・・・「鶴の恩返し(夕鶴)」、「雀の恩返し・舌切り雀」・・・「恩返し=おんがえし=音反し=反響・こだま(木霊・echo・木魂)・やまびこ(山彦)」・・・阿倍に阿(おもねる)永田町・・・イナダ崩靡?、自衛隊法61条違反・・・「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」・・・シモムラ剥文?、違法献金疑惑・・・「博友 会が同学園から200万円献金」・・・?・・・「除喩烏罠衆」党・・・?・・・「自由罠主」党・・・なるほど・・・
ーーーーー
異床異夢・・・安倍仲麻呂&安倍皇女(称徳、孝謙天皇)
乳離れした親子
モノ心ついた兄弟姉妹
市民個々人のAmbitious
異床慟夢・・・片思いの男女
ロミオ&ジュリエット
おさん&小春
同床同夢・・・去年まではモモちゃんだった・・・
聖母と子・爺婆と孫
紙屋治兵衛&と遊女小春(心中天網島)
蘇我馬子&炊屋姫(推古天皇)
石舞台古墳=馬子の桃原墓
(奈良県明日香村島之庄)
堂床童夢・・・聖徳太子(厩戸皇子)&蘇我馬子
上宮王院夢殿=八角堂
天平十一年(739)頃
行信の創建
本尊は救世観音
同床異夢・・・恋人・愛人・夫婦
遊女&男
銅床慟夢・・・田中正造&鉱山労働者
銅山&渡良瀬川の鮎の大量死
銅床働夢・・・古川市兵衛&鉱山労働者
足尾銅山(栃木県上都賀郡足尾町・日光市足尾)
銅床道夢・・・陸奥(みちのく・松尾芭蕉)の道夢
銅床導夢・・・和銅五年一月二十八日
↓↑ 和同開珎-鋳造=チュウゾウ=忠蔵・忠造
↓↑ 則天武后(武照)&元明天皇(阿閇皇女)
(阿閉皇女)
閇=閉=とじる・とざす・しめる・しまる
ヘイ=出入り口を閉じる・隙間なく塞ぐ
閉口・閉鎖・閉塞・閉門・開閉
密閉・幽閉
おしまい
閉会・閉校・閉山・閉店・閉幕
・・・「阿閇=阿閉」とは何か?
「阿毎=阿倍」王朝の閉幕だろう・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
元明天皇=(661~721)
第四十三代天皇(在位707~715)
名は
日 本 根子天 津御代豊 国 成 姫
(やまと ねこ あまつみよとよくになりひめ)
豐 國(圀)
似 本 今史天 秦音代報 告 正 規
転 進 上記・条規
↓↑
安閇(あべ)
天智天皇の皇女
母は
蘇我倉山田石川麻呂の娘
草壁皇子の妃
子は
文武(輕瑠皇子)
元正(氷高皇女)
吉備内親王(長屋王の妻)
↓↑
和同開珎鋳造
平城遷都
「古事記・・・711年(和銅四)9月18日
太安万侶(安麻呂)に詔し
稗田阿礼の誦みを筆録献上を命じた
筆録し三巻の書物とし
712(和銅五)年一月二十八日奏上」
712年辛亥(戊・甲・壬)
001月辛丑(癸・辛・己)偏印
028日癸丑(癸・辛・己)
「風土記」の編纂
「日本書紀・720(養老四)年5月21日癸酉」
720年庚申(己・壬・庚)
005月辛巳(戊・庚・丙)
021日戊子(壬・ ・癸)
↓↑ ↓↑ ↓↑
元正天皇
天武天皇九年
(680年)
~
天平二十年四月二十一日
(748年5月22日)
第四十四代天皇
在位、
霊亀元年九月二日
レイキ=零紀・例記・麗記・例規?
(715年10月3日)
~
養老八年二月四日
(724年3月3日)
父は草壁皇子
母は元明天皇
名は
氷高=ひたか・ヒョウコウ=標高
=日高
新家(にいのみ)
和風諱号
日 本根子高 瑞 浄-足-姫天皇
(やまとねこたかみずきよ
↓↑ たらしひめ)
↓↑ 似知本金氏交譚条則記転向?
ー↓↑ーーー
「長孫無忌」の名前の「?」
↓↑
和気清麻呂(わけ の きよまろ)
磐梨別乎麻呂・・・・・磐=般+石
(平麻呂)の子・・梨=利+木
↓↑ 別=叧(另)+リ(刀)
乎=に・を・より・よぶ・コ・ウ
場所・時間・目的・比較
語調を強める助字
「確乎・断乎」
=か・や・かな
疑問・反語・仮定・詠嘆の助字
どうして・・・か?
