎮星=土星」の漢字・・・ナゼ、「土星(ドセイ・Saturn・♄ฺ・♄)」なんだか、公転周期が29.46年(約30年)、球体の周りの「輪(わ・リン)=七輪(内側から順にD環,C環,B環,A環,F環,G環,E環、2009年10月現在、12本の環が確認)」は「15年毎(ごと)に一度、観(視)えなくなる」、数字的には「(29.5)÷4≒7.37」・・・占星術の土星周期の七年目、7年目の休耕、(7×7)+1=49年目と次(接)ぎの1年の50年目のヨベルの安息年・・・「鎮星(チンセイ)=填星 (テンセイ) =」・・・クロノス、山羊座の守護星、彼の祭日(12月17日~24日)期間には奴隷も自由が許された・・・「Kyrie eleison」・・・
「土星=英語(Saturn・サターン)・・・
星座記号は「♄・♄ฺ→ち」に似ている
ラテン語(Saturnus・サートゥルヌス)
ギリシア語(Κρόνος・クロノス)」
アラビア語(ズハル)
「農耕の神、時の神
衛星のタイタン (Saturn VI Titan) は
6番目で、太陽系では2番目の大きさ
XVIIのパンドラ (Pandora) 衛星は
最近発見(1980年10月)された」
「填=土(十一)+真(眞→ヒ+目+乚+八)=塡
うづめる・ふさぐ・みたす・はめる・テン」
填塞 (てんそく) ・填補・充填・装填・補填
「鎮=金+真(眞→ヒ+目+乚+八)
しずめる・しづまる・おもし・おさえる・チン」
鎮圧・鎮火・鎮護・鎮魂・鎮座・鎮守
・鎮静・鎮痛
重鎮・風鎮・文鎮
↓↑
「真鍮(シンチュウ)」の「シンバル(cymbals)=鐃鉢(ニョウハチ)=鐃(バツ) 」・・・「シンボル(symbol)=象徴」ではないが、突然の大響音では、うるさいカモ・・・「ペルシャの市場」は兎に角、「京劇の孫悟空」は矯激、挟撃音の驚愕音である・・・
↓↑
「真」と「眞」の漢字だが、次の漢字もあった・・・
「真実」と「眞実」はマサニ、漢字の「シンジツ」が行政として、法律として「人名付(附)与」として揺れ動いていた、いる、のだ・・・「賦与・扶余」だけじゃぁなく・・・「文書記録の専門職業」ではあるが、行政事務方の「記録役人の仕事」も大変である・・・裁判官と検察官・・・「司法行政」での「記録文言」が僅かに異なっていても「無罪か有罪」の境目に「被疑者」は立たされている・・・有罪、冤罪、そして無罪、放免・・・誤まって重罪判断判決を宣告した人間は贖罪も懺悔もしないかも・・・ナゼ、「保釈金制度」、「執行猶予」があるんだか・・・「救済」はダレのタメのモノなのか・・・親鸞に訊ねてみたい・・・なるほど、「絶対他力本願」って、「人」を救えない「エゴ」だったらしい・・・
その、「イイ加減さのハナシ」がブログ検索したら出てきたので、その概要を添付する・・・原文は「真(眞)」の漢字を検索したら容易に「発見=ハッケン=八卦務?」出来るだろう・・・
ーーーーー
↓↑
昭和17年6月17日国語審議会
昭和21年11月16日内閣告示された当用漢字表
昭和23年1月1日戸籍法施行規則
「眞」は出生届に使用許可
「真」は出生届に使用不許可
昭和24年4月28日当用漢字内閣告示、字体表で
昭和24年6月29日回答
「眞」は出生届に使用許可
「真」は出生届に使用許可
昭和52年1月21日国語審議会、新漢字表試案に
「真」が収録
「眞」も収録
「真=眞」
昭和54年3月30日国語審議会報告、常用漢字表案
「真=眞」となっていたが
「」
の字体に変更
昭和56年3月23日国語審議会、常用漢字表
「真=眞」となっていたものが、
「」
「眞」→目→「月(冃)+一+L+八」
冃(づきん・ボウ)
平成16年9月27日戸籍法施行規則
旧字の「眞」の字体が変更
「目」の下の部分が
あいた当用漢字表の字体に戻された
「目」の下の部分がくっついた
「眞」は、
昭和56年10月1日~平成16年9月26日
の間だけ、子供の名づけに使えた
新字の「真」
旧字の「眞」
変更の字体
「」
「目」→「月(冃)+一」、
「冂+三+乚+八」
どれでも「現在はOK」らしい・・・
・・・「女真・女直」族の「金」さんにも訊いてみたいが・・・
ーーーーー
・・・送られてくる「mail」に「Insufficient fundsAlert」の文字があったが・・・「ヴィルス」に感染して以来、個人的に知らない人のモノは開けるコトはないが・・・知らないヒトがナゼ・・・英語辞典の検索項目から拾えば・・・
↓↑
残高不足
Insufficient fundsAlert
Attention
Warning
Notice
「警告・注意」
不十分な,不足な
insufficient evidence
証拠不十分
There're insuff
I am sorry that my explanation regarding
that is insufficient.
be insufficient
be insufficient
欠ける, 缺ける, 闕ける
an insufficient supply of food
不十分な食糧供給
不適当
insufficient protection
不適当な保護
He is insufficient to discharge
the duties of an office.
This could result in overdraft
item or insufficient funds
fees being assessed on your account.
Want to confirm this email is from
「執行猶予」
不十分な,不足な
an insufficient supply of food
不十分な食糧供給
(…に)不適当・不適切な
の力量不足
能力のない
insufficient protection
不適当な保護
He is insufficient to discharge ~
ーーーーー
・・・???・・・
ーーーーー
・・・「産経新聞」のブログ記事にボクにとって「緯度33°」に関する興味深い記事があったので・・・重複するが・・・
↓↑
ーーーーー
クレタ島(北緯35度10分 東経24度5分 )
ガヴドス島(北緯34度50分 東経24度5分)
↓↑
呉軍港・・・広島・・・
北緯34度14分26.3秒
↓↑
音戸の瀬戸が、
1164年(長寛二年)に開通
↓↑
第二海軍区軍港開港計画決定、
広島県に鎮守府
呉・三原
江田島が候補地として
1883年(明治十六年)から測量
1884年(明治十七年)
呉に決定
1885年(明治18年)8月4日
明治天皇が、船上から視察
1886年
勅令第31号で軍港境界決定
真木長義中将を建築委員長
佐藤鎮雄大佐を副建築委員長
とし、
1887年(明治20年)11月起工
施工業者
藤田組
大倉組(大成建設)
両社が競い合って流血騒事件
海軍主導で両社を一つの企業
「日本土木会社」
として仲介、仲裁
1889年(明治22年)3月末竣工
1889年(明治22年)7月1日
呉鎮守府が開庁
以降軍港・・・
↓↑
1903年(明治36年)
呉海軍工廠が設立
安芸郡
和庄村・宮原村・荘山田村・警固屋村
の4村で呉港区で開発が始まり
1921年(大正10年)
呉鎮守府広支廠(広海軍工廠)が設立
広港区が、
1942年(昭和17年)
内務省直轄工事として
仁方港区が開発
↓↑
太平洋戦争末期
アメリカ軍の爆破目標
1945年(昭和20年)3月
呉軍港空襲を受け機能停止
戦後は呉工廠は閉鎖
戦後
イギリス連邦占領軍の管轄
1948年(昭和23年)
「呉港貿易港」に指定
開港
1950年(昭和25年)
旧軍港市転換法施行により
占領軍から返還
1951年(昭和26年)
呉港は「重要港湾」に指定
1952年(昭和27年)
呉市が港湾管理者に認可
↓↑
ーーーーー
胆振支庁(いぶりしちょう)・・・愛媛県の「日振」ではなく、
北海道の「胆振」である
北海道に存在した支庁の一
支庁名は胆振国 に由来
人口密度は
高知・島根・秋田・岩手の四県が高い
胆振総合振興局とし、
日高振興局=総合振興局と
同等の地位(地方自治法上の支庁)とされた
北海道内では石狩支庁に次いで二番目
↓↑
ーーーーーー
渡党・・・・・渡邉綱=「源宛の子」
↓↑ 嵯峨源氏の「源融」の子孫
正式な名のりは
「源綱(みなもと の つな)」
通称は渡辺源次
源頼光四天王の筆頭
渡辺氏の祖
渡邉崋山・・・?
ミナモトのゲンジ?
ミナモトをアテル?
ミナモトをトカス?
酒呑童子(シュテンドウジ) 退治
源頼光の四天王の一人
羅生門の
鬼(酒呑童子=茨木童子)
↓↑ の片腕を切り落とした?
↓↑ 典型的な出来過ぎの「源字」である
↓↑ 「源字・言辞・元治・源治」だョッ
↓↑ 金太郎・桃太郎・浦島太郎ちゃん
松前藩の歴史書
『新羅之記録』以来
和人が蝦夷地へ
渡った一党であるとされ・・・「新羅人」だろうさッ・・・
松前氏も
和人を名乗った
渡党の祖先について
日本海沿岸地域
北東北地域
からの移住者であるような
系図伝承となっている
建久二年(1192年)
源頼朝が
重犯罪人を
蝦夷地へ流刑とするように奏上
強盗などを流刑とした
頼朝の
奥州藤原氏征討から逃れた
藤原氏被官も蝦夷地に渡った・・・
↓↑
奥州藤原氏自体が、
朝廷などから
夷と呼ばれ
戦前の研究者は、
「和人化したアイヌ=東北地方の蝦夷」
が蝦夷地へ渡った・・・
昭和25年(1950年)
奥州藤原氏のミイラ調査結果
藤原秀衡には
アイヌ人ではなく和人・・・
中世における
蝦夷の概念自体を再見直しし、
アイヌ文化を
受容した本州からの渡航者である
渡党を含むとし
渡党についての
人種的所見は不詳
『新羅之記録』
には、
源頼朝による
奥州合戦から逃れた者と
流人の子孫が
渡党である旨の記載・・・
北海道庁『北海道史第一』
1918年 には、
戦乱を逃れた和人、
漂流者及び出稼ぎ者が
渡党となったとの記載・・・
↓↑
ーーーーー
胆振国(いぶりのくに)
大宝律令の国郡里制を踏襲し
戊辰戦争(箱館戦争)
終結直後に制定された
日本の地方区分の国の一
五畿八道のうち
北海道 (令制)に含まれた
当初は
膽振國とも表記
国名の由来
斉明天皇のころ
阿倍臣が
胆振鉏(いぶりさえ)の
蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事
道南から道央にかけての地域に位置
胆振総合振興局管内の全域、
渡島総合振興局管内の
長万部町
八雲町のうち
旧熊石町を除く部分
後志総合振興局管内の
虻田郡、
石狩振興局管内の
千歳市・恵庭市、
上川総合振興局管内の占冠村にあたる
↓↑
日本書紀
斉明天皇五年(659年)
阿倍比羅夫
が
後方羊蹄(しりべし)・・・「後方の羊の蹄(足の帝)」?
