イキていたモノを殲滅するイキて存在するヤツラ
「烏克蘭=宇克蘭」領居住民への
プーチン
「魯西亜=露西亜=俄西亜」・・・鹵西亜・虜西亜
ロスケ
の悪行、仕業
↓↑
1941年11月4日
内務人民委員部(NKVD)
ヤルタ刑務所の全囚人を射殺
殺(や)る多・・・遣る隋(太)
・・・遣隨使(小野妹子=蘇因高)?
↓↑
「ツバメの巣城(Swallow's Nes・Schwalbennestt)」
「 ツバメの巣 (ウクライナ語: Ластівчинегніздо
ラストチキノヒニズド
つばめ=ラーシカ?
ラースタチュカ=ластівка
ロシア語: Ласточкиногнездo
Lastochkino gnezdo」
つばめ=ラーストチカ(Ласточка)
Castle of Love
↓↑
クリミア半島・・・狂巳亜犯頭(プーチン)
国連事務総長(2017年~)
アントニオ・グテーレス氏
(ポルトガル出身)
と
・・・問答会談後
4月28日
宇克蘭訪問、会談最中
基輔(吉和・計由)へミサイル攻撃
↓↑
キエフ(ロシア語: Киев)
キーウ(ウクライナ語: Київ, 発音 [ˈkɪjiu̯]
(基輔・・・「基衛府」?
【附錄】日本、
外國地名的假名及漢字表記列表
(ピンイン付き)【日文單詞表】)
(吉和=青地林宗訳の地誌『輿地誌略』
計由=『重訂万国全図(1855年)』
磯部さんの日記(mixi)
キーフ=キィフ
「紀伊・奇異・貴意・忌諱」+附
記委付・紀移付・紀+「畏怖・移付・異父」
・・・キのエのフ=基の輔=吉の和=計る由
帰依負(夫・婦)・記絵附
の
ヤルタ
と
アルプカ
の間の小さな温泉町
ガスプラに位置する装飾的な城
↓↑
「ツバメの巣 (ヤルタ)」・・・鳦(乙鳥・玄鳥・燕・鷰・津羽目)
燕國=公孫淵・燕京=北京
クリミア半島のシンボル
帝政末期
1912年
バルト・ドイツ人貴族によって
ネオ・ゴシック様式で建設
「燕来る 時になりぬと
雁がねは 国偲(しの)ひつつ
雲隠り鳴く(『万葉集』巻19-4144)」
↓↑
原文 燕来 時尓成奴等
鴈之鳴者
本郷思都追
雲隠喧
↓↑
訓読 燕来る時になりぬと
雁がねは
国偲ひつつ
雲隠り鳴く
↓↑
仮名 つばめ くる ときに なりぬと
かり がね は
くに しのひ つつ
くも がくり なく
↓↑
巻 第19巻
歌番号 4144番歌
作者 大伴家持
題詞 見歸鴈歌 二首
↓↑
「のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ
屋梁(はり)にゐて
たらちねの母は
死にたまふなり
(斎藤茂吉『赤光(シャッコウ)』)」
↓↑
「ツバメの巣城(Swallow's Nest・Schwalbennest)」
「ヤルタ」
クリミア半島のシンボルの城
帝政末期の
1912年
バルト・ドイツ人貴族によって
ネオ・ゴシック様式で建設
↓↑
↓↑
つばめ・ツバメ
↓↑
ーーーーーー
トゥヴァ共和国
Республика Тыва・トゥバ共和国・・・?
↓↑
ロシア語表記の Тува
トゥバ語表記の Тыва
に変更
中国語表記 唐努烏梁海
↓↑
トゥバ人
(トゥヴァ語 Тыва (Tiva)
Тывалар (Tivalar)
Тыва кижи(Tiva kiži))
↓↑
エニセイ川源流域に居住
テュルク語系言語
トゥバ語を母語とする民族
日本語表記 ツーバ人
人種 モンゴロイド
↓↑
『北史』鉄勒伝
『隋書』・『旧唐書』・『新唐書』
の記録
「都播」
「都波」・・・都波目・・・菟玖波(筑波・蹲)?
が
トゥバ人
トゥバ
自称の
トファラル人
コイバル人
らしいと考えられている・・・?