ああ、スゴイと感嘆する語
「よぶ=呼」
確乎・儼乎(ゲンコ)・純乎・断乎
炳乎(ヘイコ)・茫乎・凜乎(リンコ)
牢乎(ロウコ)
「乎」の変形が片仮名の「ヲ」
須佐能乎命=須佐之男=須佐乃袁
須佐能袁
素戔男=素戔嗚
「乎」麻呂→「平」麻呂
・・・「乎」を「平」にしている所が「?」で
怪しい・・・
↓↑ 麻=萬・万・・・麿
↓↑ 呂=音率のロ・・麿
氏姓は当初
磐梨別公(いわなしわけのきみ)・・・磐の梨の別の公
藤野(輔治能)真人・・・輔(たすけ)の治(おさむ)の能力
↓↑ 輔佐・輔弼(ホヒツ)
輔=すけ=律令制の省の第二等官
↓↑ 書きかえ
「補」が書きかえ字
匡輔・公輔・宰輔・左輔
師輔
輔(たす)ける
救助する(危険から援ける、救う)
車の添え木
重い荷を積んだ車輪の補強の木
荷が落ちないように
車の両側に付ける板=輔車
頬骨(ほおぼね)=輔車
顎(あご)=上顎=輔車
すけ(省の第二等の官
↓↑ 長官の次の官・次官)
和気宿禰
和気朝臣
官位は
従三位・民部卿
贈正三位、正一位
↓↑
「和気-清麻呂」・・・「訳(わけ)の記与のマの呂」?
は
称徳、孝謙天皇に
「別 部 穢 麻呂
別=わける・ベツ
部=ぶ・べ・バイ
穢=禾+歳=きたない=汚
=よごれ=汚れ・汙れ
(わけべ の きたなまろ)」
と改名されて
大隅国(鹿児島県)に流罪
女帝死後
清麻呂は
桓武朝・・・桓武天皇(天平九年・737年
↓↑ ~
延暦二十五年三月十七日
806年4月9日)
第五十代天皇(在位
天応元年四月三日
781年4月30日
~
延暦二十五年三月十七日
806年4月9日)
↓↑ 名=山部(やまのべ・サンブ・サンベ)
日 本根子皇統 弥 照 尊
(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)
「山」は
「足曳き・足を引き・あしびき・アシヒキ」
に掛かる枕詞
足を引いて喘(あえ)ぎつつ登る意
山すそを長く引く意など
「足日木乃 山鳥之尾乃
四垂尾之 長永夜乎
一鴨將宿
(万葉仮名)
↓↑ ↓↑ ↓↑
あしびきの 山鳥の尾の
しだり尾の ながながし夜を
ひとりかもねむ・・・?
(柿本人麻呂・拾遺集・恋三・七七三)
↓↑
「足引之 山河之瀬之
響苗尓 弓月高
雲立渡」
↓↑ ↓↑ ↓↑
あしひきの 山川の瀬の
鳴るなへに 弓月が獄に
雲立ち渡る・・・?
(柿本人麻呂・万葉集巻七・六番)
柿本人丸とも」
↓↑ ↓↑ ↓↑
「かき=柿=木+市(いち・シ・亠+巾)」の類字は
「こけら=杮=木+市(まえかけ・ふつ・十+冂」
「徐福(ジョフク)=徐芾
=徐市(ジョフツ)→市」
「こけら(杮)」は
「木屑(きくず)、鉋屑(かんなくず)
柾(まさ)葺き屋根の欠片(かけら)
柾(まさ・まさき)は国字
屋根葺きの屑」である・・・
「こけら落とし」とは
↓↑ 建築物完成時の
屑(煤)掃(払)いデアル・・・
・・・なるほど、
「経津-主(フツ-ヌシ)=布津-主」ですか?
↓↑
「ヘツ-あるじ」では・・・or「払-主」
↓↑ 「布袋(ほてい)様」
「キョウシン=教信・共振・狂信・強震」の主?
↓↑ ↓↑ ↓↑
「割烹着=エプロン=前掛け=市(一巾・十冂)」は
調理人(膳部・高橋)か、
醫(くすし・医者)・薬剤師・土師
が汚れを防ぐ為に着けるだろう・・・
「膳部=かしわべ=柏部=栢部=鶏肉部」
↓↑ ↓↑ ↓↑
で、
「あしびき」だったが、万葉仮名では
「安之比奇=足日木=足引=足桧木=足曳」
↓↑ ↓↑
「足入れ
婚姻成立の祝いを婿方ですませた後
ある期間は夫婦の寝所を嫁方に置き
その後、妻が夫の家に移る婚姻形式
↓↑
婚姻の正式の披露をあとまわしにし
先に嫁が婿方の家に入ること
正式の婚姻成立祝いを待たず
仮の祝儀後、女性が夫の家族に入る婚姻
↓↑
あしいれ=カドイレ=シキマタギ
農家の結婚式は
農閑期の冬に行われ
嫁が労働力として
冬まで待てない時に
足入れ婚が行われた
嫁が夫方に試験的に同居し適応性が
あるかないかのお試し期間
↓↑
婚姻成立祝いだけで
嫁は実家に帰り
婿が泊まりに通う
妻問い婚を一定期間とり、後に
嫁が婿方の家へ移り住む
内祝言の後、
嫁が婿方に移り住む風習」
・・・じゃぁ、
「あしびき」とは「あしいれ」
が拒否され、出戻った
あるいは、
嫁が主体的に拒否し、出戻った
ってコトか?
・・・理由は・・・
「石女=うまずめ」か、「病弱女」だった?
あるいは逆の
「藁(ワラ)の男=案山子
=やくたたず=木偶」か、
「病弱男」だった
「旧約聖書」ではイサクの子、
「ヤコブ」の話し・・・狡(ずる)賢い者が
権力と
富を得る・・・?