に郡領を置いた
後方羊蹄は
虻田郡域・・・・・・・・「アブ-タ」です、「則天武后」です
の羊蹄山付近との説・・・
一方、
胆振鉏について
新井白石は
勇払郡域(ユウフツ)に当たるとの説
千歳郡域内(恵庭市)では
蝦夷征討が盛んに行われていた
飛鳥時代から平安時代初期にかけて
茂漁古墳群(柏木東遺跡)が築かれた
の古墳群からは
土師器
須恵器
和同開珎
律令時代の
六位以下の位階を示す
帯金具などが発見
構造も
石狩国札幌郡の
江別古墳群
北東北の終末期古墳と同様の群集墳
千歳郡域では
皇朝十二銭のひとつで
平安時代に流通していた
隆平永宝
が恵庭市の
茂漁8遺跡から、
富寿神宝
などが千歳市の
ウサクマイ遺跡群から出土
当時の胆振国域では
擦文文化が栄えていた
後に
渡島半島を中心とする地域では
擦文文化
と
本州土師器文化の
混合的文化である
青苗文化が成立・・・
青苗文化を足がかりに、
主に東北地方から移住し、
本州と蝦夷との交易に携わる人々が現れ
これが渡党・・・
居住地は道南
活動範囲は
渡島半島周辺地域にも及んでいた
北海道太平洋岸
には
「日の本」・・・・・「日本」の原点は東北蝦夷です
と呼ばれる蝦夷が存在
鎌倉時代
「渡党」と「日の本」は
蝦夷管領の支配下に置かれていた・・・まだ国名は
↓↑ 「日本」じゃぁ無かった?
雍熙元年(984年)=中国年号
永観二年(984年)=甲申年=日本年号
に入宋した日本人僧の
「奝然(チョウネン)」の
「王年代紀」が
「宋史日本伝」で
「日本史」の紹介記事?
984年11月5日
(永観二年十月十日)
円融天皇が譲位し、
第65代天皇・花山天皇が即位
各国年号
北宋=太平興国九年、雍煕元年
遼=統和二年
大理国=明政十六年
于闐=中興七年
奝然が宋の太宗に献上した
「王年代紀」が
「宋史日本伝(1345年完成)」に収録
「新唐書日本伝(1060年)」・・・日本国
も、
「王年代紀」を参照にした・・・?
「旧唐書倭国伝・945年(開運2年)6月」
・・・倭と日本が併記
↓↑ 1295~1298年のマルコの時代
↓↑ ジパング(Cipangu)
ジーベングォ=中国語発音の日本?
↓↑ Chipangu
↓↑ ジパング(Zipangu)
↓↑ 東北の奥州の金産地?or佐渡島?
↓↑ 元が遠征した東南アジアの小国家群を示す
↓↑ 「諸蕃国(ツィァパングォ)」の訛り?
室町時代
康正3年=長禄元年(1457年)
コシャマインの戦い
胆振国域のほぼ全域で
和人と蝦夷による戦いが繰り広げられた
↓↑
江戸時代
松前藩
松前藩家臣が
蝦夷の人々と交易を行う
十ヶ所の場所とよばれる
知行地が開かれた
↓↑
ヤムクシナイ場所・・・山越郡
アブタ場所・・・・・・虻田郡
ウス場所・・・・・・・有珠郡
モロラン場所・・・・・室蘭郡
ヱトモ場所・・・・・・室蘭郡
ホロベツ場所・・・・・幌別郡
アヨロ場所・・・・・・白老郡虎杖浜
シラヲイ場所・・・・・白老郡
ユウフツ場所・・・・・勇払郡
シコツ場所・・・・・・千歳郡南部(千歳市)
ユウフツ場所に編入された
シコツ場所に相当
シュママップ場所・・・千歳郡北部
(恵庭市穂栄、北島、林田、漁太近辺)
シュママップ場所は
石狩十三場所の一
石狩国札幌郡南部(北広島市)も含む
↓↑
江戸時代~明治時代初頭
胆振国域の交通
沿岸部に一部地形が険しく道が途絶え
舟に乗り換える区間があった
寛政年間
山越郡と虻田郡の境を越える
長万部~虻田間の道(国道37号静狩峠の前身)
室蘭~幌別間の道などが開削
渡島国の
箱館から道東や千島国方面に至る陸路
(室蘭以西は国道37号、室蘭~苫小牧間は
札幌本道や国道36号、苫小牧以東は国道235号の前身)
が繋がっている
文化年間
勇払~千歳に至る千歳越
安政4年(1857年)
後志国小樽郡の
銭函~石狩国札幌郡を経て
千歳に至る札幌越新道(千歳新道)が開削
太平洋岸と日本海岸を陸路で結んだ
胆振国内の河川
藩政時代~廃使置県までの間
10箇所の渡船場数があり、渡し船が運行
海上交通
畿内や奥羽の
日本海側など道外方面との間に
北前船の航路が開かれ、
室蘭や苫小牧などにも寄航
↓↑
江戸時代初期
寛永17年(1640年)
内浦湾対岸にあたる
渡島国域の
駒ヶ岳が
山体崩壊し
大津波が発生
胆振国域で多数の犠牲者
駒ヶ岳の大噴火は
寛永の大飢饉にも影響
寛文9年(1669年)6月
日高国域を中心に起こった
「シャクシャインの戦い」
胆振国域内で多くの和人が殺害
蝦夷の軍勢は
松前に向かったが、
鉄砲を主力とする
松前藩との山越郡域の
クンヌイ(長万部町国縫)における合戦
で敗北、平定・・・
↓↑
胆振国域での火山活動
虻田郡域の
有珠山噴火
寛文3年(1663年)
明和6年(1769年)
文政5年(1822年)火砕流によって虻田の集落が全滅
嘉永6年(1853年)
樽前山噴火
勇払郡域と千歳郡域が被害
寛文7年(1667年)
元文4年(1739年)
文化元年(1804年)
蟠渓温泉
登別温泉・・・最上徳内の『蝦夷草紙』に記録
↓↑
江戸時代後期
胆振国域=東蝦夷地
山越郡域は和人地
寛政11年(1799年)
東蝦夷地は
公議御料(幕府直轄領)
翌12年(1800年)
八王子千人同心千人頭
箱館奉行支配調役
原胤敦の弟・新助の一行が移住
苫小牧市の基礎を築いた
享和元年(1801年)
山越内関所が設置
渡島国亀田郡にあったものを移転
蝦夷地への
武器の持ち込みなどを取り締まる国内最北の関所
文政4年(1821年)
松前藩領に復し
安政2年(1855年)
再び公議御料
ホロベツ以西は南部藩
シラヲイ以東は仙台藩
が警固を担当
南部藩は
室蘭郡域(元陣)
ヤムクシナイのヲシャマンベ(分屯所)
仙台藩は
シラヲイに陣屋を設置
安政6年(1859年)
6藩分領以降、
一部が
南部藩領(虻田郡南西部、絵鞆、幌別郡)
仙台藩領(白老郡)
になっていたが、
他の各藩警固地は公議御料のまま
戊辰戦争時、
江戸開城後成立した
蝦夷共和国に
開拓奉行(室蘭奉行)が設けられ、
室蘭に250名が移住
箱館戦争終結まで開拓と守備を行った
↓↑
明治2年(1869年)8月15日
胆振国8郡が制定
44村が含まれた
同年7月~明治4年(1871年)8月
まで道外の藩や士族などによって分領支配
明治3~4年(1870年~1871年)
本願寺道路が建設
明治5年(1872年)
虻田郡黒松内村が後志国寿都郡に移管
明治5~6年(1872年~1873年)
江戸時代の道をもとに
札幌本道が建設
明治15年(1882年)2月8日
廃使置県
山越郡は函館県の、
それ以外の全域は
札幌県の所管
となる
↓↑
日胆(にったん)
北海道に設置された
律令制国で
日高国と胆振国を合わせて呼ぶ名称
↓↑
施設
寺院
比叡山の僧
円仁が平安時代の
天長3年(826年)に開山
江戸時代には
蝦夷三官寺のひとつの
有珠善光寺が
有珠郡の一部だった
伊達市にある
文政年間
山越内に建立された
阿弥陀堂を起源とする
山越郡(八雲町)の
円融寺
室蘭郡(室蘭市)の
常照山満冏寺(まんけいじ)、
山越郡(長万部町)の
光明山善導寺
などが
江戸時代に建立
↓↑
神社
神仏混合(平安朝)時代
和人が地元人とともに奉斎したと伝わる
刈田神社
江戸時代初期に建立された
弁天堂を起源とする
千歳神社
寛政年間にはすでに存在していた
大臼山神社
以下
江戸時代以前の創建
↓↑
山越郡 諏訪明神社(現山越諏訪神社、二海郡八雲町)
山越郡 飯生神社(山越郡長万部町)
虻田郡 豊浦神社(虻田郡豊浦町)
虻田郡 稲荷神社(虻田郡洞爺湖町虻田地区)
有珠郡 大臼山神社(伊達市)
室蘭郡 崎守神社(室蘭市)
室蘭郡 絵鞆神社(室蘭市)
幌別郡 刈田神社(登別市)
白老郡 弁天社(現白老八幡神社 白老郡白老町)
勇払郡 恵比須神社(苫小牧市)
千歳郡 弁天堂→思古津稲荷大明神(現千歳神社、千歳市)
旧社格は、千歳神社が郷社である。
↓↑
地域
郡
胆振国
八郡で構成
山越郡
虻田郡
有珠郡
室蘭郡
幌別郡
白老郡
勇払郡
千歳郡
↓↑
江戸時代の藩
松前藩領、松前氏(1万石格)
1599年~1799年・1821年-1855年(胆振全域)
南部藩モロラン陣屋
1859年~1868年(虻田場所南西部、絵鞆場所、幌別場所)
仙台藩白老元陣屋
1859年-1868年(アヨロ場所、白老場所)
分領支配時の藩
斗南藩領、1870年~1871年(山越郡)
大泉藩領、1869年~1870年(虻田郡)
一関藩領、1869年~1871年(白老郡)
高知藩領、1869年~1871年(勇払郡、千歳郡)
分領支配時、
有珠郡、室蘭郡、幌別郡の三郡(虻田郡)は仙台藩士領
↓↑
人口
明治5年(1872年)調査
人口6251人・・・
↓↑
胆振国の合戦
1457年コシャマインの戦い
1669年シャクシャインの戦い
ーーーーーー
↓↑ ↓↑
日振型
海防艦
大日本帝国海軍が
第二次世界大戦で運用した海防艦
主に南方航路の船団護衛に用いられた
海軍省が定めた
艦艇類別等級では
御蔵型に含まれるが、
基本計画番号はE20bと異なる
計画時は乙型に区分されたが、
丙型海防艦・丁型海防艦の建造決定後は
区分が甲型に変更
1944年~1945年
にかけて
同型艦9隻が就役、
11隻が建造計画だったが
未成艦2隻
ーーーーー
↓↑
愛媛県日振島
(日振諸島・宇和島沖、豊後水道大小の四島)
とハナレ磯
↓↑
ーーーーー
北緯33度線・・・最近は「33度」に言及するブログも多くなってきているが・・・やっと、云いたい処に・・・
↓↑
愛媛県日振島(宇和島沖、豊後水道の四島)→横島→阿蘇山(北緯33度)→横島→会稽→イズミル~アテネ~アレクサンドリア~中東イスラエル←ゴラン高原の間
を御覧アレ・・・
http://www.ac.auone-net.jp/~kiriya/kirikoji/kirikoji2.html
ーーーーー
以下、「産経新聞」のブログ記事の概略引用・・・要点の文字を各行の頭出し改作にしています・・・モウシワケナイ・・・
↓↑
(産経新聞 - 11月29日 10:03)
伊勢、出雲、諏訪、高千穂、熊野…神々つなぐ
「陽のみちしるべ」のナゾ
淡路島の伊弉諾神宮
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)
「陽のみちしるべ」と記された石碑
春分、秋分の日の太陽が通過する
北緯34度27分23秒の緯度線に
伊勢神宮(三重県伊勢市)、
伊弉諾神宮、
対馬海神神社(長崎県対馬市)
が一直線
冬至、夏至の日の出、
日没の方角にも
伊弉諾神宮ゆかりの神社が並ぶ
伊弉諾神宮=孝至宮司
↓↑
夏至は諏訪から出雲、
冬至は熊野から高千穂
↓↑
各地の神社は
伊勢神宮の方角に向かって拝むた=「遥拝所」がある
伊弉諾神宮では真東を向いている
↓↑
伊弉諾神宮を中心に
東は伊勢神宮内宮、
西は対馬の海神神社が同緯度に並ぶ
夏至には
諏訪大社(長野県諏訪市)の方角から日が昇り、
伊弉諾神宮を通過して
出雲大社(島根県出雲市)の方角に日が沈み、
冬至には
熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)から日が昇り、
高千穂神社、
天岩戸神社(宮崎県高千穂町)に日没する
↓↑
春秋分の緯度線に対し、
夏至は29・30度、
冬至は28・30度と角度が1度違う
古事記や日本書紀では
イザナギノミコト、
イザナミノミコトが国生みのあと、
伊弉諾神宮に祀られ、
その子の
天照大神が伊勢の地に遷座した