↓↑
傍観者ではいられないけれど・・・心臓脚気に腰痛・・・
客観主義者ではいられれないケレど・・・
主観主義者ではいられれないケレど・・・
ボッチで
提媚とU虫部を・・・TV YouTube
観ながら
聴きながら
脳ミソが激烈に反応し
脳ミソの領域中で昂奮・・・亢奮・公憤
顔面、引き攣り、紅潮、蒼白
口唇、歪曲
気管支、咳気
全身、痙攣、引攣、麻痺
↓↑
慄き、戦き、おののき
畏れ、懼れ、怖れ、惧れ、恐れ、虞、おそれ
コブシを握り
↓↑
チガう、たがう、異なるッて
怒り、おこり
発熱
痎(二日に一度高熱症状が出る・おこり・マラリア)
㾬(二日に一度高熱症状が出る・おこり・マラリア)
痁(マラリア・おこり・感染症)
瘧(おこり・わらわやみ・マラリア・発熱)
瘧師(ギャクシ) ?・・・巫女・覡(ゲキ)・按摩・医者
富山から北海道に屯田兵として渡った一族の苗字
逆詞・・・劇詞・虐使
哀(あわれ)・憐れ・・・遭われ・・・阿波連・安房・粟
辛(つらい)
悲(かなしい)
哀=衣+口
亠+口
アイ
あわれ
あわれむ
中あわれむ
かなしい
かなしむ
かわいそう
つらい気持ち
父母の喪中
↓↑
哀歌(アイか)
哀感(アイかん)
哀歓(アイかん)
哀願(アイがん)
哀史(アイし)
哀愁(アイしゅう)
↓↑
嗚呼哀哉
哀哀父母=哀哀たる父母
↓↑
哀感頑艶
「頑」=愚人
「艶」=頭が切れる人
「哀しみ頑艶を感ぜしむ」
↓↑
哀毀骨立(アイキコツリツ)
悲しみで体を毀し、骨と皮ばかりになるほど痩せること
↓↑
哀矜懲創(アイキョウチョウソウ)
罰を与える者は
相手を思いやる情け、悲しみ、哀れみの心を持て・・・?
無理・ムリ・むり・・・武利
↓↑
哀鴻遍地(アイコウヘンチ)
戦いに敗れた兵士や
さまよう難民があらゆる場所にあふれている様子
哀しげに鳴く雁が
野原にあふれる様子を
流浪する兵士や難民にたとえた
↓↑
そして笑い楽しんで癒(い)やしている存在・・・
↓↑
バルカン半島
クリミア半島
クリミア(Crimea
ロ語 Крым
ウクライナ語 Крим
クリミア
タタール語 Къырым)
黒海の北岸にある半島
面積は2万6844km2
2014年1月1日時点
人口 235万3100人
↓↑
ソビエト連邦
「ヨシフ・スターリン」
↓↑
クリミア半島住民
クリミア・タタール人を
シベリアや中央アジアへと強制的移住
「スターリン」死後
1954年
「ニキータ・フルシチョフ」
クリミアは
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管
1991年
ソビエト連邦崩壊
追放タタール人はクリミアへ帰還
1992年
ウクライナ
クリミア自治共和国
となった
↓↑
ソビエト連邦時代
クリミア・ソビエト社会主義共和国
ロシア・ソビエト社会主義共和国
の統治
1954年以降
ウクライナ・ソビエト共和国に属す
1991年独立以後
ウクライナの構成国家
クリミア自治共和国に属す
2014年3月11日
クリミア最高会議が
セヴァストポリ特別市
と共に
ウクライナからの独立宣言
↓↑
クリミア危機
ロシアへの編入の是非を問う住民投票
以降
ロシアの実効支配
ロシアによる
クリミア・セヴァストポリの編入
ウクライナ側は
ウクライナ憲法やCIS憲章などに違反しているとし
編入無効を主張
国際連合総会決議
68 vs 262
ウクライナを支持
↓↑
クルム=クリミア
ジョチ・ウルス時代
クリミア半島の中心都市(スタリ・クリム)の名称
オスマン帝国が
クリミア・ハン国を支配していた時代に
半島全体の名称となった
クルムの語源
古テュルク語 「丘・尾根・山頂」=Kɨr
黒海北岸の古代地名
「キンメリア」に関係
↓↑
古ギリシア語の地名
「Ταυρική(タウリケ)」に由来
「タウリカ・タウリス」
古代にクリミア半島居住の
スキタイ=キンメリア系民族・・・「キン」+「メリア」
金 女里亜
「タウロイ」に由来
ストラボン
プトレマイオスは
「ケルチ海峡」を
「ボスポロス・キンメリオス(キンメリア海峡)」
タウリカの中心都市を
「キンメリウム」
半島=最東端の岬
「プロモントリウム・キンメリウム(キンメリア岬)」
「キンメリア人」と関連づけて呼ぶ
↓↑
英語
クリミア系統の名称の用例
18世紀
クリミア・ハン国
クリム・タルタリー(Crim Tartary)
「Crimea」の綴りは
イタリア語(17世紀前後~)由来で
1780年代に使われ
19世紀を通じ
英語の伝統的な名称
「タウリカ」や「タウリス」
に置き換わった
↓↑
ロシア語
古名タウリカが
18世紀末
ロシア帝国が併合した
クリミア半島に
「タヴリダ州」を設置し復活
ソ連以降
クリミア半島の
タヴリダ国立大学
SCタフリヤ・シンフェロポリ
などに使用
↓↑
紀元前5世紀頃
ギリシア人の入植~有史時代
「タウリカ」
「ケルソネソス・タウリカ(タウリカ半島)」
化留曾根素洲・隋烏里乎・・・?