母親は狡猾な子を愛する?
イサクの妻
リベカの兄で、
ヤコブの伯父
ラバンが・・・ラバン=白の意
ヤコブを・・・ヤコブ=踵(かかと)を捉える者
押しのける者」
7+7=14年間タダ働きさせたハナし
イサクの家で、
双子の
兄エサウと弟ヤコブが争い
ヤコブが母、リベカの策謀で
長子の権利を得たが
兄エサウは怒った
母、リベカはエサウの怒りを怖れ
ヤコブを
ラバンのもとに逃亡させる
そこでイサクは
ラバンの娘
ラケル・・・・後にラケルはヨセフを産んだ
に恋をした
ラバンはラケルとの結婚条件として
七年間の無償労働を要求し
七年間の後に偽って、
別なラケルの姉
レアと結婚させた
ヤコブは抗議したが、
ラケルとの結婚条件として
更に
七年間の労働を要求された
ヤコブは約束を果たし
ラケルと結ばれ
更にラバンの下で働くコトを要求され
富を得た後
ラバンから
自分の財産と全家族をつれて逃亡
後、ヤコブを追ってきたラバンと和解
ラバンの提案で
「石の柱」を立てて、
契約(和解、平和条約?)を結び、
帰郷の途中、
天使と「相撲」をし、
股関節をイタメ
足を挫かれて跛になったが
「神と闘った者=イスラエル」
と云う名を与えられた
兄のエサウとも和解しメデタク帰郷・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
で、婿養子として
拒否された男は・・・「須佐之男」
or
「天之日矛=日桙=天日槍命
天日桙命=海檜槍」で
「阿加流比売=倭人・日本人←阿毎の姫?」
にフラれた・・・比売(姫)は
難波へ向い
難波の比売碁曾(ひめごそ)社の祭神となった
↓↑ ↓↑ ↓↑
「新羅(前57年~935年)
朝鮮半島南東部にあった国」の皇子
「新羅」=503年に正式国号
新羅、高句麗、百済が鼎立
7世紀中ごろ朝鮮半島統一
内乱や飢饉で弱体化させ
「高麗」に降伏し、滅亡した・・・
高麗王朝
↓↑ ↓↑ ↓↑
高麗(918年~1392年)
918年
王建(太祖)が建国
936年に朝鮮半島の
後三国を統一
1392年の
李氏朝鮮建国まで続いた
首都は開京
高麗の領土は
朝鮮半島
元山市や 鴨緑江まで
高麗(Korea・Corée)の文物
高麗青磁
高麗八萬大蔵経
等
1234年
銅活字の
青銅製の活字が作られ
1377年
直指心体要節
世界最古の
金属活字での出版
↓↑ ↓↑ ↓↑
弓裔(キュウエイ)
後三国時代の群雄
後高句麗の建国者
姓は金→金王朝=清国=女真(女直)→鮮卑
=燕王朝=渤海=満州=高句麗→高麗
↓↑ ↓↑ 愛新覚羅
(アイシンギョロ)
↓↑ ↓↑ アイシンカクラ・・・阿意晋掛句等?
僧号は善宗
隻眼で
一目大王・・・天目一箇神=一目連神=一目一足
天目山=元は木賊山(とくさやま)
山梨県甲州市
大和町木賊
大和町田野
にある峠の山
天正十年三月十一日
(1582年4月3日)
武田勝頼の滅亡の地
棲雲寺(栖雲寺)がある
=浙江省北西部、安徽省との
省境付近を南西~北東方向に
走る山地・東天目山と西天目山
最高点は西天目山の竜王山
唐傘小僧=傘(からかさ)の妖怪
唐傘一本足のお化け
江戸時代以後に登場・・・
アメ(雨)の降らない時は閉じる
の別称・・・・一ツ目小僧=唐傘の一目一足になる
天目茶碗=中国宋代に浙江省
天目山の禅院で使用され
福建省建陽県水吉鎮の建窯などで
造られた鉄質黒釉の茶碗
新羅の
第47代憲安王
或いは
48代景文王(憲安王の婿)
の側室の子・・・
↓↑ 901年
自らを王を称し
後高句麗を建国
開城に遷都
国号を高句麗とし
904年
国号を
摩震(摩訶震旦の略)に改め
年号を
武泰と定めた
905年
鉄円(江原道鉄原郡)に遷都
911年
国号を
泰封に改め
年号を
水徳万歳
と定めた
弓裔は自らを
弥勒菩薩と自称
918年
「易姓革命」で
侍中であり有力な部下であった
王建に追放され、殺害された・・・
王建(太祖)が
高麗王朝を建国し
936年に朝鮮半島の
後三国を統一
↓↑ ↓↑ ↓↑
「烏桓=烏丸=鴉満留←高句麗←金(満州)
↓↑
女真(ジュルチン)←渤海国(靺鞨族)
渤海滅亡後、遼王朝に服属
↓↑
「三本足のカラス」?
それでも
案山子は「藁で束ねても男は男」→腐ってもタイ?
・・・寝言を云っている間にタイを喰って腹痛?
↓↑ ↓↑ ↓↑
足=あし・たり・ソク=葦(蘆)・垂り・促(即)
脚肢・多利・速則
足=頭領・大王・天皇・盗賊の首領
・・・鎌足=金を兼ねる足(たり)?