十一代
垂仁天皇の時代
出雲大社も
大国主命が天照大神に国譲りしたあとに創建
いずれも
伊弉諾神宮よりも後に建てられた・・・
↓↑
記紀の伝承を西暦にあてはめると、
伊勢神宮創建は
紀元前5年ごろ、
諸説研究では
5~7世紀・・・
ピラミッドやストーンヘンジの「知恵」
『古事記』の冒頭を飾る
「国生みの島・淡路」~
古代国家を支えた海人(あま)の営み~
にも登場する「海人」に注目
大陸と交流して
航海や製塩技術にすぐれ、
太陽や星の位置で航海していたであろう海人族は
天文に通じていた
↓↑
ーーーーー
・・・また、また、またの「北緯33度線」でした・・・
・・・今現在、NHKの「22:25・ブレイブ・勇敢なる者、冤罪弁護士」を観終わったが、「勇気を持って世界を変える日本人に迫るシリーズ『ブレイブ』」、「日本の刑事裁判の有罪率99.9%、14件もの無罪判決」を克ちとってきた「今村核」氏・・・スゴイなぁ~ッ・・・「勘違い」を「正(糺)す」のには・・・だが、「弁護士のアタリマエの仕事」である・・・「検察官・裁判官」もだが、本来、その「仕事の重さ」は「裁判官」だろう・・・「皮相=ヒソウ=日宋=悲壮=悲愴」と云う漢字は、「怪しい=あや(怪・奇・竒・恠・妖・文・理・斐・彪)しい」コトバではある・・・むかし、友人に「アンタはモノの観方が皮相的なんだョねッ」と云われたコトがある。だが、その時は「皮相的」自体のコトバの意味がワカラなかった・・・個々人の経験的な事象、事態は「生活レベル」での軽重が随分と異なっている。「プライド(?)の軽重」も・・・「10円の価値」が個々人の生活状況によって異なるのは当然だが・・・ボクは「10円、1円」で泣く思いをするが、「1000円単位で生活」しているヒトの困惑などを理解するコトは無理であったし、無理であるカナ。だが、事情は何であれ、その時点での個々人の「死ぬ思い」は同じであるらしい。それは、「死ぬオモイにも、異なった生活のレベル」がある、と云うコトらしい・・・
モモちゃん、ごめん・・・鎮魂の絵だけれど・・・鎮星(土星)に逝ってんのカナ・・・
「
「悲哀」・・・「悲(かな)しい」と「哀(かな)しい」は訓は同じでも、漢字自体の構成も意味も異なるだろう・・・だが「熟語」になって重なってしまった・・・「喜怒哀楽」は「主観的な個々人の感情のコトバ」であるらしく、それらを「共感、同感」出来る人もいるだろうが、「客観的に一般化」は出来ない・・・「特殊、個別」的な出来ごとの「共感」は、人生での同じ時間枠の経験、時間がズレテいても同じような経験が必要だ・・・相手の「喜怒哀楽」を「共感」するのは、自分自身が、「未知」で、それらに「遭遇」するまでは難しい・・・「遭遇」しても「尚、且つ」である・・・自分自身の痛さは「殴られて初めて解る」・・・ダレも「我が身を抓(つね)らない」が・・・
自分自身の「痛さを快感」と感じる人間もいる・・・生きている人間の肉体も精神も、プロセス的には「快=不快」の「表裏一体」の存在であるらしいのがアタリマエであるが・・・以前ドキュメンタリーのTVで観たのは「無触覚知覚障害の女の子」・・・「触覚=触感」が無い人もいる・・・肉体的に冷たさ、熱さ、痛さをマッタク感じられない病気・・・「皮膚感覚=体性感覚」、「触覚、圧覚、痛覚、温度覚」の無い病気・・・「無触覚知覚障害」・・・
「加齢」が確実に「五感覚」を鈍くしていくコトを「涅槃」まで保障しているのは「自然」であるが・・・
悲=非+心
哀=亠+口+イ+レ(丄)+乀+ノ(ノ)
・・・多分、「哀」は口に「亠(ふた・トウ・ズ)=蓋・音略)」された「イ(人)」の「乀(ながれる・まがる・フツ・ブチ)」の「丿(ひく・ヘツ・ヘチ)」である・・・この「漢字部品」は
「丿(ノ)、乀」は
「船などが左右に揺れるさま」
漢字を書く時の筆画、筆描の動きので、
左に払うものを「丿=ヘツ=ノ」、
右に払うものを「乀=ホツ」
と云う意味らしい・・・視覚的な形象はナニかを叩く「棒(ボウ)」か、ナニかを切る「小刀(こかたな)」である・・・コレラが重なれば
「乂(かる・おさめる・カイ・ガイ)=乀+ノ」
である・・・類字は「乄(しめる)」
↓↑
で、
「ヒソウ」、難聴のベートーヴェンの「悲愴(Grande Sonate pathétique・第2楽章・第8番ハ短調・作品13・ピアノソナタ・1798~1799年)」とは怪しい音楽である。「情熱の表出」ですか・・・漢字は「悲=非+心」と「愴=忄(心)+倉」であるが、「忄」は「小」を圧縮したようにも思える・・・心の倉がカラッポ(悲)なのか、小さい倉で、「宝石箱」なのか、「怪盗ルパン」に訊いてみたい・・・
「怪異・怪人・怪訝(ケゲン)」の「怪(カイ・ケ)=忄(心)+圣(コツ・又十一)」である。
「ア-ヤ-シ-イ=丫=「ア・鴉・蛙・亞」-「や・哉」-「シ・詞」-「イ・意」が、「あやしい=怪・奇・竒・恠・妖」、奇怪千万・・・
次ぎもナニを云っているんだか、ボクには「?」である・・・以下は「jigen net」から抜粋添付したモノだが・・・
↓↑
子曰。
素隱行怪。後世有述焉。吾弗爲之矣。
「隠(いん)を素(もと)め、怪(かい)を行ふは、
後世(こうせい)述ぶること有らん、
吾は之れを為さず」
↓↑
君子遵道而行。半塗而廢。吾弗能已矣。
「君子(くんし)、道に遵(したが)ひて行ひ、
半塗(はんと)にして廃(はい)す、
吾は已(や)むこと能(あた)はず」
↓↑
君子依乎中庸。遯世不見知而不悔。唯聖者能之。
「君子(くんし)中庸(ちゅうよう)に依り、
世(よ)を遯(のが)れて知られずして悔いず、
唯(た)だ聖者のみ之れを能(よ)くす(中庸)」
↓↑
「蓋し世道の変、
無窮に相(あい)尋(つ)ぐと雖も、
然れども本と愕(おどろ)く可く
怪(あや)しむ可き事有ること無し(論語)」
ーーーーー
・・・???・・・
・・・「忘己利他(もうこりた…己を忘れて他を利する)-慈悲極」ですか、これってヤッパ、「もう、懲(こ)りた」だろう。そして、「まだ懲りない奴だ」・・・も、いるだろう・・・「己を忘れた(無自覚)では利他」も難しいし、無自覚では「慈悲の極(きわみ)」も難しい・・・「懲りては生きていけない動物、人間」は命を賭けての「懲りられない存在」であるかも・・・「慈+悲」は主観認識、客体対象としての「慈悲を乞う人間が存在」し、それに「慈悲を与えねばならない、と思う人間」が存在すると云う「相対関係」のコトだろう・・・ダレとダレの関係の「懲らしめる」、「懲りる」なんだか・・・「懲らす」は「勧善懲悪・懲役・懲戒・懲罰」の「懲=(徵+心)=懲・こらしめる・こらす・こりる・チョウ」だが、「徴(めす=召す・チョウ)=懲=彳+山+一+王+攵=微省に従ふ、壬為徵、微に行ひて而(しか)も文達する者は、即ち之れを徵(め)す」は、「徴収・徴税・追徴・徴兵・徴用・徴発」で、その「心」である。他には「徴候・徴験・特徴」もあるが、「人間宣言」したのに「象徴天皇」には日本国憲法下での「人権・戸籍・国籍」も、「定年」も無い?・・・崩御なさるまで「酷使」する「国民」って、ダレなんだか・・・同音で「凝(こ)らす」は漢字構成からすれば「氷(冫・凍=凍結)+疑」で、「凝縮・凝固」で、縮(ちぢま)ッて、固まるである・・・凝視、仰視と云うコトバもある・・・
「徴・徵(彳山一王攵)・象徴・特徴」の類字は
「微(彳山一兀攵)=かすか・わずか=微細・微妙
微笑(ビショウ)」
「徽(彳山系攵)=しるし・キ・ケ・徽章(キショウ)」
「黴(彳山一里灬攵)=かび・バイ・ビ・黴菌(バイキン)」
であるが・・・説文解字に「召すなり=微省に従ふ、壬為徵、微に行ひて而(しか)も文達する者は、即ち之れを徵(め)す」の意味は、難解である・・・
「微省=(安)微省なのか、
(安)徽省なのか、
徽を省(かえりみる・はぶく)なのか、
省(かえりみる・はぶく)も微(かすか)」
なのか、
「壬為徵=壬(ジン)は徵(チョウ・チ)と為す」は声音の説明らしいが、「壬は徵の異字」ともある・・・「徴・徵」の部首構成の「王(オウ)」ではなく、「壬(ジン)」であるらしい・・・ボクとしての判断は「?」である。穿って妄想すれば「壬は徵の異字」ならば「壬申の乱を省(かえりみる」に掛けているように思える・・・
干支(カンシ)年では60年周期で「壬申(ジンシン)」である。この干支年の「歴史上」は過去的には、
天武天皇元年六月二十四日
~
七月二十三日
ユリウス暦
672年・・・壬申(猿・さる)
7月・・・丁未(羊・ひつじ)
24日・・・甲申(猿・さる)
~
672年・・・壬申(猿・さる)
8月・・・戊申(猿・さる)
21日・・・壬子(鼠・ねづみ)
「七月二十三日」はボクの誕生日でもあるけれど、「壬申年」ではない。「1512・1572・1632・1692・1752・1812・1872・1932・1992・2052」は「壬申年」で、下二桁が「12・72・32・92・52」のサイクル年である・・・ナゼか「明治天皇」は
「明治三年七月二十三日
(西暦1870年8月19日=庚午年-甲申月-丁亥日)」
西暦(グレゴリオ暦)で
「1870年7月23日=庚午年-癸未月-庚申日」
に
「大友皇子=伊賀皇子(死亡は天武元年七月二十三日)」
に対して
「弘文天皇」の号(追号・称号・諡号)を与えている・・・ナゼ、「弘文(コウブン)=弓+ム+亠+乂」なんだか?・・・「コウブン=乞う文、交文、考文」・・・ナゼ、「伊賀皇子」なんだか、「百地三太夫・石川五右衛門」、「服部半蔵」、「藤林保武」、「望月出雲守」、「戸川(戸田)白雲斎」・・・「訳臥話葉句韻差意」の仕業かも・・・「記録文書」も忍者の仕事・・・忍耐、堪(こら)える、躵、我慢・・・
改暦布告は二年後の明治五年(1872年12月9日)である・・・
「壬申=ジンシン=訊審」である・・・「ミズのエのサル」・・・
「jigen-net」では、
↓↑
「長は長髪の人で部族を代表する者、そのような人を殴(う)って部族に対して懲罰を与えるのが徴(徵)、敵方の若い巫女を殴って呪力を微(な)くするのが微、髑髏(どくろ)を殴ってその呪霊を刺激し徼(もと)めるのが徼。徴(徵)・微・徼はいずれも相似た呪的行為を意味する字」
↓↑
「彳(テキ)+山+王(チョウ)+攵=攴(ボク)。彳=道路において、「山+王=長髪の人」を「攴(うつ・敺=殴打)」形象。長髪(山+王)の人は長老とも、また巫女とも解されるが、要するにすぐれた呪的能力をもつもの。これを殴(う)って、敵方に対する懲罰的な行為として、味方の要求するところを徴し、あわせて懲罰を加える行為をいう。その効果のあらわれることを徴験という(字通)」
・・・「徴(徵)」の「山+一+王」が、「山+一+壬(みずのえ・ジン)」ならば、「彳(渓流)の山から一(流)れる水(壬)の瀧(攵=攴)の落水」で、「望天門山(李白)」の漢詩からナルホドかも・・・
↓↑
「望天門山 李白」の漢詩
「天門中断楚江開
碧水東流至北廻
両岸青山相対出
孤帆一片日辺来」
からの示唆?、
「天門山は
安微省・・・・・・・安-微省
蕪湖(ムコ)・・・「蕪村」じゃぁなく、「蕪湖」です
市付近にある
東梁山
長江(揚子江)を
楚の国から流れてくるコトから
楚江と呼んだ」・・・らしい
・・・「楚」=「林(木々)」+「疋(ひき・あし・ショ・ソ=疋は膝から下の脚、反物を数える数詞」・・・
↓↑
「天門山=長江両岸を夾んで
門のように聳(そび)える・・・聳=従う耳
二つの山の総称
安徽省・・・・・・・安-徽省
当塗県にある
博望山(東梁山)(長江東岸)
と
和県(長江西岸)にある梁山」・・・和の県?