大曾根・中曾根
と呼ばれていた
スキタイ人(スキタイ=キンメリア人、タウロイ人)
ギリシア人、ローマ人
ゴート人、フン人
ブルガール人
ハザール人
キプチャク人
など様々な民族が
クリミアを征服と支配
↓↑
中世
キエフ・ルーシ
東ローマ帝国
に支配
モンゴル征服
モンゴル帝国の分枝
「ジョチ・ウルス」
に支配
沿岸の一部が
ヴェネツィア
ジェノヴァ
の統治下に置かれた
これらの諸勢力は
15世紀~18世紀
「クリミア・ハン国」
と
「オスマン帝国」
に支配
↓↑
1783年
ロシア帝国
クリミア・ハン国併合
1921年~1945年
ソビエト連邦の下に
クリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置
1954年
クリミア州は
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管
1991年
ソビエト連邦崩壊で
ウクライナ独立し
自治共和国
2014年
クリミア危機
ウクライナ国内法を無視し
独立を宣言
ロシアによる
「クリミアの併合」が宣言
↓↑
2022年2月24日
ロシアのウクライナ侵略で
攻撃の策源地として利用
↓↑
先史時代
旧石器時代中期
キイク・コバ洞窟の
ネアンデルタール人の痕跡
8万年前
後のネアンデルタール人は
スタロセレ(4万6000年前)
ブルハン・カヤ3号(3万年前)
でも発見
↓↑
初期現生人類
クリミア山脈
ブルハン・カヤ洞窟(シンフェロポリの東)
で発見
化石はおよそ3万2000年前のもの
遺物は
グラヴェット文化に属する
最終氷期の再寒冷期
黒海北岸一帯は
氷期終焉で
中・北ヨーロッパに
再拡散することになる人口の避難地
何度かの亜間氷期を挟んで
気温は緩和上昇
周氷河地形の低地ステップが
東ヨーロッパ平原に広がった
人類の居住地帯の密度は
クリミア地域にほとんど集中
約1万6000年前まで増加
黒海洪水説
クリミアは
紀元前6千年期
黒海の水位上昇で半島として形成
↓↑
新石器時代
農業を伴わず
陶器製造の開始
石器多種類製造技術の変化
豚の家畜化
クリミア半島における
麦生産の最古の証拠
銅器時代の
アルドゥチ・ブルン遺跡で発見
紀元前4千年紀の中頃
↓↑
紀元前3千年紀
ヤムナ文化
青銅器時代初期
東イラン語群の
「スキタイ」
がクリミアに定着
クリミア半島南部に
スキタイ人によって駆逐された
「キンメリア」人の一派の
「タウロイ」が居住
紀元前6世紀、7世紀
「ミレトス」人によって
最初のギリシア植民都市が建設
↓↑
紀元前5世紀
黒海北岸の
ギリシア人の植民都市建設
「タウリカ(ギリシア語)」
クリミア半島の呼称
古代ギリシア人は
「タウロイ」人から
「タウリカ」の地名を名づけた
「タウロイ」人は
クリミア半島南部の山岳地帯にのみ居住
タウリカの名も当初は半島南部のみに使われていた
↓↑
ギリシア神話
タウリカは
ミケーネの王女
「イピゲネイア」
の物語の舞台
父王
「アガメムノン」
によって女神
「アルテミス」
の生贄にされた王女は
これを憐れんだ女神によって救出
タウリカに送り込まれた
「イピゲネイア」は
「アルテミス神殿」の神官となり
タウリカの
「トアス」王によって
捕らえられた外国人を生贄に捧げるよう命じられた
or
タウリカの民
「タウロイ」は
野蛮な儀式と海賊行為で知られ半島のもっとも古い居住者
タウロイの地と
ギリシア人殺しに関する説は
ヘロドトスの『歴史(ヒストリアイ)』にも記録
↓↑
紀元前5世紀
ギリシア人は
黒海沿岸に植民を広げた
ヘラクレアの
「ドーリア」人は
セヴァストポリ市に港湾都市
「ケルソネソス」
ミレトスの
「イオニア」人は
テオドシア(フェオドシヤ)
パンティカパイオン(ケルチ)
を建設
↓↑
紀元前438年
パンティカパイオンの
「アルコン(執政官)」に就任した新植民者の
「スポルトコス」が
「キンメリオス・ボスポロス
(キンメリア海峡・ケルチ海峡)」
の王を称し
アテネと緊密な関係を結んで
麦、蜂蜜その他の商品を供給した
スポルトコス王朝最後の王
「パイリサデス5世」
遊牧民スキタイの圧力を受け
紀元前114年
ポントスの王
「ミトリダテス6世」の庇護を求め