↓↑ ↓↑ ↓↑
「足=たらし=垂し・あし=阿史=阿毎」
第六代孝安天皇
日本-足-彦国押人
(やまとたらしひこくにおしひと)
第十二代景行天皇
大-足-彦忍代別
(おおたらしひこおしろわけ)
第十三代成務天皇
稚-足-彦
(わかたらしひこ)
第十四代仲哀天皇
足-仲彦
(たらしなかつひこ)
↓↑
足羽山(あすわやま)の
第二十六代継体天皇・・・足柄山の金太郎?
男大迹王
(をほどのおおきみ)
↓↑
第三十四代舒明天皇
息長-足-日広額
(おきながたらしひひろぬか)
第三十五代=三十七代
皇極天皇=斉明天皇
天豊財重日-足-姫
(あめとよたからいかしひたらしひめ)
↓↑ ↓↑
桓武天皇・・・桓=marking post
↓↑ たけしい・めぐる・うれえる
カン・ガン
=郵亭(宿場)のしるしとして
宿場の周りにたてた木
棺を墓穴に降ろすため四隅に立てる柱
烏桓(呉音:ウガン・漢音:オカン
拼音: Wūhuán)
=紀元前1世紀~紀元後3世紀
中国北部(内モンゴル自治区)
に存在し民族
↓↑ 「烏丸」とも表記
光仁天皇の第一皇子
794年平安京に遷都
↓↑ 坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方に派遣
で実務官僚
山背国葛野郡宇太村
を選んで
平安遷都の建設を進言し
延暦十二年(793年)
造営大夫
↓↑
備前国
藤野郡(岡山県和気町)出身
神護景雲三年(769年)七月頃
宇佐の神官を兼ねていた
大宰府の主神(かんつかさ)
中 臣 習宜 阿曾麻呂
(なかとみのすげのあそまろ)
が宇佐八幡神の神託として、
天皇が寵愛を与えていた
道鏡を皇位に就かせれば
天下太平になると
称徳天皇へ奏上
道鏡はこれを信じ
皇位に就くことを望む
↓↑
称徳天皇は側近の尼僧
和気広虫(法均尼)・・・和気の広い虫(むし)
訳 のマダレのムの中のム?
を召そうとしたが、
虚弱な法均では
長旅は堪えられぬため、
弟の清麻呂を召し、
姉に代わって
宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる
清麻呂は天皇の勅使として八幡宮に参宮
宝物を奉り宣命の文を読もうとした時
神が禰宜の
辛 嶋 勝 与曽女・・・・・よそ目=余所目
(からしまのすぐりよそめ)
よそ目=よそから見たところ・はたの見る目
よそみ・余所目をはばかる
よそのことのように見る
傍観する
第三者の目で観る・客観的な目
第三者的視点・客観的視点
世間の目・他者の目・他人の目
他人の視線
に託宣、
宣命を訊くことを拒む・・拒む
清麻呂は不審を抱き、
改めて
与曽女に
宣命を訊くことを願い出て、
与曽女が再び神に顕現を願うと、
身の丈三丈、
9mの僧形の大神が出現し
大神は
再度宣命を
訊くことを拒むが・・・・拒む
清麻呂は
与曽女とともに
大神の神託、・・・・・・拒まれたのだから
「神託」は無かった?
↓↑
「天の日継は必ず
帝の氏を継がしめむ。
無道の人(道鏡)は
宜しく早く掃い除くべし」
↓↑
を朝廷に持ち帰り
称徳天皇へ報告
(宇佐八幡宮神託事件
神護景雲三年(769)九月二十五日)
清麻呂の報告を聞いた
称徳天皇は怒り、
清麻呂を
因幡員外介にいったん左遷
さらに
別 部 穢 麻呂
(わけべ の きたなまろ)
と改名させ
大隅国(鹿児島県)に流刑
神護景雲三年十月一日(769年11月7日)
称徳天皇が詔を発し
道鏡に皇位は継がせないと宣言し
事件が決着した・・・?
↓↑
神護景雲四年(770年)八月
称徳天皇は崩御
道鏡は失脚
清麻呂は
光仁天皇により
従五位下に復位
後、
播磨・豊前の国司を歴任
美作・備前両国の国造に任じられた
延暦四年(785年)
神崎川
と
淀川
を直結させる工事
平安京方面への物流路を確保し
延暦七年(788年)
23万人余を投じ
上町台地を開削し
大和川を直接
大阪湾に流し
水害を防ごうと
工事を行ったが
費用がかさんで失敗
清麻呂は
桓武朝で実務官僚として重用
山背国葛野郡宇太村
を選んで
平安遷都の建設を進言
延暦十二年(793年)
自ら造営大夫として尽力
延暦五年(786年)
民部卿として
民部大輔の
菅野真道
とともに庶政の刷新にあたった
桓武天皇の勅命により
天皇の母
高野新笠・・・「高野の新笠」って名前か?