↓↑
「天門山は長江が
安徽省・・・・・・・・安-「微」-省
から江蘇省に入る直前。
安微省・・・・・・・・安-「徽」-省
蕪湖近く。
「博望山」
と
「梁山」の
二つの山をあわせた言い方
この両山が長江の両岸にそそり立っていて、
川下りの舟から見上げるると
天に門が開けたようなので
天門山という。
楚江=長江。
戦国時代にこのあたりは
楚の領土だったため楚江という」・・・らしいが、
「安-微(ビ)-省」=安-徽(バイ・ビ)-省」・・・と記されている・・・のだが、「誤記」なのか・・・?・・・「安徽省(Ānhuī Shěng)=アンホイ」が正解であるらしい・・・
ーーーーー
・・・ナゼ、「仏性」を簡単に「自然の法則性」の「対象認識」としないんだか・・・「大乗」は「自転、公転している地球自体の乗り物の比喩」だろう。それに乗っているのが「生きている動植物」で、「個々の限られた命(いのち)を別個な命へと交代で繋いでいる」のである・・・「お経」を暗記して唱えているだけでは救われないのはアタリマエである。「漢字の一文字」の意味が解れば、「生き方も変化」していくだろうが、「言霊が人間を動かす」のは事実であるが、「意識がプチブル意識の枠内」では「慈+悲」のコトバの「人間社会」もなくならない。「慈悲」を極めるとは「慈悲」を必要としない「人間社会」である・・・「施(ほどこし)し、乞食(コツジキ)」を必要とする階級社会ではないだろう・・・「ホトケの手のヒラ」で生きていくコトでもない・・・
ーーーーー
以下の文言は「ETVの番組」の登場者の会話を観て拾ったコトバであるが・・・
↓↑
忘己利他
モウコリタ・・・懲りたのは
毛の子の理(利)の多(他)で・・・厘毛
毛野 (けぬ) 国=かみつけの=上毛野=上野
群馬
=しもつけの=下毛野=下野
栃木
摩利支天(Marīcī・陽炎・威光)塚古墳
仏教の守護神である天部の一柱
日天の眷属・Marīcī=太陽や月の光線
摩利支天は陽炎の神格化
↓↑
にこげ=和毛=鳥獣の柔毛・産毛
二毛作か、不毛か
毛利か、毛-タク-サンか
己心本有
コシンホンユウ・・・己の心は本に有り?
1052年末法
観心本尊抄
一念三千・・・事の一念三千
十界互具
常不経菩薩
良寛
法華讃
↓↑
南妙法蓮華経
ナンミョウ補得蓮華経
久遠の仏
衆生国土五蘊世界
十如是諸法実相
百界
ーーーーー
・・・???・・・
・・・17時22分、留萌で地震M4.7・・・地震、北上してきたけれど・・・「アレキサンドロス3世→蕪木(あれき)サン努賂素-纂所為」以後・・・「蕪木=かぶらき」、「蕪=艹(艸)+無([f:id:naie:20161109171434j:image:small])卌一灬𠂉」=「かぶ・かぶら・ブ・ム=雑草が茂ってる荒れ地・おい茂った雑草・物をおおい隠すアレクサ・あれる雑草がおい茂ってアレル・ターニップ(turnip)」、「蕪雑・蕪辞」、漢字構成から「蕪」が大地を覆う草(艸・艹・サ)が無いのは「沙漠=砂漠」だと理解できるが、「蕪」の「無」が漢字構成の「舞=[f:id:naie:20161109171434j:image:small]+卌一+舛(タ+ヰ)」とは思えない・・・「舛(そむく・いりまじる・セン)=そむく(背・叛)・たがう(違う)・舛互」で、「誤る・間違う・舛誤・舛謬(センビュウ)・いりまじる・乱れる」である・・・「舛の添」の「要の一」って?・・・「卌(シュウ・四十・𠦌・庶)=糞に插(さ)す杷(まぐわ・さらい・つか・え・ハ=長い柄の先に粗い歯をつけた農具・土をかきならしたり、木の葉や塵(ごみ・芥・埃)などを攫(さら)うのに用いる)」・・・杷→枇杷→楽器の琵琶が果物の枇杷へ・・・把握?・・・「芭蕉」に憬れて東北を安行(アンギョウ)、行脚(アンギャ)した「蕪村」に訊いてみたい・・・無花果(いちじく)・・・
「与謝蕪村
(享保元年(1716年)
~
天明三年十二月二十五日(1784年1月17日)
俳人、画家
姓は谷口、or 谷
名は信章・通称は寅・・・・トラ
号は蕪村、宰鳥、
夜半亭二世
画号は春星、
謝寅(シャイン)
蕪村とは中国の詩人
陶淵明の詩
帰去来辞(帰去来兮=帰りなんいざ、
田園、・・・・・・田(狩り)の園(圓)→伝炎
園=その=該爾厥囿→鷹司邸
曽之=主鷹司=放鷹司
鷹や猟犬を
飼育・調教し、
鷹狩などの
狩猟を取り仕切った
園=エン=援・怨・煙・猿・・・鳶
苑=紫薇苑・・・紫薇斗数命
將、蕪、・・・・・・・・・将の、蕪(かぶ・荒れ地・ブ)
胡不歸・・・・・・・・・・胡(えびす・コ・ウ)に
不歸(かえれず)?
田園(デンエン)、
將(まさ)に蕪(あ)れなんとす、
胡(なん)ぞ
歸らざる
に由来・・・訓読したのは「菅原道真」・・・?
ーーーーー
↓↑
・・・ボクなら將(まさ)に蕪(あ)れなんとす。胡(なん)ぞ、歸らざる」とは訓読はしない。
「胡(えびす・コ・ウ)に、歸せず」である・・・モチロン、「(大)将の蕪(艹+無=クサカは無し)」である・・・・「マサにカブレんとす」かも・・・「蛤御門の変・禁門の変=元治元年七月十九日(1864年8月20日)・元治の変・甲子の変」・・・
「四つとや、世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい」・・・「誠の道」って?
「八つとや、八咫の烏も、皇の御軍の先をするじゃもの、なに、をとるべき」・・・「八咫の烏」って?
自覚した「医者」は「政治」を目指し、社会のヤマイを糺(ただ)すだろうが、結果は「宿命のパラドックス(paradox・逆説)」、「活殺=生かす為に殺す・生きる為に殺す」にブツカル・・・「殺傷のカズの問題」なのか?、「エゴの問題」なのか?・・・「共存」ですか?・・・「自然界で生きているモノの食物連鎖」・・・「無駄な殺生」はしないって?・・・「共食い」はダメだって?・・・
「家畜・魚・鳥・獣」の「命の肉(にく・ジク)」は加工されて「人間」に喰われているが、「・屠畜」を視ずして口にする・・・
「採食主義」って、「ニク」を喰えなっかった人々の知恵の結果だとは思うが、「人間」は雑食である・・・恐竜時代から「採食だけの動物=草食獣」が存在したらしいが・・・草食の巨大なマンモス(mammoth)、象さん、麒麟さん達はエライなぁ~・・・モチロン、「ジャングル大帝のレオ」も殺生はしなかった・・・「ホトケ」は「腐った豚肉(汁)を喰って成仏した(?)」・・・「喜捨棄命(?)」ではなっかった「涅槃」・・・
「paradox」には色々あるらしいが、「数学的な整合性」としての「ヒトツのコタエ」を得るコトができないのが「人間」かも・・・「数学の数字の答え」も「アキレスは亀に追いつけない(ゼノン)」とかを考え出す存在だし・・・
「寿命を望まずに死ぬ人間」もワンサカ、「寿命を知らずして他人に殺される人間」もワンサカ・・・
そして、「命」を繋ぐ子供をワンサカ産みだしているが、「寿命を全う」出来るか、どうかは「今現在生きている人間次第」である・・・「イノチ」が「宇宙環境次第」とは「地球人」なる、「宇宙人」になったアカツキのコトである・・・「民族・国籍」の枠内で生きている人間はチッポケである・・・
だが、「身近で煩わしい背負(諸・緒)関係」をホグしていくコトこそが「今現在、生きていく人間相互」に大切なんだ・・・
↓↑
ーーーーー
蕪村(寅)の娘の名は
「クノ(くの)」・・・?
↓↑
「寅=とら=虎・彪」?・・・トラ=訳等・勾・捉
「蕪=野菜の名=カブ・カブラ」・・・
「蕪菁(ブセイ)・蕪菁(かぶ)・蕪菁 (かぶら) 」
「蕪=アブラナ科の
越年草・栽培野菜
根は
白色のものが多く、・・・・白人?
多肉質、・・・・・・・・・他字句・多字句?
Taj-ik?
タージ-マハール
Taj-Mahal
大きさや形は多様
根生葉は
へら形・・・・・・・・・・ヘラ・箆・篦・平良
杓子=dipper=ladle
spoon=匙=ヒ
春、花茎の先に
黄色の
十字形の
花を総状に開く」・・・
「蕪雑(ブザツ)・蕪辞(ブジ)=乱雑で整っていない言葉
自分の言葉や文章をへりくだっていう語」
「カブ(蕪)は
アブラナ科アブラナ属の越年草
根菜類の一
別名はカブラ、カブナ、カブラナ、スズナ(鈴菜、菘)
ホウサイ(豊菜)、ダイトウナ(大頭菜)」
など・・・
「カブ」の語源は、頭を意味する「かぶり」、「根」を意味する「株」・・・
「歌舞伎」に「カブレた」って、「カブリツク」・・・
「如何(どう)」してなんだか、「歌舞伎モノ」・・・
ーーーーー
↓↑
アレキサンダー三世以後
↓↑
プトレマイオス1世
ソーテール
(Πτολεμαίος Α' Σωτήρ)
紀元前367年~紀元前282年
在位
紀元前305年~紀元前282年
エジプトの
ヘレニズム国家
プトレマイオス朝
初代ファラオ(pharaoh)・・・葉等緒・葉等尾?