「ミトリダテス」の王子
「ファルナケス2世」
は、ローマ共和国と父王との戦いで
ローマ側につき
紀元前63年
ローマの
「ポンペイウス」
によって
ボスポロス王として承認
紀元前15年
ボスポロスは再び
ポントス王国の支配下に戻されたが
ローマの属州同然であった
↓↑
ローマ時代
紀元前1世紀
ボスポロス王国を形成していた
「タウリカ」
はローマ帝国に併合
↓↑
紀元1世紀~3世紀
タウリカの都市
「カラクス」
にローマ軍団が駐留し
ローマ人の植民都市となった
ローマ都市
「カラクス」
は、遊牧民スキタイから
「ケルソネソス」
やその他の交易地を防衛するため
「ウェスパシアヌス帝」
によって建設された
都市の防衛は
第1軍団イタリカの支隊が当たり
2世紀末には
第11軍団クラウディア
が加わり
カラクス駐留の部隊の司令官の一人が統治した
↓↑
3世紀中頃
ゲルマン人の一派
「ゴート族」
が
クリミアでローマ人とボスポロス王国を攻撃
クリミア半島流入の
「クリミアゴート族」
は16世紀頃まで独自の文化と社会を保った
↓↑
3世紀末
ローマ軍の駐屯地放棄
↓↑
中世
ケルソネソス(セヴァストポリ)
の遺跡に建つ
聖ウラジーミル大聖堂
遊牧民の流入
ローマ人撤退後
フン人(376年)
ブルガール人(4~8世紀)
ハザール人(8世紀)
キプチャク(10世紀以降)
と遊牧民族の征服と支配
クリミア半島北部のステップは
スキタイ以来
遊牧民が支配した南ロシア草原と一連で
インド・ヨーロッパ語族の
イラン諸語に代わって
この地域の遊牧民の言語となった
テュルク諸語が話されるようになった
↓↑
1025年
東ローマ帝国
10世紀中頃
クリミア半島の東部は
ハザールを滅ぼした
「キエフ大公国」
の
「スヴャトスラフ1世」
によって征服
チェルニヒウ地方の
「ルーシ」
の
「トムタラカニ公国(トムトロカン公国)」
の一部となった
988年
「ウラジーミル1世」
が東ローマ帝国の都市
「ケルソネソス(セヴァストポリ)」
を占領しキリスト教に改宗
9世紀~11世紀
半島の南端部は
「ビザンチン帝国(東ローマ帝国)」
の支配下に置かれた
東ローマ帝国は
ここに軍管区の
「テマ・ケルソン」を設置
↓↑
モンゴルの征服
中世後期のクリミア
「キエフ大公国」
と東ローマ帝国は
13世紀前半の
モンゴルの
「ルーシ侵攻」によって
クリミア半島における支配権を喪失
1238年夏
チンギス・カンの孫
「バトゥ」
率いるモンゴル軍はクリミアに侵入
1240年
「キエフ」
を破壊
↓↑
13世紀
イタリアの
ジェノヴァ共和国
ヴェネツィア共和国
が
クリミア南端の黒海沿岸に整備した港を奪い取り
「チェンバロ(バラクラヴァ)」
「ソルダイア(スダク)」
「チェルコ(ケルチ)」
「カッファ(フェオドシヤ)」
などを建設
↓↑
1239年~
クリミアは・・・栗実味蛙・句理視丫
モンゴル帝国の分枝
「ジョチ・ウルス」の
「テュルク=モンゴル系諸部族(タタール)」
に支配された
↓↑
半島の名称
「クリミア(英語Crimea
仏語Crimee
独語(クリム・Krim)
露語(クルィム)」
は
「テュルク系言語」の
「クルム(クリミア・タタール語: Qırım, トルコ語: Kırım)」
に由来し
ジョチ・ウルス時代
クリミアの中心都市
内陸の
「ソルハット(スタールイ・クルイム)」
の別名から半島全体の呼称になった
↓↑
1346年
モンゴル軍がジェノヴァ支配下の
「カッファ(フェオドシヤ)」包囲中に
疫病で死んだ兵士の死体を
城壁内に投げ込んだことが
14世紀ヨーロッパの
「ペスト大流行」の原因となった・・・説
↓↑
14世紀ごろ
東ローマ帝国系の国家
「テオドロ公国」
が、クリミア半島の南西部で独立
首都は
「マングプ」
オスマン帝国に滅ぼされるまで
東ローマ帝国の命脈を保った
↓↑
近世
15世紀中頃
内陸部は
クリミア・ハン国領
南岸は
ジェノヴァ領の諸港
山間部は
クリミアゴート族勢力が残存
↓↑
1600年頃
半島南端の旧ジェノヴァ領は
オスマン帝国の直轄領になっていた
↓↑
クリミア・ハン国(1441年–1783年)・・・栗実婀・飯語句
庫裏味亜・ご飯
句理診倦・誤判?
