・イヤァ~ッ、「ハシモト叩き」をしている「TV」、「新聞」、「ブログ」は「ハシモトシチョウ」の「論理・理屈」を「問題」にせず、自分自身の「言辞」を「シチョウのコトバ」の揚げ足をトリ、本質を「歪曲・曲解」して、「自己弁護」にタイヘンである・・・
「ハシモト叩き」・・・本日、朝の、「ミノモンタ」に出ていた「マイニチ新聞」に関係する「男」のドコに「正当性」があるんだか、「感情むき出し」の「自分自身の立場」をワキマエナイ輩であるなッ。もちろん、「マイニチ」は「大誤報」ではなく、「5W」の「主語」を欠落させ「大曲解」をバラマイタのである・・・加えて「シチョウの文章」に記された「弁明」は「イイワケ・つくろい」ではなく、「5W」を「弁えて明らか」にした「論理=信念・信条」である。「心情」ではない。
「報道」の事実、「5W+1H」の「5W」は「心情」、「感情」抜きの「論理」が鉄則で、この場合の「客観性」の材料は「5W」=「表明されたコトバ=文字文章=論理」である。
「観想」は、「1H」の部類である。そして、ドイツ国家がこうした、フランス国家がこうした、アメリカ国家がこうした、云った、云わなかった、でもない。「5W」を踏まえたこの「1H」に類する「論説、社説、評論・観想・罵倒」は「自由」である。
「シチョウ」は「国家主義(?)」を立場にして「国家間の国際主義の反省」を促してはいないか?・・・これを「イイツクロイ」だとは、お前たちの論理、理屈はナンだ・・・立場は「幇間」だろう。だが、ダレのタメの「幇間」か?・・・
新聞記事、番組紹介のTVタイトルの「大文字、中文字見出し=タイトル」は「記事内容」と裏腹に「意図的に誤解」へと誘導する「煽動文字」である・・・もちろん、「ウランがタメ」の「拝金手段」である。コトバを「商売」としているんだから・・・
「国家主義者(?)」への「論理・理屈」批判、非難は、その根拠である「民主主義者(?)の立場」の「論理・理屈」でコタエろッ、自分自身の「民主主義づら」を明らかにする「立場」をハッキリさせてからモノを云え・・・どうせ、「日本(国?)憲法」を蔑ろにした「国家の枠内での民主主義」でしかないだろう・・・「自分自身の自己弁護主義?」・・・
イト、「真っ暗の総氏」連中、憐中である・・・かな・・・
ヒマだったら、以下へ・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kotukaron/kotukam.htm
御渡来・・・
ーーーーー
枕草子
(四〇段)・・・四拾段・四十段・40段・四拾・肆足段
4+0=4=四(口八)=肆(镸聿・長聿)
4×0=0=零(雨令)
藏人(くろうど)
おりたる人、
昔は、
御前など
いふこと
も
せず、
その年
ばかり、
内裏
あたり
に
は、
まして
影も
見えざり
ける。
今は
さし
も
あらざめる。
藏人の
五位とて、
それ
をしもぞ
忙しう
つかへど、
なほ
名殘
つれづれにて、
心一つは
暇ある
心地ぞ
すべ
かめ
れ
ば、
さやうの
所に
急ぎ
行くを、
一たび
二たび
聞き
そめ
つれば、
常に
まうで
ま
ほしく
なりて、
夏などの
いと
あつき
にも、
帷子
いと
あざやかに、
薄
二藍、
青鈍の
指貫など
ふみ
ちらして
ゐた
めり。
烏
帽子
に
もの
忌つけ
たる
は、
今日
さる
べき
日
なれど、
功徳の
かたには
さはらずと
見えん
と
にや。
いそぎ來てその事するひじりと物語して、車たつるさへぞ見いれ、ことにつきたるけしきなる。久しく逢はざりける人などの、まうで逢ひたる、めづらしがりて、
近くゐより物語し、
うなづき、
をかしき事など
語り出でて、
扇ひろうひろげて、
口にあてて
笑ひ、
裝束したる
珠數
かいまさぐり、
手まさぐりにし、
こなた
かなた
うち
見やり
など
して、