↓↑
アレクサンドロス3世(大王)に仕え、
アレクサンドロスの死後は
ディアドコイ(後継者)・・・・出異蛙努胡意?
の一人として
エジプトに拠った
マケドニア王国の貴族
ラゴスの子
アレクサンドロスの
「ヘタイロイ(側近騎兵隊将校)」の一人
↓↑
プトレマイオスは
アレクサンドロスの
アリストテレスの
ミエザの学園の「学友」
ピリッポス2世
と
アレクサンドロス
が対立し
プトレマイオスは
ラオメドン
ネアルコス
等と共に追放・・・アレクサンドロスの母、
オリュンピアスの郷里へ
紀元前336年
ピリッポス2世暗殺後
アレクサンドルの側近となった
↓↑
紀元前323年
アレクサンドル大王の死
↓↑
バビロン会議の後
エジプトで
総督、太守(サトラップ)
統治していた
エジプトを割拠
大王の
後継者(ディアドコス)・・・出意會度胡素(超・越・漉)?
として名乗り
バビロン会議で
大王死後の
王位継承・・・right of succession
Act of Settlement
the right of successionthe right to the throne.
abdicate the throne=the crown
玉座(ギョクザ)=王座
英語
スロウン
スローン(throne)
ドイツ語
トローン(Thron)
フランス語
トロンヌ(trône)
イタリア語
トローノ(trono)
「人間宣言」したのに
「象徴天皇」には「人権も戸籍」も無い?
祀り上げたのはダレ?
で諸将が対立
プトレマイオスは
重臣達の合議制を提案
ペルディッカスは
大王の妃で
妊娠中だった
ロクサネ・・・・・・・ダイリウス大王の娘
の出産を待つべきと反対
ロクサネ
が産んだ子は男子で、
アレクサンドロス4世
として王位につけられ、
ペルディッカスが
後見人として
帝国摂政となった
↓↑
ディアドコイ(後継者)戦争
↓↑
プトレマイオスは
アンティパトロス
等と組み
ペルディッカス派
に対抗し、勝利
紀元前322年
↓↑
プトレマイオスは
ペルディッカスと対立
アリダイオス
バビロン太守
アルコン
と共謀し、
ペルディッカス
が
首都バビロンから
マケドニア本国へ移送中だった
アレクサンドル大王
の遺体を奪取し
大王の遺体を
アレクサンドリア
に
ミイラとして埋葬
紀元前321年末、or 紀元前320年初頭
↓↑
ペルディッカスが
プトレマイオスを討伐するため
エジプト遠征
プトレマイオスは迎撃
ペルシウムで
ペルディッカスが
ナイル川の渡河に失敗し
配下の将軍達の
ペイトン
アンティゲネス
セレウコス
が反乱し
ペルディッカスを暗殺
↓↑
トリパラディソス・・・・訳理葉等出意蘇素?
の軍会開催
↓↑
プトレマイオスは
ペイトン
と
アリダイオス
を帝国摂政に推薦
ピリッポス3世(大王の知的障害の異母兄)
の王妃
エウリュディケ2世
に反対され、
アンティパトロスが
帝国摂政に就任
↓↑
フリュギア太守
アンティゴノスが
帝国軍総司令官に任命され
ペルディッカス派
諸将の討伐・・・
帝国摂政の
アンティパトロスは
病になり
老将
ポリュペルコン
を後継者に指名して死亡
アンティパトロス
の息子
カッサンドロスが
摂政位継承を主張し、
ポリュペルコン
と対立
プトレマイオスは
アンティゴノスとともに
カッサンドロスを支持し
ポリュペルコン
は敗れ、零落
↓↑
ペルディッカス派討伐の
アンティゴノスは、
ポリュペルコン派
との戦いで勝利し
紀元前316年
ペルディッカスと、
後には
ポリュペルコン
と結んで、
アンティゴノス
と敵対し続けた
カッパドキア太守
エウメネス
が
アンティゴノス
によって滅ぼされ
アンティゴノスは
ディアドコイ(後継者)
との対立を生み
プトレマイオスも
アンティゴノス
と対立し、
東地中海周辺で攻防を繰り広げた
↓↑
紀元前315年
バビロン太守
セレウコスが
アンティゴノス
によって
バビロンから追われたが
プトレマイオスは彼を匿い
紀元前312年
プトレマイオスと
セレウコスは
シリアへ出撃
ガザの戦いで
アンティゴノスの子
デメトリオスを破った
アンティゴノス自らが
シリアに出陣してくると、
プトレマイオスは
セレウコスに兵を譲って
東方への帰還を助け、
彼をバビロン太守にした
アンティゴノスは
プトレマイオスと休戦し、
セレウコス討伐に
専念傾注
(バビロニア戦争)し、
プトレマイオスは
東地中海沿岸で勢力を拡大
アンティゴノスは
再び
プトレマイオス
と対立
↓↑
プトレマイオスは、
寡婦となっていた
大王の同母妹
クレオパトラ
に求婚
クレオパトラは
エジプトに渡航しようとしたが、
アンティゴノス
に暗殺された
↓↑
紀元前306年
サラミス海戦で
デメトリオスが、・・・出眼(目・女・馬)訳理於素?
プトレマイオス
の艦隊を大敗させ
アンティゴノス
は
デメトリオス
と共に
王となることを宣言
↓↑
紀元前305年
プトレマイオス
も王を名乗る
ロードス包囲戦で
アンティゴノス、
デメトリオス
父子は
プトレマイオスに対して
優位に戦いを進め、勢力を固めた
↓↑
プトレマイオスは
セレウコス
カッサンドロス
リュシマコス
と結び、
反アンティゴノス同盟のを担った
↓↑
紀元前301年
アンティゴノスは
イプソスの戦いで・移付蘇素?・・・蘇我?
セレウコス・・・・施例得拠素(諏)?・・・諏訪?
リュシマコス・・・龍(躘・劉)島(志摩)越守?
の連合軍に敗れ、
戦死
↓↑
イプソスの戦いの後、
セレウコスの勢力が強大化
プトレマイオスは
娘の
アルシノエ・・・有誌之重?
を
リュシマコス
と結婚させて
同盟関係を結び、対峙
↓↑
プトレマイオスには、
アンティパトロス・・・安貞葉(嵌・把)訳賂素?
↓↑ 安貞(1227年~1228年)鎌倉時代の
天変地異と飢饉
↓↑
↓↑ 「承久(三年)の変(1221年)」
で鎌倉幕府の総大将で
第三代の執権
北条泰時は
「吉書始」をした・・・
記録では
元暦元年十月六日条
(1184年11月10日)
公文所の新造に合わせて
吉書始が行われた(吾妻鏡)
吉書を総覧する儀式
吉書奏=吉書始(きっしょはじめ)
↓↑ ↓↑
建暦(1211年~1214年)
建暦二年(1212年)頃・・・鴨長明の「方丈記」
建保七年(1219年)
三代将軍
源実朝が暗殺
↓↑ ↓↑
藤原 頼経(ふじわら の よりつね)
鎌倉幕府
第四代征夷大将軍
摂家将軍として就任
寅年・寅日・寅刻に生まれ
↓↑ 幼名は三寅(みとら)・・・?
↓↑
の娘
エウリュディケ
との間に
長男
プトレマイオス・ケラウノス
がいたが、
ケラウノス・・・掛(毛)等得之素?
と対立し・・・・対立の原因は?だが・・・
プトレマイオスは
これを後継者とせずに
エジプトから追放
ケラウノスは
アルシノエ・・・アルシノエはプトレマイオスの娘
のもとに身を寄せ、
後に
セレウコス
を暗殺し
マケドニア王位を簒奪・・・結果はマケドニア王になった
↓↑
紀元前288年
プトレマイオスは
後妻の
ベレニケ1世・・・・・・・部(倍・俳・唄)例似掛?
が産んだ息子
プトレマイオス2世
ピラデルポス(ケラウノスの異母弟)
を後継者とし、
共同統治者とし
内政で統治体制を確立し、
外征において領土を
東地中海まで拡張し
古代エジプトを繁栄させた
↓↑
プトレマイオス1世は、
古代ギリシア語で
「救済者(ソーテール)」
の称号で呼ばれ
首都アレクサンドリアに、
王立研究所(ムセイオン)
と
併設した
アレクサンドリア図書館を建設した
↓↑
紀元前305年
アレクサンドリアの大灯台の建設
(完成はプトレマイオス2世の代)
↓↑
ユリウス・カエサルの侵攻時
(ナイルの戦い・紀元前47年)
港の艦隊の火災が延焼して焼失
↓↑ ↓↑
ーーーーーーーーー
カエサリオン・・・替重作理音?
(Caesarion・Καισαρίων)
プトレマイオス15世
(Πτολεμαῖος ΙΕʹ・Καῖσαρ)
紀元前47年6月23日~紀元前30年8月23日)
プトレマイオス朝最後の
ファラオ(在位、紀元前44年~紀元前30年)
↓↑ ↓↑
共和政ローマの将軍
ユリウス・カエサル・・・・凱撤・該撤
百合有珠?替重作留
有利摸(漓・臼→堆)
有理得素?かえさる
ユリウス暦
と
クレオパトラ7世の子
カエサリオンは
「小カエサル」を意味・・・「オン=小⇔八+亅」
異父弟妹に
アレクサンドロス・ヘリオス、
クレオパトラ・セレネ、
プトレマイオス・フィラデルフォス
がいる
↓↑
母クレオパトラ(克利奥佩特剌)7世
利にカチ、奥に佩(おび)て、
特に剌(そしる・もとる・そむく)?
と
エジプトを共同統治していた
プトレマイオス14世が
紀元前44年に死去し
↓↑
後、
プトレマイオス15世(カエサリオン)が
エジプト王に就任
↓↑
紀元前30年
クレオパトラ7世の死後、
オクタウィアヌス
に捕らえられて殺害
プトレマイオス朝滅亡
↓↑
クレオパトラ
と
マルクス・アントニウス
との子供
クレオパトラ・セレネ
など、
子供たち3人は、
アントニウスの前妻である
小オクタウィアに預けられ、
ローマで
オクタウィアヌスの親戚として厚遇
↓↑
カエサリオンは
オクタウィアヌスと同じく
「カエサルの後継者である」とし
殺害された・・・
「カエサル」は
「ユーリウス=ユピテル(ジュピター)の子孫?」
「トロイヤのアイネイアースの子孫?」
「アンクス・マルキウス(Ancus Marciusの子孫?」
ーーーーー
・・・「身内、縁者」のエゴな権力争いって、スゴイねッ・・・ニンゲンの当初の志(平和?)は、結果、「カミ」から嫌われるんだ・・・「人間は神々のアソビの道具」らしいから・・・未来的には人間は「AI(artificial insemination=artificial intelligence)の道具」かも・・・人間はモノグサだから・・・
↓↑
ーーーーー
ガイウス・ユリウス・カエサル
(凱撤・該撤)・・・凱=かちどき・やわらぐ・たのしむ
↓↑ ガイ・カイ
撤=とおる・とおす・つらぬく・すてる
テツ
取り除く・取り下げる
撤回・撤去・撤収・撤退・撤廃・撤兵
該=かねる・そなわる・その・この
あたる・あてはまる・ことごとく
該当・該究・該地
兼備
↓↑ 契約・盟約・誓約・約束
↓↑ 独裁者、カエサルは
↓↑ 民主、属州民の市民権を
↓↑ 拡大を約束した?