1395年
「トクタミシュ・ハン」
が
「ティムール」
に敗れて没落
ジョチ・ウルスの分裂
クリミアにいた
タタールの諸部族は
1441年
「チンギス・カン」
の末裔(バトゥの弟トカ・テムルの子孫)
「ハジ・ギレイ」
をハンとして
クリミア・ハン国を形成
都は
「クルク・イェル」
16世紀初め
「バフチサライ」
へ移った
↓↑
クリミア・ハン国
支配圏は黒海北岸のステップ一帯に広がり
東はクバンから
西はドニエストル川まで及んだ
内紛で
クリミアの諸部族は
オスマン帝国の
「メフメト2世」
に援軍を要請し
1475年
大宰相
「ゲディク・アフメト・パシャ」
率いるオスマン軍が
クリミア南部の
ジェノヴァ領諸都市を攻め落とした
↓↑
内紛で
「カッファ(フェオドシヤ)」
に逃げ込み
ジェノヴァ人の捕虜になっていた
「ハジ・ギレイ」の子
「メングリ・ギレイ」
は、イスタンブールに連れ去られて捕虜となったが
のちにオスマン帝国への忠誠を誓って解放されて復位し
「クリミア・ハン」国は
オスマン帝国の属国となった
クリミア・ハン国は
オスマン帝国から自治権を認められ自主的な統治を行った
ハン国支配下の部族民からなる騎兵は
ウクライナへの襲撃を繰り返し
捕虜を奴隷とし
オスマン帝国の市場に供給した
1450年~1586年
86回
1600年~1647年
70回の襲撃
1570年代
年間に2万人近い奴隷が
「カッファ」
で取引されていた
↓↑
クリミア・ハン国統治下の諸民族
クリミア・タタール人
15世紀~18世紀
クリミア・ハン国
の統治下にあった人々により民族を形成
8世紀以来、クリミア半島に流入した
「テュルク系民族」の末裔で
「クリミア・ゴート」人や
「ジェノヴァ」人
他の諸民族も混成・・・
クリミア・ハン国の人々は
クリミア半島中央部
黒海北岸の
「ノガイ」の二大グループに分かれていた
タタールは主に農民
遊牧民は
「ノガイ」
のみであった
イスラム教スンナ派を
信仰するクリミア・タタール人に混じって
ユダヤ教カライ派を信仰し
テュルク系言語のカライム語を用いる
クリミア・カライム人も13世紀から確認
彼らは主に
「チュフトカレ」の山岳地帯に居住
他に
「ラビ派ユダヤ教徒」で
テュルク系言語のクリムチャク語を話す
「クリムチャク人」
ビザンティン以来のキリスト教正教徒
クリミア・タタール語を話す
「ウルム人」
同じく正教徒の
「ギリシア人」
アルメニア教会に属する
「アルメニア人」
などがクリミア半島で暮らしていた
↓↑
ウクライナ・コサック
クリミア・ハン国が形成された
15世紀頃
モスクワ大公国
リトアニア大公国
ハン国との間の緩衝地帯
ステップ(ウクライナとロシアの南部)
に住み着いた正教徒の人々が
コサック(コザーク、カザーク)
と呼ばれる武装集団を形成した
1550年代
ウクライナ・コサックのヘトマン
ドミトロ・ヴィシネヴェツキー
は
コサックを軍事組織化し
ドニエプル川の中洲に
タタールの侵入に対抗するための要塞を建設
形成された
「ザポロージャ・シーチ」のコサックは
クリミア半島
オスマン帝国
への襲撃を行った
コサックが
ポーランド
リトアニア共和国
からの自立を目指した
「フメリニツキーの乱(1648年~1657年)」
では
ヘトマンの
「ボフダン・フメリニツキー」
はクリミア・ハン国と同盟して挙兵したが
度々タタール軍に裏切られたことから
「ペレヤスラフ協定(1654年)」
でロシアと同盟を結び
「ヘーチマン国家」の保護国化を招いた
1783年
ロシアの併合
1682年
第二次ウィーン包囲により
大トルコ戦争開始
ロシアも参戦し
「露土戦争(1686年~1700年)」
を有利に進め
1700年
「コンスタンティノープル条約」締結
ロシアとオスマン帝国の間で直接結ばれたこの条約
クリミア・ハン国は
13世紀以来
伝統として要求してきたロシアからの貢納の取り立てを禁じられた
1774年
「露土戦争(1768年~1774年)」
に敗れたオスマン帝国は
「キュチュク・カイナルジ条約」
でクリミア・ハン国の宗主権を放棄させられ
独立した
クリミア・ハン国は
ロシア帝国の影響下に入った
1778年
ロシアによって正教徒の住民が
クリミアから
アゾフ海北岸の
「マリウポリ」周辺に強制移住させられた
1783年
ロシア帝国は
「キュチュク・カイナルジ条約」
を破棄し
クリミア・ハン国を併合
↓↑
ロシア帝国期(1783年~1917年)
ロシア帝国統治下の
ノヴォロシア
クリミア
ロシア皇帝
「エカチェリーナ2世」
1784年2月2日
勅令を発し
クリミア半島
南ウクライナ
を
タヴリダ州とした
「タヴリダ」
の名前はギリシア語の古名「タウリカ」から
州都は当初