新笠=立木斤竹立
720年頃生~延暦八年十二月二十八日
(790年1月21日)
父は高野乙継(和乙継)・・・和の乙の継ぎ
母は大枝真妹(土師真妹)・・・大枝=大江
↓↑大江音人は備中権介・大枝本主の嫡男
光仁天皇の宮人、後に夫人
桓武天皇・早良親王・能登内親王の生母
桓武天皇の即位後、皇太夫人
薨去後、贈皇太后、贈太皇太后
諡号は
天高知日之姫尊
の出身氏族
和氏の系譜を編纂・・・「和」氏の系譜とはナニ?→「倭」氏
和氏譜として撰上
子の広世・真綱
らは、父の没後に
官人として活躍
広世は最澄を招聘し
高雄(たかお)の
法華会(ほっけえ)を開き、
天皇へ最澄を斡旋して勅を蒙り、
唐へ留学させ、
五男・真綱と
六男・仲世は
高雄山で
最澄と共に
空海から密教の灌頂を受け
仏法に帰依
姉の
和気広虫(法均尼)・・・和気清麻呂の姉
は夫
葛城戸主(かつらぎのへぬし)
とともに、
孤児救済事業・・・
ーーーーー
・・・???・・・
・・・「邪馬台国は何処にある?」ですか・・・「邪馬台(臺・壹)国」→「都、於、邪靡堆、則、魏志、所謂、邪馬臺、者也(隋書・俀國傳→則天武后が絡んでくるなら漢字は佞圀傳?or侫圀傳?)」・・・「佞(おもねる・へつらう・ニョウ・ネイ)=侫」、「俀(よわい・タイ・ツィ・テ)=イ+妥(やすい・おだやか・タ・ダ)」・・・ボク的にはナゼ「邪靡堆」の漢字を敢て当てたのか?、デス・・・「都、於、邪靡堆」は当時の「隋・唐」では「邪靡堆」の漢字で認識、使用されていた実際の「都」が存在していた?or「日本国」を「則天武后」的に、蔑視、貶める為の蔑称としての「漢字選択」だった?・・・だが、昔の「魏志倭人伝」の記録には敢て、「邪馬臺」と云う漢字が使用されていた場所である、と記述されているのだ・・・「隋書」を編纂した「唐」の「魏徴」であるが、名前が「魏の徴」である。そして問題にしたいのが「長孫無忌」の名前である・・・「長の孫は無し、忌むべし」、「長の孫、忌(いむこと)は無(な)し」か?・・・「禁止されるべき忌むコトが無し」の人物・・・?・・・頻繁に年号を変え、裏切った臣下の名前を蔑称漢字にし、「新漢字創作」に執着した「則天武后」が「隋書」に絡んでいるなら怪しい・・・
称徳孝謙天皇(女帝・阿部)は「和気清麻呂」を「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」の名に変えて大隅国(鹿児島県)に流刑にした・・・
元々、「和気清麿(麻呂)」の氏姓は「磐梨別公(いわなしわけのきみ)」だった・・・後、「藤野(輔治能)真人→和気宿禰→和気朝臣」に改めたらしく、「官位は従三位・民部卿、贈正三位、正一位」・・・
ーーーーー
「隋書・俀国伝(貞観二年・628)」、
「隋書、唐の魏徴」撰
「長孫無忌」も編纂
「長孫無忌(チョウソンムキ)
生年不詳~659年
中国の初唐の政治家」
「唐の
太宗の
長孫皇后の兄
唐王朝の外戚」
「字は輔機(ホキ)」
「本貫は
河南郡洛陽
凌煙閣二十四功臣の第一位
開皇十五(595)年頃に生まれ
顕慶四(659)年七月死没
黔(キン・ケン)州中国・・・黔(くろい・くすむ)=黒+今
唐初の重臣
鮮卑系・・・鮮卑=紀元前3世紀~6世紀
↓↑ 中国北部に存在した
遊牧騎馬民族
五胡十六国時代
南北朝時代に
南下して中国に
↓↑ 北魏などの王朝を建てた
貴族の名門出身
妹は唐の太宗の
文徳皇后
太宗が秦王時代に
兄皇太子
建成・・・・・・・建(たける)成(なり・なす)
と激しく対立した際
その決断を促し、
玄武門・・・・・・玄武(亀+蛇)の門
のクーデターを決行
太宗の元勲となった」
「唐の国史、実録や儀礼、本草、律疏
などの編纂を監修
則天武后
の台頭により
忌まれて・・・長孫無忌の
↓↑ 「忌=キ・いむ・いまわしい
いやなこととして避ける・恐れはばかる
「忌諱 (キキ・キイ) ・忌憚 (キタン)
忌避・禁忌・嫌忌・猜忌 (サイキ) 」
死者の命日
「忌日(キニチ)・遠忌 (オンキ)
年忌(ネンキ)一周忌・桜桃忌・三回忌」
喪に服する期間
「忌中・忌引(キビキ)
忌服 (キブク)・満忌(マンキ) 」
「忌忌 (いまいま) しい」
「忌=いむ」
「信仰から避けるべきコト、モノ」
「嫌う・いやがる・憎(にく)む
許しがたく嫌う」
↓↑ 「親や祖先などの命日(死んだ日)」
「うやまう(尊敬する)」
「いましめる」
「用心する」
「気をつける」
「控え目にする」
「注意する」
「禁止する・忌諱(イキ)」
↓↑ 「過ちを犯さないように叱る」
黔 (ケン) 州
に流され、死没」
「唐朝の元勲
長孫氏は
北魏帝室の支流
父の
長孫晟(セイ)は・・・晟=日+成
=あきら・てる・まさ
ジョウ・セイ
隋の将軍
妹は
唐の太宗の皇后
太宗朝で勲功第一
尚書・門下の二省の長官を兼ね
三公の位に進んだ
立太子問題で
皇后の実子
李治(高宗)を推し
太宗の遺詔によって
高宗を輔政したが
高宗の
則天武后の冊立に反対し
武后派に謀反ありと告発され
黔(ケン)州
(四川省彭水県)に流刑
現地で自殺を強いられた
宰相として
「五代史志・永徽律令」
の編纂を監修した」
「「後漢書・志」は
晋の
司馬彪(シバヒョウ・?~306頃)の
「続漢書・志」
「隋書」のそれは
唐の
長孫無忌(?~659)の
「五代史志」で補われている」
↓↑
・・・「長孫無忌=長(おさ)の孫(まご)無(なし)忌(いむ・己+心)」・・・「長孫無忌」は「古事記始原」の人物かも?・・・
ーー↓↑ーーー
6月27日火曜日
↓↑
NHK教育(ETV)
先人たちの底力 知恵泉
邪馬台国はどこにある?