↓↑ ブルタースは「共和主義者」?
↓↑ 元老院議員マルクス・ユニウス・ブルトゥス
↓↑ 「息子よ、お前もか?」・・・「息子」である・・・
(καὶ σὺ τέκνον
Kai su teknon=カイ・スュ・テクノン)
↓↑ ↓↑
「秦を滅ぼす者は胡なり」
秦の滅亡は
「子嬰=秦王・胡亥の兄の息子」
紀元前206年
だが、「秦帝国」の滅亡は
趙高に操られ
紀元前207年(望夷宮之変・望夷之禍)の
↓↑ 「胡亥(コガイ)」の暗殺であった・・・
「亥」である
「趙高と李斯により
始皇帝の遺詔
(後継者は始皇帝の長男の扶蘇)が改竄」され
紀元前210年
「扶蘇」は騙されて(?)、or 忠儀として(?)
自殺・・・ダマされていてもヨシとする人間が
多いのはドウシテなんだか?
↓↑ ↓↑
史記・秦始皇本紀第六
紀元前91年頃に
司馬遷が完成に「記録」・・・
・・・慶元二年(1196年)
のものが現存の最古本であるらしい
「漢書」は
「班彪(3~54年)」・・・斑(まだら)の彪
が始め、子に引き継がれ
「班固、班超、班昭」によって
80年ころ成立完成」した
紀元前44年(甲辰)はカエサルの暗殺である・・・
・・・「記録」としての時間系列は、
「写本」、「再写本」、書き写しの連続だろう・・・
「記録」されたモノは「改竄・改作・削除・補修」が
「宿命・運命」である・・・焚書坑儒、図書館炎上では
人間の記憶は更にアイマイである・・・
↓↑ 始皇帝は「胡」の名の人物を怖れたが
↓↑ 帝国崩壊は
二世皇帝になった
末子の息子の
「馬鹿」な
「胡亥(コガイ)」であった
↓↑ 「該(言+亥)撤=Gaius」の
意味翻訳である・・・?
↓↑ ↓↑
(Gaius Iulius Caesar=Julius Caesar)
紀元前100年(庚子)・・・(干支年?)
7月(癸未)・・・・文月・暴文月
13日(庚午)・・・(干支日?)・月曜日・赤口
12日(己巳)・日曜日・大安
紀元前102年(壬寅)・・・(干支年?)
7月(丁未)・・・・文月・暴文月
13日(庚辰)・・・(干支日?)・水曜日・仏滅
12日(己巳)・火曜日・先負
~ ~
紀元前 44年(甲辰)
3月(丁卯)・・・彌生
花はサクラ(桜・櫻・作楽)
cherry・・・背反・二又
モモ(桃・百・腿・股)
peach・・・密告・裏切り
Mars、Marchの月・・・
15日(丙子)
・・・Julyの花・・・「lily=百合」、「Crape myrtle=百日紅=さるすべり=猿滑」・・・3月から数えて「5番目の月(May・Quīntīlis)」・・・「紀元前45年1月1日のIanuariusのKalendaeより1年を365.25日」とした・・・
ーーーーー
↓↑ ↓↑
・・・クレオパトラ(Cleopatra)7世・・・克利奥佩特剌
句例訖葉訳等?
紀元前70(庚午)年12(丙子)月?日
or
紀元前69(戊辰)年1(壬子)月?日
↓↑ ↓↑
ーーーーー
・・・「12月=師走・師馳(しわす・しはす)・極月(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)」・・・3月から数えて「10番目の月(December)」・・・12月はクリスマスだが、花は「ポインセチア=猩々木(ショウジョウボク)」?・・・赤色は、クレオパトラ(Cleopatra)の「紅(くれ・昏・暮・呉)尾波虎」の情熱カモだが・・・メキシコ(墨西哥)自生の花・・12月の星座は、「射手座(11/23~12/22)」と、「山羊座(12/23~01/20)」がダブル・・・12月~1月だから「山羊座♑ Capricorn」かも・・・山羊の好物は「カミ」だが、雑草だろう・・・芋の葉や蔓、木の皮・・・「磨羯宮(マカツキュウ)=黄道十二宮の10番目・支配星は♄土星」・・・
11月26日・・・
「11月=霜月(しもつき)・神楽月(かぐらづき)・かみきづき(神帰月)・けんしげつ(建子月)・こげつ(辜月)・しもふりづき(霜降月)・しもみづき(霜見月)・てんしょうげつ(天正月)・ゆきまちづき(雪待月)・ヨウフク(陽復)・リュウセンゲツ(竜潜月)」・・・「子月(ねづき)?」の別名って、ナゼなんだか?・・・「November(ノーヴェンバー)=三月から数えて9番目の月」・・・
・・・23時4分、福島県、東北地方で地震、震度5.7・・・「天国の崩壊、崩落」、「地上の崩落、崩壊、陥没」、「海底の隆起陥没、海上の隆起陥没、渤海、津波の水走り、河川の逆流の水走り」・・・「憲法の枠内」でのデモも、警護、警備もその法的秩序が護られているなら、まだ「平和」であるカモ・・・対外的にも、国内的にも「憲法の枠外」の「武器の使用」には・・・双方の「命の覚悟」が前提だが、「武士の覚悟の時代」ではない・・・相手次第でもあるが・・・「現実的な支配権力秩序」の崩壊の予兆でもある・・・「国家権力者」は「個々人の命」を大切にはしない・・・如何なる「諸国家」も、その「目的」は「階級秩序枠内での自由選択の生活エゴ」でしかない・・・それも、アメリカ、ロシア、大陸中国、モチロン、半島の隣国などはアテにはならない・・・
現在的にも、未来的にも資源も科学技術も期待できる・・・今現在の人口数も「生産物」の「均等配分」さえあれば、養っていける・・・
「日本国憲法国家」、
外国の諸国家が
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」
出来ないならば、
「ガラパゴス化(Galapagosization)」である・・・グローバルな金融、為替相場、国際商品市場、国連(未だ日本国家は聨合国家の敵対国家である)を断ち切り、「鎖国」で、「密貿易」するのが上策かも・・・だが、地球規模の温暖化対策はどうする・・・日本列島を原水爆にも破壊されない硬化ガラスの巨大ドームを被せる・・・だが、地震、噴火はどうする・・・それらの犠牲は自然災害として諦めるのが日本古来からの「国民性」である・・・?
↓↑
「瓦礫の山」・・・「甍(いらか)」・・・「高くとがっている部分の意の苛処(いらか)」・・・「屋根を葺(ふ)いた棟瓦(むねがわら)」・・・「切妻屋根の三角形の部分」・・・「瓦と夢」を合体させた漢字?じゃぁないだろう・・・「甍=艹+罒+冖+互+ゝ(ヽ)」の「互」は、「相互・互角」の「互(たがい・ゴ)」である。その中に「ゝ・丶・ヽ・々(踊り字・躍り字・一の字点・繰返し記号・約物=繰り返し符号、重ね字、送り字、揺すり字、重字、重点、畳字)」で、ヨミと意味は「ゝ(ともしび=灯火・チョン・ぽち)・丶(てん・チュウ・くの字点下)・々(おなじ・ドウ・同・仝)」である・・・
どの様に「記号・文字・ことば」を理解するかは「各(おのおの=各々)」「屡(しばしば)」勝手であると思うが、協同体で協働体の生活、相互関係には「共通意義」が前提である・・・独りで妄想世界に浸って「自己納得」していても生きてはいけない・・・喰う為には相互の「能力、体力レベル」を踏まえ、寿命が来るまで相互に生きて行かなくちゃぁ~ネッ・・・「人間」を忘れた「国家の枠内」での「国民・市民」じゃぁ、現実状況では無理かも・・・単なる「地球人」になりたいヒトはダレも居ないようだし・・・渡り鳥にも、鯨(鯢)にも「国境」なんてモノは無縁だけれど・・・人間との生活圏が重なって、行き場の無いヒグマも、蝦夷鹿も、ニャンコもワンコも生き延びるのは大変だ・・・
「いらか=甍・瓦」は「切妻造や入母屋(いりもや)造などの屋根の妻側(棟の端)において合掌形に付けられた板、あるいは、その板を組んだ部分。搏風とも書き、甍(いらか)」・・・「roof tile(ルーフ タイル)」 ・・・
今現在、雪の振る11月23日で、冬の魚なら「鮗(このしろ・鰊目ニシン科・鰶・鯯・鱅)=飯代魚(このしろ・児の代)」で、古名は「都奈之(つなし)」だったらしい。なぜ、「都奈之」の漢字を「大伴家持(?)」が当てたんだか、「出世魚」・・・「奈(大+示)=一+人+二+亅+八=柰(木+示)=十+八+二+亅+八=ナ・ダイ・ナイ」が「唐梨子=紅林檎」ですか・・・「奈何(いかん・どうしようか)」なぁ~・・・「奈良」、「奈井江」・・・「奈翁(ナポレオン)=奈破翁・那破崙・拿破崙・拿勃翁」・・・
そして、漢字なら「鱈(魚+雪)=たら=鰔(魚+咸=みな・カン・ゲン・ハム=口を封じる、口を閉ざす」だろうが、斑模様の皮で「マダラ」の「マ」が脱落した?、ではないであろう、「大口を叩くな、ダマ(黙)レ」である・・・
「鱈(たら)=魚+雪(雨ヨ)」は和製漢字で、一般的には
「スケトウダラ(介党鱈・鯳)」=「Alaska pollock=オットセイ(膃肭臍)の餌となる真鍮色の模様の魚」=「介宗鱈・助惣鱈・佐渡・メンタイ、ミンタイ(明太)」・・・
「雪女」は「宗祇-諸国物語」を下敷きにした「小泉八雲(ギリシャ系)=パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) 」の「怪談」のモノガタリだが・・・「宗祇(応永二十八年・1421年~ 文亀二年七月三十日・1502年9月1日)・室町時代の連歌師・号は自然斎、種玉庵・姓は飯尾(いのお・いいお)・生国は、紀伊、or 近江」が越後で視たらしいハナシだが、八雲自身が「東京・大久保家の奉公「お花と宗八」から聞いた話らしいとも・・・宗祇、宗八で、「介宗鱈」・・・
モモちゃん、雪の下だね・・・ボクはほとんど「ユキオトコ」・・・「雪の下=コジソウ(虎耳草)」・・・
「Alaska」=アレウト(Eskimo-Aleut・イヌイット=Inuit)語の「アラクシャク=広大な土地・認められた土地・半島=Alyeska」・・・Alex?・・・Inuit(犬意訳?)・・・アイヌ・・・?