車の
よし
あし
ほめ
そしり、
なにがしにて
その人
のせし
八講、
經
供養
など
いひ
くらべ
ゐたる
ほどに、
この
説經の事も
きき入れず。
なにかは、
常に
聞くこと
なれば、
耳
馴れて、
めづらしう
覺えぬ
に
こそ
は
あらめ。
さはあらで
講師ゐて
しばし
あるほどに、
さき
すこし
おはする
車
とどめて
おるる
人、
蝉の羽よりも
輕げなる
直衣、
指貫、
すずしの
ひとへなど
著たるも、
狩衣
姿にても、
さやう
にては
若く
ほそやかなる
三四人ばかり、
侍のもの
又
さばかりして
入れば、
もと
ゐたり
つる
人も、
少し
うち
身じろき
くつろぎて、
高座のもと
近き
柱のもと
などに
すゑたれば、
さすがに
珠數
おし
もみ
などして、
伏し
拜み
ゐたるを、
講師も
はえ
ばえしう
思ふ
なるべし、
いかで
語り
傳ふ
ばかりと
説き
出でたる、
聽問す
など、
立ち
騒ぎ
ぬかづく
ほどにも
なくて、
よき
ほど
にて
立ち
出づとて、
車どもの
かたなど
見
おこせて、
われ
どち
いふ事も
何事
ならんと
覺ゆ。
見知りたる
人をば、
をかしと思ひ、
見知らぬは、
誰
ならん、
それにや
彼にやと、
目をつけて
思ひやらるる
こそ
をかしけれ。
説經しつ、
八講
し
けり
など
人
いひ
傳
ふる
に、
「その人は
ありつや」
「いかがは」など
定りて
いはれ
た
る、
あまり
なり。
などかは
無下に
さし
のぞか
では
あらん。
あやしき
女
だに、
いみじく
聞く
めるものをば。
されば
とて、
はじめ
つ
かたは
徒歩する
人は
な
かり
き。
たまさか
に
は、
つぼ
裝束など
ばかり
して、
なま
め
き
けさう
じて
こそ
あり
しか。
それも
物詣をぞせし。
説經などは
殊に多くも
聞かざりき。
この頃
その折
さし出で
たる人の、
命
長くて
見ま
しかば、
いかばかり
そしり
誹謗
せまし。
ーーーーーー
・・・いと、いかばかり、そしり、誹謗、せまし・・・
「ハシモト叩き」・・・本日、朝の、「ミノモンタ」に出ていた「マイニチ新聞」に関係する「男」のドコに「正当性」があるんだか、「感情むき出し」の「自分自身の立場」をワキマエナイ輩であるなッ。もちろん、「マイニチ」は「大誤報」ではなく、「5W」の「主語」を欠落させ「大曲解」をバラマイタのである・・・加えて「シチョウの文章」に記された「弁明」は「イイワケ・つくろい」ではなく、「5W」を「弁えて明らか」にした「論理=信念・信条」である。「心情」ではない。
「報道」の事実、「5W+1H」の「5W」は「心情」、「感情」抜きの「論理」が鉄則で、この場合の「客観性」の材料は「5W」=「表明されたコトバ=文字文章=論理」である。
「観想」は、「1H」の部類である。そして、ドイツ国家がこうした、フランス国家がこうした、アメリカ国家がこうした、云った、云わなかった、でもない。「5W」を踏まえたこの「1H」に類する「論説、社説、評論・観想・罵倒」は「自由」である。
「シチョウ」は「国家主義(?)」を立場にして「国家間の国際主義の反省」を促してはいないか?・・・これを「イイツクロイ」だとは、お前たちの論理、理屈はナンだ・・・立場は「幇間」だろう。だが、ダレのタメの「幇間」か?・・・
新聞記事、番組紹介のTVタイトルの「大文字、中文字見出し=タイトル」は「記事内容」と裏腹に「意図的に誤解」へと誘導する「煽動文字」である・・・もちろん、「ウランがタメ」の「拝金手段」である。コトバを「商売」としているんだから・・・
「国家主義者(?)」への「論理・理屈」批判、非難は、その根拠である「民主主義者(?)の立場」の「論理・理屈」でコタエろッ、自分自身の「民主主義づら」を明らかにする「立場」をハッキリさせてからモノを云え・・・どうせ、「日本(国?)憲法」を蔑ろにした「国家の枠内での民主主義」でしかないだろう・・・「自分自身の自己弁護主義?」・・・