古代ミステリーを楽しもう
前編
古代史“最大”の謎、
邪馬台国のミステリーを題材に、
歴史の楽しみ方の知恵を探る。
九州説、畿内説、四国説、
さらには
沖縄にある
卑弥呼の海底神殿まで、
想像の翼を広げる。
ーー↓↑ーー
長孫無忌
↓↑
唐朝の元勲・長孫氏は
北魏帝室の支流
父の長孫晟(せい)は
隋の将軍
妹は唐の太宗の皇后
太宗の片腕として活躍し
太宗朝には勲功第一とされた
尚書・門下二省の長官を兼ね
三公の位に進んだ
立太子問題では
皇后(妹)の実子
李治(高宗)を推し
太宗の遺詔によって
高宗を輔政したが
高宗の
則天武后
冊立に反対し
武后派に謀反ありと告発され
黔(ケン)州(四川省彭水県)に流刑
現地で自殺を強いられた
宰相として
《五代史志》
《永徽律令》
の編纂を監修した
↓↑
唐律疏議30巻
長孫無忌らの
奉勅撰
《唐律》12編500条(502条)
の各条にわたって
字句の解釈をほどこすとともに
疑義の生じそうな条には
適用に関する問答を付して
唐代のみならず
中国刑法史
の研究上に重要な書
↓↑
長孫無忌
↓↑
隋の右驍衛将軍
長孫晟
(長孫熾の弟)
の子
長孫氏は
献帝(拓跋鄰)のときに、
その兄を
拔拔(拓跋)氏とし、
後に
漢化して・・・・・・漢字化?
長孫氏に改めた・・・長孫=拓跋・・・
長(おさ)の孫(まご)の開拓、抜擢
北魏の
道武帝・・・・・・・道の武帝
により
宗室の長とされ、
関隴集団中において・・・関隴=武川鎮軍閥
↓↑ 南北朝時代の
西魏・北周
隋・唐
の支配層を形成していた集団
則天武后に
唐王室の李一族など
北朝以来の貴族勢力である
関隴集団=長安付近に土着した
鮮卑系貴族、陝西省・甘粛省の
↓↑ 出身貴族を一掃された
貴顕中の
貴顕とされる一族の門地
609年
父の死後
異母兄の
長孫安業
と折り合いが悪く
母方の伯父の
高士廉
を頼った
長孫無忌は
学問を好み、
文章
史書
に通暁
617年
唐の高祖
李淵
が
太原で起兵して
長安を奪うと
長春宮で謁見を受け
渭北道行軍
典籤・・・・・典籤=文書の処理係
↓↑ 籤=くじ・おみくじ・ふだ・占いのふだ
抽籤・当籤
うらなう・ためす
かずとり・ものを数えるときの竹の棒
くし(串)・物をさし通す竹ぐし
↓↑ 籤=ひご=肥後・庇護・蜚語・卑語
熊本 卑弥呼
流言飛語・流言蜚語=根拠のない情報、風聞
牙籤(ガセン)・抽籤(チュウセン)
↓↑ 当籤(トウセン)
に任じられ
李世民
の征戦に従軍
比部郎中
に累進
上党県公
に封ぜられた
626年
玄武門の変
房玄齢
杜如晦
らとともに
襲撃の計画を定め
李世民が皇太子となると
その功績により
太子左庶子に昇進
太宗(李世民)の即位後、
左武候大将軍
627年
吏部尚書・・・式部卿、参議・文官の長官
吏部(りぶ)は六部の一
文官の任免・評定・異動などの人事を担当
後漢のときに吏曹が設置され
尚書常侍曹と改められた
魏晋南北朝時代より吏部と称され
隋唐、五代十国では
尚書省のもとで六部の首位
に置かれた尚書は長官
に転じ
功績第一として
斉国公に進封
唐の元勲・外戚として礼遇を受け
内廷に自由に出入りできた
同年
尚書右僕射・・・右僕射=右大臣の唐名
↓↑
唐は
突厥の
頡利可汗・・・・・・・頡利・・・蒼頡は漢字の発明者
歯通目医者?