「カラスバザル」に置かれ
後に
「シンフェロポリ」
へ移された
↓↑
1802年
皇帝「パーヴェル1世」
旧クリミア・ハン国領の行政区画を改定
「シンフェロポリ」を県都とする
「タヴリダ県」を設置
クリミア半島全域の25,133 km2
南ウクライナの本土部分38,405 km2
を管轄
↓↑
19世紀
ロシア人
ウクライナ人
ドイツ人(クリミア・ドイツ人)
が流入
クリミア・タタール人の人口が多数
他に
ユダヤ人(クリムチャク人・クリミア・カライム人を含む)
ブルガリア人
ベラルーシ人
トルコ人
アルメニア人
ギリシア人
ジプシー
が居住
↓↑
クリミア・タタール人は
南部山岳地帯における多数派
中央部ステップ地帯のおよそ半数
ロシア人は
フェオドシヤ地区に集住
ドイツ人とブルガリア人は
19世紀の前半に移住し
豊富な資金と肥沃な土地を与えられ
裕福な植民者として
北部ペレコープ
西部エフパトリヤ
を中心に土地を取得
↓↑
フランツ・ルボー
「セヴァストポリ攻囲戦」
(1904年)
クリミア戦争
1853~1856年
オスマン帝国の分割に伴う勢力圏を
ヨーロッパの列強が争った一環として
フランス、イギリス
オスマン帝国
サルデーニャ王国
ナッサウ公国
の連合軍と
ロシア帝国が激突
↓↑
オスマン帝国の属国
「ワラキア・モルダヴィア」
と黒海で始まり
1854年9月
同盟軍がクリミアに上陸
黒海艦隊の母港
「セヴァストポリ」
に進軍
1855年9月
セヴァストポリ攻囲戦
陥落で決着
↓↑
クリミア・タタール人は
戦火の中で迫害や土地の収奪から逃れ、故郷を離れた
逃避行、飢餓と病気を生き延びた人々は
ドブロジャ
アナトリア
などの
オスマン帝国領内に移住
↓↑
1905年
ロシア第一革命
黒海艦隊の船員と
セヴァストポリ駐屯地の兵士
港の労働者
らが武装蜂起
ロシア全土で政治的ストライキ拡大
クリミアでは大騒動
↓↑
ヤルタ
北緯44度29分58秒
東経34度9分19秒
↓↑
14世紀
ジェノヴァ商人によって
エタリタ(Etalita)
ガリタ(Galita)
と呼ばれた
↓↑
12世紀
ビザンチン帝国の漁港
1475年
オスマントルコ帝国に征服
↓↑
1783年
ロシア帝国に併合
↓↑
1911年
ニコライ2世が南西にリヴァディア宮殿を建設
ヤルタ=岸辺・・・耶留他
↓↑
1941年11月4日
内務人民委員部(NKVD)
ヤルタ刑務所の全囚人を射殺
↓↑
「ツバメの巣城(Swallow's Nes・Schwalbennestt)」
「 ツバメの巣 (ウクライナ語: Ластівчинегніздо
ラストチキノヒニズド
つばめ=ラーシカ?
ラースタチュカ=ластівка
ロシア語: Ласточкиногнездo
Lastochkino gnezdo」
つばめ=ラーストチカ(Ласточка)
Castle of Love
クリミア半島の
ヤルタ
と
アルプカ
の間の小さな温泉町
ガスプラに位置する装飾的な城
↓↑
「ツバメの巣 (ヤルタ)」・・・鳦(乙鳥・玄鳥・燕・鷰・津羽目)
燕國=公孫淵・燕京=北京
クリミア半島のシンボル
帝政末期
1912年
バルト・ドイツ人貴族によって
ネオ・ゴシック様式で建設
「燕来る 時になりぬと
雁がねは 国偲(しの)ひつつ
雲隠り鳴く(『万葉集』巻19-4144)」
↓↑
原文 燕来 時尓成奴等
鴈之鳴者
本郷思都追
雲隠喧
↓↑
訓読 燕来る時になりぬと
雁がねは
国偲ひつつ
雲隠り鳴く
↓↑
仮名 つばめ くる ときに なりぬと
かり がね は
くに しのひ つつ
くも がくり なく
↓↑
巻 第19巻
歌番号 4144番歌
作者 大伴家持
題詞 見歸鴈歌 二首
↓↑
「のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ
屋梁(はり)にゐて
たらちねの母は
死にたまふなり
(斎藤茂吉『赤光(シャッコウ)』)」
↓↑
「ツバメの巣城(Swallow's Nest・Schwalbennest)」
「ヤルタ」
クリミア半島のシンボルの城
帝政末期の
1912年
バルト・ドイツ人貴族によって
ネオ・ゴシック様式で建設
↓↑
ロシア内戦期(1917年~1921年)
「ロシア内戦」
「クリミア半島におけるテロ事件 (1917~1918)
第一次世界大戦
1917年
ロシア革命の後
クリミアの軍事・政治は混乱
ロシア内戦の間
クリミアでは何度も統治者が交代
一時期は
白軍(反革命側)の最後の牙城
↓↑
クリミアを統治した諸政権
↓↑
クリミア地方政府が発行した25ルーブル紙幣
クリミア人民共和国
1917年12月~1918年1月
クリミア・タタール人が主導
↓↑
タヴリダ・ソビエト社会主義共和国