イト、「真っ暗の総氏」連中、憐中である・・・かな・・・
ヒマだったら、以下へ・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kotukaron/kotukam.htm
御渡来・・・
ーーーーー
枕草子
(四〇段)・・・四拾段・四十段・40段・四拾・肆足段
4+0=4=四(口八)=肆(镸聿・長聿)
4×0=0=零(雨令)
藏人(くろうど)
おりたる人、
昔は、
御前など
いふこと
も
せず、
その年
ばかり、
内裏
あたり
に
は、
まして
影も
見えざり
ける。
今は
さし
も
あらざめる。
藏人の
五位とて、
それ
をしもぞ
忙しう
つかへど、
なほ
名殘
つれづれにて、
心一つは
暇ある
心地ぞ
すべ
かめ
れ
ば、
さやうの
所に
急ぎ
行くを、
一たび
二たび
聞き
そめ
つれば、
常に
まうで
ま
ほしく
なりて、
夏などの
いと
あつき
にも、
帷子
いと
あざやかに、
薄
二藍、
青鈍の
指貫など
ふみ
ちらして
ゐた
めり。
烏
帽子
に
もの
忌つけ
たる
は、
今日
さる
べき
日
なれど、
功徳の
かたには
さはらずと
見えん
と
にや。
いそぎ來てその事するひじりと物語して、車たつるさへぞ見いれ、ことにつきたるけしきなる。久しく逢はざりける人などの、まうで逢ひたる、めづらしがりて、
近くゐより物語し、
うなづき、
をかしき事など
語り出でて、
扇ひろうひろげて、
口にあてて
笑ひ、
裝束したる
珠數
かいまさぐり、
手まさぐりにし、
こなた
かなた
うち
見やり
など
して、
車の
よし
あし
ほめ
そしり、
なにがしにて
その人
のせし
八講、
經
供養
など
いひ
くらべ
ゐたる
ほどに、
この
説經の事も
きき入れず。
なにかは、
常に
聞くこと
なれば、
耳
馴れて、
めづらしう
覺えぬ
に
こそ
は
あらめ。
さはあらで
講師ゐて
しばし
あるほどに、
さき
すこし
おはする
車
とどめて
おるる
人、
蝉の羽よりも
輕げなる
直衣、
指貫、
すずしの
ひとへなど
著たるも、
狩衣
姿にても、
さやう
にては
若く
ほそやかなる
三四人ばかり、
侍のもの
又
さばかりして
入れば、
もと
ゐたり
つる
人も、
少し
うち
身じろき
くつろぎて、
高座のもと
近き
柱のもと
などに
すゑたれば、
さすがに
珠數
おし
もみ
などして、
伏し
拜み
ゐたるを、
講師も
はえ
ばえしう
思ふ
なるべし、
いかで
語り
傳ふ
ばかりと
説き
出でたる、
聽問す
など、
立ち
騒ぎ
ぬかづく
ほどにも
なくて、
よき
ほど
にて
立ち
出づとて、
車どもの
かたなど
見
おこせて、
われ
どち
いふ事も
何事
ならんと
覺ゆ。
見知りたる
人をば、
をかしと思ひ、
見知らぬは、
誰
ならん、
それにや
彼にやと、
目をつけて
思ひやらるる
こそ
をかしけれ。
説經しつ、
八講
し
けり
など
人
いひ
傳
ふる
に、
「その人は
ありつや」
「いかがは」など
定りて
いはれ
た
る、
あまり
なり。
などかは
無下に
さし
のぞか
では
あらん。
あやしき
女
だに、
いみじく
聞く
めるものをば。
されば
とて、
はじめ
つ
かたは
徒歩する
人は
な
かり
き。
たまさか
に
は、
つぼ
裝束など
ばかり
して、
なま
め
き
けさう
じて
こそ
あり
しか。
それも
物詣をぞせし。
説經などは
殊に多くも
聞かざりき。
この頃
その折
さし出で
たる人の、
命
長くて
見ま
しかば、
いかばかり
そしり
誹謗
せまし。
ーーーーーー
・・・いと、いかばかり、そしり、誹謗、せまし・・・