と盟約を結んでいたが
突厥の内紛にともない
突厥を
攻めるように
勧める臣下が多くなり
太宗は
蕭瑀
と
長孫無忌
に突厥に対する政策を訊ね
蕭瑀は
「攻撃するのがよろしい」
と答え
長孫無忌は
「来るのを待てばよろしい
(盟約をこちらから破る必要はない)」
と答えた
太宗は長孫無忌の答えに
「善し」としながら
実際には兵を出して
突厥を攻め取った
↓↑
長孫無忌の権寵が重すぎ
これを抑制するよう
進言する者もいたが
太宗は
長孫無忌を信任して重用
長孫無忌は
諸臣の嫉視をおそれ
長孫皇后を通じて
太宗に働きかけ
僕射
の地位を退き
開府儀同三司
となった
633年
司空・知門下尚書事
に任命され
これを断った
高士廉
は外戚が
三公の地位にあることはよくないと
進言したが、
太宗は
長孫無忌を
司空とすることにこだわったが
長孫無忌が固辞し
太宗は許し
威鳳賦を作って賜り、功績を讃えた
趙州刺史となり、
趙国公に改封され
のちに司徒に進んだ
↓↑
643年
功臣として
凌煙閣・・・唐の中国統一に貢献した功臣24名
↓↑ 貞観十七年(643年)二月二十八日
唐の太宗が
西京宮城東北の凌煙閣に
画家の
↓↑ 閻立本に功臣の絵を描かせたのが由来
に列せられ
位は二十四人の中で筆頭
↓↑
太宗の長男で皇太子の
李承乾
が廃嫡され
第九子
(長孫皇后の子としては第三子)
晋王、李治
を皇太子とすることに成功
李治を後継ぎに推したのは
第四子
(長孫皇后の子としては第二子)
の
魏王、
李泰よりも
李治のほうが
長孫無忌にとって
御し易いという目論見から・・・
長孫無忌は
太子太師・同中書門下三品となった
同中書門下三品の地位は
このときに始まる
太宗によって
高句麗遠征(唐の高句麗出兵)
がおこなわれると、
侍中を兼ね
帰還すると、
太子太師を退き
揚州都督を遙領した
649年
太宗の臨終で
李治の後見と輔政を託され
高宗が即位すると
太尉に進み
中書令を検校し
門下省
と
尚書省
を領知した
三人の子はみな
朝散大夫・・・唐の従五品下の雅名
↓↑ 665年
唐の
朝散大夫-沂州司馬上柱国の
劉徳高が戦後処理使節として来日
3ヶ月後に
劉徳高は帰国・・・?
↓↑ 白村江の戦い(天智二年八月・663年10月)
天智天皇二年八月二十七日~八月二十八日
(グレゴリオ暦663年10月7日~10月8日)
(ユリウス 暦663年10月4日~10月5日)
663年癸亥
010月辛酉
↓↑ 004日戊申水曜日仏滅
となった
↓↑
武昭儀(武則天)が
高宗の男子を産んだため
これを皇后に立てる議論が起こったが
長孫無忌は
武氏立后に反対し
数度にわたって
高宗に諫言したが
高宗に聴きいれられず
655年
武氏が皇后として立后
657年
褚遂良
来済
らが謀反を誣告され左遷
長孫無忌は宮廷で孤立
659年
許敬宗
が
李奉節
らに指示して
朋党事件
をでっちあげ
その黒幕を
長孫無忌
として
高宗に訴え
高宗は
許敬宗の弁舌に説得され
長孫無忌の官爵を削って
黔州(貴州省)に流した
許敬宗
や
李義府
がさらに
彼の謀反を訴え
長孫無忌は配所で
首を吊って自殺
674年
官爵をもどされ
孫の
長孫元翼・・・長の孫の元の翼→翼の生えた虎=天武天皇
が爵位を継いだ
↓↑
長孫無忌は
唐律疏義
隋書
の編纂者
↓↑
伝記資料
『旧唐書』巻六十五
列伝第十五「長孫無忌伝」
『新唐書』巻一百五
列伝第三十「長孫无忌伝」
ーーーーー
讜=トウ・・・・・唐・問=とう=答・当・等
正しい言葉・よい言葉
道理に合う・正直である
そのような言葉・直言
讜
言+黨・・・・黨=党
言+龸+口+鄢
言+⺌+冖+口+鄢
言+龸+口+口+丷+礀+二+灬
「龸」の構成文字
学覚労栄営
龸=𦥯→學
龸=𤇾→螢
↓↑
党 堂 常 掌 棠 䟫 甞 當 裳 隚 嘗 嫦 賞
瞠 償 蟐 螳 糛 襠 礑 簹 鏜 蟷 鞺 黨 鐺
儻 鑜 鼞 鱨 讜 钂 牚 傥 礃 㒉 嚐 艡 㼕
憆 赏 䣘 擋 鏿 橖 镗 灙 饄 瓽 龦 嘡 罉
㜭 尝 谠 䉎 撐 鏛 樘 漟 瑺 鲿 儅 㗬 坣
譡 㽆 戃 蹚 䣣 攩 鐣 檔 闛 爣 饓 偿 矘
㑽 噹 膛 㦂 龸 幥 贘 撑 橕 镋 澢 璫 劏