「鱈(たら)=魚+雪」が冬の吹雪で、「冬の地震の地走り」には如何(どう)しょうもない・・・
「忍者武芸帖(白土三平)」では「地震感知、予兆に鼠の大群が走るのが地走り」であったカナ・・・ブログで調べていたら「鳶職(とびしょく)の鉄骨建方」では「地走り=下まわり(地上で上階に建築物を上げる為の安全確保の段取り)」とあった・・・ナルホド「鳶職」である・・・鳶(とび)が天空で円を描いて地上の獲物を狙って飛ぶのは、「地上の生き物の危険」である・・・
「瓦礫の山」、「甍(いらか)」がまた、トンでしまったが、
五月は
「コイのぼり・鯉幟(魚+里+巾+音+戈)」の歌、
「甍(いらか)の波と 雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を 橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり(文部省唱歌(作詞不詳)、作曲は弘田龍太郎」・・・「はた=幟・幡・旗・幢」である・・・
北海道の屋根は一般的には
「ブリキ(tin plate)=錻力・鉄葉=錫メッキの薄い鉄板」
で
「オランダ語のBlik=Blikje」、
「ドイツ語のBlech(薄鉄板)」、
「波板のトタンの屋根(tin、iron roof)」・・・
「語源はポルトガル語の
Tutanaga(亜鉛)=亜鉛鉄板・亜鉛鍍鉄板」
・・・鎖国以前の外来語かも?・・・
「現在的なポルトガル語の
亜鉛はイタリア語と同じZinco(英語はzinc)
tutenagaはポルトガル語にとっても外来語で、
一説では
ペルシャ語=tutanak=錫、鉛や銅の合金」・・・?
「途端(ちょうどその時・はずみ・ひょうし・瞬時に)」
「塗炭」
じゃないけれど、
「塗炭の苦しみを舐(なめ)る」って、
「泥水、炭火」の中の苦痛・・・
「臥薪嘗胆」の「嘗める」・・・?
「ペルシャ語=tutanak」って「鍍金(トキン・めっき)→滅金」?・・・「女通金」=「女真・女直」の「金王朝=満州国」だろう・・・?・・・
ーーーーー
で、「アレキサンダー3世(マケドニア)」と「ダリウス3世(ペルシャ)」の「ヘレニズム文化」の東方への伝播であるが・・・
「始皇帝
(紀元前259年10月~前210(辛卯)年9(丁酉)月10(丙寅)日
7(乙未)月22(丙子)日
戦国時代の
秦王→始皇帝
(在位は紀元前246年~紀元前221年)
姓は嬴(エイ)、氏は趙(チョウ)、諱は政(セイ)」
以前の「103年前」で、
アレクサンダー3世(Alexander lll)
紀元前356年7月20日・乙丑年7(癸未)月20(戊子)日
紀元前323年6月10日・戊戊年6(丙午)月10(辛丑)日
以後で、「103年後」である・・・時系列は
アレクサンダー3世→始皇帝→前漢→新→後漢→三国時代
新王朝
前漢元始元年(西暦1年・辛酉・2月節分以降)
元始四年(西暦4年・甲子・2月節分以降)
王莽
太傅(摂政)・安漢公
孝平皇帝13代皇帝
劉箕子→劉衎
没年
元始五年十二月十八日
元始五年(西暦 5年 1月 1日
甲子年丙子月庚子日
鼠 鼠 鼠
甲子年丙子月戊戌日ユリウス暦)
犬(狗)
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
(西暦5年 12月 18日
乙丑年・戊子月・辛卯日)
牛 鼠 兔(兎・菟)
(西暦6年 2月 6日
丙寅年・庚寅月・庚辰日
龍
丙寅年・庚寅月・戊寅日ユリウス暦)
虎 虎 虎=トラ=彪
↓↑
王莽・・・莽=艹(艸)+犬(大ゝ)+廾
字は巨君・・・・巨君→巨勢(こせ)?
生年紀元前
45年
在位 08年
~
没年 23年10月6日
↓↑
である・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
アレクサンダー3世の父、
「ピリッポス2世」
↓↑ ↓↑ ↓↑
Alexander3世
↓↑
ピリッポス2世・・・比律賓(Philippines)時世?
比理椄補素似所為?
と
エペイロスの王女
オリュンピアス
との間に生まれた
ピリッポス2世は
ヘーラクレース(ヘラクレス)を祖
オリュンピアスは
アキレウス(アキレス)を祖
↓↑
Alexander3世は
13歳・・・・・13歳は卑弥呼の宗女「壹與・臺與」
都ペラ・・・・・箆=竹+亠+冂+人+上+匕=へら・ハイ・ヘイ・ヒ
篦=竹+亠+凵+メ+上+匕=へら・ハイ・ヘイ・ヒ
ヘラ(Hērā)、イオニア方言はHērē ヘーレー
ギリシア神話の最高女神で牝牛の眼を有し
象徴の鳥は「郭公」
ゼウス(Zeus)の妹で、妻
夫婦喧嘩で
キタイローン山に隠れたがヨリを戻した
ヘレナ(Helena)・ヘレン(Helen)は同義名
アルテミス(Artemis)は、月の女神
セレーネー
ヘカテー
ダイアナ(Diana)
ルーナーなどの女神と習合された
↓↑
須佐之男(すさのお・弟)
と
天照(あまてる・姉)の逆転関係
だが、右目から生まれた
「月読命」もいる・・・多分、女神である
「木花之佐久夜姫」も重なる・・・
から離れた
「ミエザ(Μίεζας・Mieza)の学園」で
アリストテレス・・・・マケドニアの
スタゲイラ生まれ
(BC384年~322年)
の講義を受けた
↓↑
紀元前338年
アレクサンドロスは
軍将として
父の
ピリッポス(Φίλιππος Β')2世
フィリップ(Philippe・Philip・Phillip・Philipp
Filippo=フィリッポ・Felipe)
に従い
ギリシアの南部に出兵
カイロネイアの戦いで
アテナイ・テーバイ連合軍を破る
アレクサンドロスは
騎兵を率いて
アテナイ・テーバイ軍を
霍乱(壊乱)させ、
マケドニアの勝利に大きく貢献
父ピリッポス2世は
ギリシア諸ポリスに
コリントス同盟
(ヘラス同盟)を締結
全ギリシアの覇権を握る
紀元前336年
護衛の
パウサニアス
に暗殺された
↓↑
アレクサンドロス
20歳
マケドニア王を継承し
国内の敵対者
(ピリッポス2世の7番目の妻、
クレオパトラ=Cleopatra Eurydice)の縁者を
排除し
マケドニアを掌握
トラキア人・・・・・・・虎記亜-訊?・・・天武天皇
(Thracia・Trakya)・・・Turkey(土耳古)?
と戦うために
イストロス川方面に遠征
反旗を翻した
テーバイを破壊し、
父王暗殺後に混乱に陥っていた
全ギリシアの覇者になるべく
ギリシアの諸ポリスを制圧し
マケドニア本国を
重臣
アンティパトロスに任せた
「アレクサンドロス」の名は
ペルシャ、アラブ、インド、東南アジアで
「イスカンダル(イラン語)」として拡大・・・
↓↑
紀元前333年(戊子年)・・・・333=9、333=27
アレクサンドロスは
アンティオキアの北西
イッソスで
ダレイオス(Darius・ダリウス)3世
・・・ダリ-ウス・・・拿例於素?
拿理-臼=うす=堆(タイ)
有珠=宇受→小堆命=倭男具那
倭男具那=倭建命(やまとたける)
の
ペルシア(Persia・波斯)軍10万と遭遇し
イッソスの戦いでは
騎兵と近衛兵、徴募兵を指揮し
ペルシア軍を敗走させ、
ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした
和睦の申し出を拒否し進軍、追撃
↓↑
「アレクサンドロス東征記(Anabasis Alexandri)
(Alexándrou anábasis)=内陸への遠征」は
2世紀に
アッリアノス
により書かれたモノで
プトレマイオス1世
(Πτολεμαῖος・Ptolemaeus)
の書いた
「アレクサンドロス大王伝」などを資料にして記録・・・
↓↑
アレクサンドリア図書館
(Bibliothḗkē tês Alexandreíās)
蔵書はおよそ
巻子本で70万巻
炎上で喪失・・・
ナイルの戦い (紀元前47年)
ユリウス・カエサル(シーザー)
の侵攻時に港の
艦隊の火災が延焼して焼失・・・
後ローマ帝国の下で復興したが
270年代の
アウレリアヌス帝時にも被害
4世紀末以降のキリスト教徒による
継続的な攻撃、
5世紀
キリスト教徒大司教の
ヒュパティアの虐殺(415年)で
大図書館やムセイオンをも破壊
アレクサンドリア図書館の分館
ラコティス地区の
セラピス神の神殿(セラペイオン、セラペウム)に
分館が存在していたが、
391年
異教徒の集会所とされ
神殿もろとも破壊された・・・
↓↑
アレクサンダー3世は
シリアでは
反ペルシアの都市で歓迎されたが、
フェニキアの
抵抗する
ティール(Tyre・ティルス)・・・ティール→tail?尻尾?
tell・tall
toll(徴税小屋)?
を屈服させ
南下してエジプト(埃及)に侵入
↓↑
紀元前343年(戊寅年)
エジプトは
アルタクセルクセス3世
によって征服されていたが
ペルシアの統治が弱く、
アレキサンドロスが占領
紀元前332年(己丑年)
エジプト人に
解放者として迎え入れられ・・・ナゼ、
解放者なのか?
米軍の民主化・・・
ファラオとして認められ、
「メリアムン・セテプエンラー」
(メリ・アメン=アメン神に愛されし者)
ミリアム(Miryam・Miriam)=マリアは
モーセとアロンの姉)
の
ファラオ名を得て、
アメン神殿にその像を祭られた
西部砂漠の
シワ・オアシスにある
アメンの聖地で
自らをアメンの子とする神託を得
後
ナイルデルタの西端に都市を建設し
アレキサンドリアとした
↓↑
ペルシア王国への遠征再開
↓↑
「ガウガメラの戦い」・・・ガウ-ガメ(亀)-ラ?
「ペルシス門の戦い」
紀元前331年
アレクサンドロス軍47,000は、
チグリス川上流の
ガウガメラ・・・・がう-がめら→画有-カメ覶?
で
20万~30万の
ダレイオス3世指揮下の
ペルシア軍を破った
ダレイオスが
カスピ海東岸に逃れると、
ペルシャ王国の中枢に乱入し
バビロンや
スーサの主要都市を略奪、
ペルセポリス
では一般民衆に対しても
凄惨な虐殺と強姦、
徹底的に破壊、焼き払った・・・?
この破壊は、
ペルシア戦争時に
ペルシアが
アテナイの
アクロポリスを焼き払った復讐・・・?
ペルシアの中枢を占領した後も、
ダレイオスを追った
↓↑
翌年、紀元前330年(辛卯年)
ダレイオス3世が
ベッソス
によって暗殺
ベッソスは
ペルシア国王
アルタクセルクセスを自称し
抗戦
ベッソスの
不義不忠を糾弾し攻め
ベッソスは、
スピタメネスと
オクシュアルテスに捕えられ
エクバタナで公開処刑
↓↑
ソグディアナ方面・・・シルクロードの
東西交易で活躍した
灌漑農耕民=ソグド人
・・・日本にも渡来した波斯人・・・
の占領
中央アジア方面へ侵攻
再び反乱を起こした
スピタメネスを中心とする
ソグド人
による激しい抵抗に直面
紀元前329年~紀元前327年
ソグディアナ
と
バクトリア
で
Siege of the Sogdian Rock=包囲作戦
を強いられ
遊牧民である
スキタイ人
も攻撃を仕掛けてきたが、
大王の部下の
クラテロス
は勝利
↓↑
紀元前328年(癸巳年)
大王は
帰順したこの地方の有力者、
オクシュアルテスの娘
ロクサネ(光)・・・ロクサーネとの間に男の子がいたが
大王死後の紀元前310年に暗殺された
↓↑
ソグド人の「安-禄山(ロクサン)」は
サマルカンド出身のソグド人
紀元755年(乙未年・天平勝宝七年)
「安-禄山」は洛陽を陥落させ、
聖武皇帝・・・「聖武天皇」?
と名乗り、
国号を
「燕」とした(安史の乱)
「燕」=女真・渤海・粛慎・挹婁
清・満州
長安を奪い、
玄宗皇帝と
楊貴妃(胡女?)は
「蜀」へ逃亡・・・玉蜀黍?