1918年3月19日~4月30日
ソビエト政権
↓↑
ウクライナ人民共和国
1918年5月~6月
ドイツ帝国の支援を受けて統治
↓↑
クリミア地方政府(第一次)
1918年6月25日~11月25日
ドイツに擁立された
リプカ・タタール人の将軍
「マツェイ・スリケヴィチ」政権
↓↑
クリミア地方政府(第二次)
1918年11月~1919年4月
ドイツ撤退後
カライム人の元立憲民主党員
「ソロモン・クリム」
が首班の
「反ボリシェビキ政府」
↓↑
クリミア・ソビエト社会主義共和国
1919年4月~1919年6月
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
の一部を構成するソビエト政権
↓↑
南ロシア政府
1920年2月~4月
白軍のデニーキン将軍の政府
↓↑
南部ロシア政府
1920年4月(正式には1920年8月16日)–11月16日
白軍の
「ヴラーンゲリ」将軍の政府
「ヴラーンゲリ」将軍が率いる白軍にとって
ネストル・マフノの
パルチザンと
ミハイル・フルンゼが率いる赤軍に対する
最終防衛地となったのがクリミア
白軍の抵抗は
1920年
「ペレコープ=チョーンガル作戦」
により撃滅され
反革命派兵士が船で
イスタンブールへと脱出
↓↑
「クリミア半島の赤い恐怖」
ソビエト連邦期(1922年~1991年)
戦間期
「クリミア自治ソビエト社会主義共和国」
1921年10月18日
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の構成国
クリミア自治ソビエト社会主義共和国発足
クリミアは新生ソビエト連邦の一部
自治共和国は
当時クリミアの人口の
およそ25%にまで減少していたクリミア・タタール人たちを
1930年代以降の
「ヨシフ・スターリン」
による強権政支配から
保護するための体制としては機能しなかった
数の少ない
ギリシア人も犠牲
彼らの耕地は
「農業の集団化(コルホーズ)」
の過程で取り上げられ
金銭的補償は与えられなかった
自治共和国の主体民族ではなかったギリシア人は
資本主義国家であるギリシアと
関係が深い「反革命的」民族と疑われ
ギリシア語学校は閉鎖され独自文化が抑圧された
クリミアは
1921年
1932年
ホロドモール
と2度の深刻な飢饉
1930年代
ソビエトの地域開発計画に基づき
スラブ系人口の大幅な増加
住民構成の変化は
地域の民族間バランスを根本的に変容
↓↑
第二次世界大戦
クリミアは独ソ戦の激戦地の一つ
東ヨーロッパの
スラブ人を駆逐し
ドイツ人を植民する
東部総合計画に基づき
ナチス・ドイツは
東方生存圏の一部として
クリミア半島を征服、植民
1941年夏
クリミア占領の
「ドイツ第11軍」
は
クリミア半島を
ソ連本土と結ぶ
ペレコープ地峡に迫り多大な犠牲を出した
ドイツ軍は
半島のほぼ全域を制圧し(トラッペンヤクト作戦)
セヴァストポリを残すのみとなった
赤軍は戦死または捕虜となった17万人の兵員を失い
3個軍団(第44、47、51軍)
21個師団が壊滅
↓↑
クリミア
「ヤルタ会談」
ウィンストン・チャーチル
フランクリン・ルーズベルト
ヨシフ・スターリン
↓↑
「セヴァストポリ包囲戦」
1941年10月~1942年7月3日に陥落
クリミア全域を支配したドイツは
1942年9月1日
クリミア行政地区を設置
地区行政委員に
「アルフレート・エドゥアルト・フラウエンフェルト」
を任命し
ウクライナの国家弁務官の下においた
クリミアには
「アインザッツグルッペンが」派兵
多くのユダヤ人を虐殺
クリムチャク人は
人口の75%が殺された
↓↑
ナチス・ドイツ
の戦略と
ルーマニア軍
イタリア軍
による支援にもかかわらず
クリミアの山間部には
地元レジスタンス(パルチザン)が篭る要害が
半島が解放されるまで未占領のまま抵抗
1944年
赤軍はペレコープ地峡を封鎖
クリミア攻略開始
ドイツ軍は敗北
セヴァストポリまでソ連に奪還されたが
セヴァストポリの都市機能は完全に破壊された
↓↑
独ソ戦末期
1945年2月
第二次世界大戦の
戦後処理を決定した
「ヤルタ会談」が
クリミア半島の
「ヤルタ」で開催
↓↑
クリミア・タタール人の追放
クリミア解放直後の
1944年5月18日
スターリンのソ連政府
クリミア・タタール人の全員を
中央アジアへと強制移住
追放は
ナチス・ドイツの占領軍に
協力した者がいたことを理由に
民族ぐるみの制裁として行われ
移住の過程で
タタール人のおよそ半数に当たる
10万人が飢えと病気で命を落とした
1944年6月26日
アルメニア人
ブルガリア人
ギリシア人
も同様に中央アジアへ追放
独ソ戦初期