を妃とした
↓↑
インド遠征
インドへの遠征を開始
紀元前327年~紀元前326年
スワート渓谷
コフェン戦争
アオルノス包囲戦
紀元前327年~紀元前326年
紀元前326年
インダス川を越えて
パンジャブ地方に侵入
5月に
ヒュダスペス河畔の戦いで
パウラヴァ族の王
ポロスを破った
後も周辺の諸部族を平定、進軍
カタイオイ人も制圧
部下が進軍を拒否し・・・厭戦は兵士、防人(さきもり)
の願望?・・・南スーダン派遣?
兵を返すことにした
↓↑
11月から
Hydraotes川(ラーヴィー川)を南下
全軍を3つに分割し
クラテロス
と共に残存する
敵対勢力(Jat people系族のMalhi)を
駆逐(Mallian Campaign)し、
インダス川を南下し
Patala(タッター)に出た。
ゲドロシア砂漠
(パキスタンバローチスターン州)
を通って
カルマニア
(イランケルマーン州)に向かい、
紀元前324年
スーサに帰還
この際、部下の
ネアルコス
に命じて
インダスからペルシア湾を通って
ユーフラテス川の河口までの航海を命じた
この探検航海によりこの地方の地理が明らかになり
ネアルコス・・・・ネ-アル-コス?
の残した資料は
後世散逸したものの
ストラボン
などの地理に引用された
紀元前324年
スーサ
の合同結婚式が行なわれた
↓↑
バビロン帰還
バビロンで
帝国を
ペルシア、
マケドニア、
ギリシア(コリントス同盟)
の3地域に再編
同君連合の形
ペルシア人を積極的に登用
ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた
ペルシア帝国の後継者を宣し、
ペルシア王の王衣を身にまとい
ペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を
導入し
専制君主化したと
マケドニア人(兵士?)の反発を招いた
↓↑
バビロンに戻り
アラビア遠征を計画
が、
蜂に刺され、・・・・ハチに刺されたって?
祝宴中に倒れた
10日間高熱に浮かされ
「最強の者が帝国を継承せよ」
と遺言し、
紀元前323年6月10日
34歳で死去
↓↑
死因は
毒殺説、
熱病(マラリア)説
癲癇発作
アレクサンドロス3世は
虹彩異色症・・・だった?
↓↑
大帝国の遺将たちが
バビロン会議、
トリパラディソスの軍会
協定によって安定化を目指したが
「最強の者が帝国を継承」で
アンティゴノス、
セレウコス、
プトレマイオス
他の諸将による
ディアドコイ戦争で
分裂
紀元前3世紀
アンティゴノス朝マケドニア、
セレウコス朝シリア、
プトレマイオス朝エジプト
の
ヘレニズム三王国が出現
三国鼎立で落ち着いた
↓↑
紀元前168年(癸酉年)
アンティゴノス朝が滅び
西方は順次ローマに併合
ヘレニズム諸三国は
ローマに滅ぼされた
東方はパルティアが勃興
セレウコス朝の領土の大部分を奪い、
東方領はマケドニア人の手を離れた
以後東地中海から中央アジアに至る地域は
イスラーム帝国の出現まで
大統一を見なかった
アレクサンドロスの遺体は
ペルディッカス
が
バビロンから
王都ペラへ移送途中に
プトレマイオスに強奪され、
ミイラ(木乃伊)・・・・観意等(覶・蠃)?
としてエジプトに埋葬された・・・
↓↑
アレクサンドロス大王の一族は
ディアドコイ戦争中に殺害され、
大王の血統は断絶
↓↑
サンドロコットス
プルタルコスなどによれば、
アレクサンドロスがインドに侵入した時、
マケドニアの陣営に1人の若者が訪れて
インド東部への道案内を申し出た
若者の名は
サンドロコットスといい、
彼がのちの
チャンドラ(月神)グプタであるとした・・・
ーーーーー
↓↑
前336年
フィリッポス2世(父)・・・隻眼?
古都アイガイの劇場で
パウサニアスに暗殺された・・・
47歳
↓↑
暗殺は
フィリッポス2世
第7王妃の
クレオパトラ
VS
第5妃の
オリュンピアス(母)
や
アレクサンドロス(息子)
の
王位継承問題の
確執と怨恨が原因・・・?
↓↑
前337年秋
フィリッポスが
7人目の妻を
マケドニア貴族
アッタロスの姪
クレオパトラと結婚
婚礼の場で
アッタロス
が王国の正統な後継者が
クレオパトラから
生まれるようにと祝辞
これに
アレクサンドロス
が激怒して
アッタロスに杯を投げつけ
フィリッポス
剣を抜いて
アレクサンドロス
に襲いかかった
アッタロスは
アレクサンドロスを妾の子と
侮辱した・・・
直後に
オリュンピアス(母)・・・5番目の妃
と
アレクサンドロス(息子)
は
エペイロス(母の地元)
へ逃げた・・・
↓↑
トラキア
からは
6番目の
メーダ
も嫁いでいた・・・
フィリッポスの政略結婚・・・
これまでの結婚で
生まれた息子
アリダイオス
は知的障害があり・・・?
後継者は
アレクサンドロス
のみであった・・・
↓↑
別説・・・
↓↑
フィリッポス暗殺の実行犯
パウサニアス
は
フィリッポスの寵愛を受けていたが、
同名の別人
パウサニアス
に寵愛が移ると、
彼を侮辱したが
イリュリア人との戦争で
フィリッポス大王
をかばい戦死
彼の友人
アッタロスが
復讐で
宴会で
パウサニアスを酔わせ
ラバ追い達に暴行させた
パウサニアスは
この仕打ちを
フィリッポスに訴え出たが
アッタロスを罰せず
パウサニアスを
王の側近護衛官にし
彼の怒りを和らげようとした
だが、
パウサニアス
の怒りは
アッタロス
から
フィリッポスに向けられ
アイガイの劇場で
パウサニアスは
フィリッポスを暗殺
王の暗殺後
アッタロスは
アレクサンドロスより殺害
↓↑
その後
7番目の妻
クレオパトラは
オリュンピアスにより
自殺に追い込まれ、
生まれたばかりの娘は
オリュンピアスにより
殺害された
・・・???・・・
↓↑
フィリッポス2世は
紀元前382年
マケドニア王
アミュンタス3世
と妻の
エウリュディケーの
第三王子・・・兄は
アレクサンドロス(1世?)
ペルディッカス=ペルディッカス3世
幼少期に
将軍エパメイノンダスの
テーバイの人質
兄ペルディッカス3世の死後
紀元前359年
甥
アミュンタス4世の摂政
後、
紀元前359年に即位
マケドニアのバシレウスに即位
バシレウス(Βασιλεύς; Basiléus)=君主の称号
「王」を意味し、
ラテン語の「rex」・・・ア-レックス=A-lex
全ギリシアの
オリュンピア大祭に参加
戦車競技の種目で優勝
アレクサンドロス3世の出生と同時期でもあり、
オリンピック優勝を喜び
幼名であった妻の名を
オリュンピアスとし
マケドニア人で
オリンピックに参加した
アレクサンドロス1世・・・
↓↑ ペルシアは
↓↑ パイオニア人を征服した後、
アミュンタス1世の支配する
マケドニア王国へと
ペルシアへの服従を迫る使者を
送った。
アミュンタスはそれを受け入れ、
宴が催された席で
ペルシアの使者たちが
マケドニアの女性たちに対して
狼藉を働いたため、
王子のアレクサンドロス1世は
怒り、
女装させた青年を差し向けて
使者たちを殺した・・・
↓↑ ・・・「ヤマトタケルが女装」して
↓↑ 熊襲タケルを殺したハナシ・・・?
↓↑
の名前を
子供に付けた・・・アレクサンドロス3世
↓↑
フィリペイオン
↓↑
フィリッポス2世の
妃
アウダタ
フィラ
ニキシポリス
ピリンナ
オリュンピアス
メデア(Meda)・・・トラキアからの輿入れの妃
↓↑ ↓↑
↓↑ トラキア(トラケー・Θράκη
Thrākē・Thracia)・・・虎記亞?
小部族に分かれていたが、
南のギリシアから様々な影響を
受けて国家を形成・・・
ブルガリア領内で
トラキア時代の遺跡発掘
大量かつ精巧な金細工が発見
紀元前6世紀頃
トラキア地方に
ギリシア人の植民都市が建設
ペルシアのアケメネス朝の
支配下に入った
↓↑ 紀元前4世紀に
西のマケドニア王国に征服され
4世紀から
トラキアの東端部の
ビュザンティオンが
ローマ帝国の新首都になり
コンスタンティノポリスとなった
東ローマ帝国の
トラキア地方における中心都市の
↓↑ アドリアノープルは
オスマン帝国の都エディルネとなった
1878年
オスマン帝国の衰退で
北部に東ルメリ自治州がおかれ、
1886年
オスマン帝国から独立していた
ブルガリア公国に併合
大部分はオスマン帝国の支配下
20世紀初頭の2度の
バルカン戦争
第一次世界大戦により、
エディルネ以北はブルガリアに、
エヴロス川以西はギリシャ王国に
割譲され、
残る部分はトルコが確保し
↓↑ 3か国に分断・・・
クレオパトラ・エウリュディケ
↓↑
フィリッポス2世の
子女
キュナネ
ピリッポス3世
アレクサンドロス3世・・・
クレオパトラ・・・・・・
テッサロニカ
エウロパ
カラノス
ーーーーー
キラ(デルフォイから数キロの湾岸都市)
ボクは
デルフォイにも
トラキアにも行ったけれど・・・モザイク画は「虎」?
ーーーーー
紀元前343年
トラキアを制圧したマケドニア軍が
ボスボラス海峡に面した
ピュザンティオン(イスタンブール)を攻囲
アテナイも艦隊出撃
アテナイの海上戦力で
マケドニア軍は苦戦
ピュザンティオンの攻略に失敗
↓↑
アテナイの
デモステネスは
反マケドニアの勢力を結集
アテナイは
テーバイを陣営に引き込み
アテナイは
ペルシア戦争時の
ギリシア同盟の再現をもくろみ、
ペルシア戦争の
プラタイアの戦い
(紀元前479年。ギリシア同盟軍はペルシア軍に勝利)
の再現を狙い
カイロネイアの会戦へ
↓↑
紀元前338年
ボイオティアへ侵攻した
マケドニア軍を迎え
アテナイ・テーバイ同盟軍は
カイロネイアに布陣
マケドニア軍は
歩兵3万2千
騎兵2千程度
アテナイ同盟軍は
歩兵3万5千
同盟軍の重装歩兵(ポプリタイ)軍団は
大きな円形の盾(ポプロン)
長槍
でファランクス(密集方陣)
機動力は鈍く、投射武器に弱い
ギリシア軍は重装歩兵以外の
軽装歩兵や騎兵、弓兵は弱く
フィリッポス2世の
マケドニア軍は
軽歩兵、騎兵を
独自の戦闘陣形を編み
盾持ち兵と散兵という軽装の兵士で
騎兵の突撃で敵を粉砕
18歳の
アレクサンドロスは騎兵部隊を指揮
斜線陣で
アテナイ軍と友軍とを分断
フィリッポス2世が
歩兵部隊を前進させ
アテナイ軍は、崩壊敗走
この勝利によって、
マケドニアは
全ギリシアの覇者となって
コリントス同盟の盟主となった
↓↑
ペルシア侵攻
紀元前336年
暗殺後
アレクサンドロスが即位
ーーーーーー
「稗田の阿礼」のモノガタリ・・・「古事記」は「亞歴山」の・・・「亞の歴の纂」を下敷きにした?・・・
・・・「雪の下=コジソウ(虎耳草)」・・・