すでに追放されていた
クリミア・ドイツ人
も含めて
1944年夏までに
クリミアにおける
「民族浄化」が完遂
スターリン死後も彼らの帰還は認められず
1967年
民族の権利が回復され少数の家族が
クリミアに戻ることを許されたが
本格的な帰還は
ソ連末期まで法的に禁止されていた
1945年6月30日
クリミア自治ソビエト社会主義共和国廃止
クリミア州が設置
↓↑
第二次世界大戦後
1954年2月19日
ソビエト連邦最高会議幹部会
クリミア州を
ロシアから
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管する決定
この決定はウクライナ出身の
「ニキータ・フルシチョフ」
↓↑
戦後
新たに旅行者向けの
アトラクション
保養所
が開発され、観光地になった
1989年
160万人のロシア人
62万6000人のウクライナ人
が半島に居住
↓↑
ソ連崩壊
ウクライナ独立
1991年
「ペレストロイカ」開始後
クリミア・タタール人の帰還運動
ソ連中央政府は委員会において
タタール人のための
自治共和国を再興する要求を
1988年に却下したが
1991年1月20日
クリミア州住民による住民投票が実施
2月12日
ウクライナ議会によって
クリミア自治ソビエト社会主義共和国
再建
↓↑
1991年8月19日
「ソ連8月クーデター」
クリミア半島
フォロスの別荘で休暇中の
「ミハイル・ゴルバチョフ」
大統領が軟禁
クーデターの失敗により
ソ連崩壊が早まり
8月24日
ウクライナ議会は独立宣言を採択
12月1日
ウクライナの完全独立の是非を問う住民投票が行われ
ロシア系住民が過半数を占める
クリミアでも有効投票の過半数となる
54%が賛成票を投じた
12月25日
「ゴルバチョフ」
大統領を辞任
クリミアは完全独立の
ウクライナの一部となった
↓↑
クリミア自治共和国
1992年~
ウクライナは
クリミアに自治共和国を復活させ
クリミア・タタール人の帰還が許可され
クリミアの全人口の約1割を占めた
↓↑
1992年5月5日
クリミア議会はウクライナからの独立を決議
クリミア共和国を宣言
ウクライナ議会は
5月15日
独立無効を決議
黒海艦隊の基地として
ロシアは独立を支持
5月21日
クリミアのウクライナ移管を定めた
1954年の決定は違法とする議会決議
ロシアから
独立宣言したチェチェン共和国に対し
1994年にロシアが武力鎮圧を開始
自国からのチェチェンの独立を禁圧しながら
ウクライナからの
クリミアの独立を支持するのは
自己矛盾であるとの国際的批判
ロシアは
クリミア独立運動への支援を取りやめた
↓↑
クリミアの自治権
1996年に制定されたウクライナの現行憲法で再確認され
クリミア自治共和国の設置が規定されたが
同時にクリミア半島は
「ウクライナの不可分な構成部分」
とされ、自治共和国の離脱権は否定された
1998年
ウクライナ憲法の枠内で
クリミア自治共和国憲法が制定された
↓↑
ロシアによる
クリミア併合宣言
2014年
キエフにおける騒乱
ロシアのクリミア侵攻
クリミアの帰属問題再燃
↓↑
3月11日
クリミア自治共和国最高会議(議会)
セヴァストポリ特別市評議会(市議会)
は、クリミアおよびセヴァストポリ独立宣言を採択
ウクライナからの一方的な独立を求めた
16日
ロシアと親ロシア派の
監視下のもと実施された住民投票では
ロシア編入が多数派となり
17日
クリミア自治共和国
が
セヴァストポリを特別都市として
包括したクリミア共和国として独立
ロシアへの編入を求める決議を議会が行った
3月18日
ロシア連邦大統領
「ウラジーミル・プーチン」
クリミア併合を宣言
クリミア・セヴァストポリの代表との編入条約に署名
↓↑
ロシア実効支配下で
ロシア連邦政府は
クリミアで軍事施設を再開・増設
クリミア・タタール人らを弾圧
↓↑
ロシア連邦政府は
クリミアの東側にある
ケルチ海峡に
クリミア大橋をかけて
ロシアとの人・物資の往来をしやすくしたが
クリミアでの民生に支障
北クリミア運河を経由して
ウクライナ本土から供給されていた水が不足し
地下水の過剰汲み上げによる塩害が発生
軍用道路や住宅の建設のため
自然保護区域が破壊されている
↓↑
2022年2月24日
ロシア連邦軍が
クリミアから
ウクライナ本土南部に攻撃・進軍
ウクライナ東部のロシア側支配地域
と
クリミアをつなぐ
アゾフ海北岸の回廊を確保したと主張
↓↑
ーーーーー
・・・???・・・
↓↑ ↓↑
移転したボクの「HP」の(中途半端な)目次
ボクの動画・YouTube
「プラトン古事記をカタル」は少しづつ移転
「プラトン古事記をカタル」+「表紙・画像・音楽」
本日の「干支歴」