㙶 壋 㿩 摚 鎲 曭 欓 闣
↓↑
党=龸+兄
當=龸+口+田=当
儻=トウ
あるいは・すぐれる・もし
すぐれる・すぐれている
棠=トウ・ドウ
からなし・やまなし
やまなし・からなし
バラ(薔薇)科の落葉小高木
「棠棣(トウテイ)」は
にわうめ(庭梅)
にわざくら(庭櫻・桜)
バラ(薔薇)科の落葉低木
「海棠(かいどう)」は
バラ(薔薇)科の落葉低木
常=ジョウ・・・尋常小学校
つね・とこ
つね・いつまでも変わることがない
つね・いつも・ふだん
あたりまえ・なみ・普通
はた
日月や竜などを描いた天子の旗
長さの単位
一常=尋(八尺)の二倍
とこ
いつまでも変わらない
永遠に変わらない
などの意を表わす接頭語
「つら・とき・ときわ・のぶ・ひさ・ひさし」
龸(𦥯)学(學)觉(覺)黉(黌)
单(單)弹(彈)婵(嬋)冁(囅)
页(頁)颜(顏)颌(頷)顺(順)额(額)
专(專)
传(傳)
转(轉)
ーーーーー
・・・???・・・
・・・六日間、「便秘」・・・奮闘の結果、時間をかけながら外に厭がるカタい「ウン」を押し出したが・・・その後はイツモの如く「下痢」・・・「黙秘・守秘・秘書・秘訣(ヒケツ)・秘策・秘事・秘術・秘蔵・秘匿・秘蘊(ヒウン)=秘奥・秘画・秘閣・秘巻・秘記・秘技・秘義・秘薬・秘録・秘話・厳秘・極秘・秘鑰 (ヒヤク)=秘鍵」は理解できるが、「便秘→便利な秘密?=通じが悪い=秘結(ヒケツ)→秘密に結ぶ」の意味が漢字から理解し難いが、「秘=とどこおる」で「便(たより・はこぶ・すなわち)・おとづれ(音信)」ですか、なるほど、「音ずれ=おなら・屁」か・・・「うんこ・うんち・糞・大便・排泄物」・・・「秘結の分類=熱秘、寒秘、燥秘、気秘」って、「肥料=こやし」の分類のコトじゃないのか、「秘密=ひみつ=碑視通」・・・それに「名のり」の「秘=なし・なみ・み・やす」も・・・「秘露 (ペルー・秘魯)」沖で沈没した船はお宝を積んでいたか・・・
財宝は秘密にしなくちゃぁネッ、「臍繰り(へそくりカネ)」・・・「臍=へそ=綜麻」、ヘソを繰って貯めたお金、「綜麻(へそ)=紡いだ麻糸の環状の糸巻き=苧環(おだまき)のカネ」?じゃぁないだろう。金を隠す場所は「三味線の二本溝の金ホゾ(鈉=きたえる・ドウ・ノウ・繋ぎの凸凹・蒂=へた)、棹の継ぎ手部分の二本溝に細工が施され、三味線の継部分のホゾに金に詰め込む・ホゾの雌の部分に金を埋め込み、三味線の激しい演奏や頻繁な分解組立にも狂いの生じないよう補強されたものを“金ホゾ”と呼び、銀を埋め込んだ銀ホゾがある」・・・ブラック(Black)・・・ダーク(Dark)・・・加計学園・ヤマモト・・・
昨日は「19:30・ダーウィンが来た・毒ヘビを狩る!田んぼの王者タガメ・美しい日本の里山で密着!・日本最大の水生昆虫タガメ。毒ヘビ(蛇・它)のマムシ(蝮・虺)を狩る決定的瞬間を初スクープ!さらに体を張って子どもを守り抜く父親の育メンぶりにも密着・絶滅危惧種の超貴重な雄姿」・・・
↓↑
敢て「負けてやるコト」も「人間」はするが・・・「弱肉強食の自然界の生き物」にはそんな道理は通用しない・・・人間社会も先の利害関係、予想損得のリスク(risk)での勝負の駆け引きでの「一時的な負」カモ・・・怨(恨)みの勝ちに拘るのは「臥薪嘗胆」だろう・・・若いころ食堂のTVで相撲の取り組みを観ていたが、その結果を観ていた客が「アレは人情相撲だ」と云っていた・・・
「道理」が通らないのは「阿倍内閣」か、「文部省」か?・・・「前川」氏か?・・・で、「道理」では動かないと歌う歌手は「前川キヨシ(清)」か?・・・
↓↑
コンピュータは「アトム」になれるのか・・・「スカンク・草井」に訊いてみたい。時間的にドチラが「正義=善至上主義(性善説)」としての存在に達するのかを、「人間」か、「ロボット」か?・・・
「NHKスペシャル・人工知能・天使か悪魔か・人工知能による電王戦を読み解いていく。人工知能が人間の知性を越えつつある今、それは、未来社会を暗示するものとなった・驚異の進化を遂げる人工知能が、いよいよ私たちの社会に登場している・・・」・・・本日のニュースでは「量子コンピュータ」を報じていたが・・・
「人工知能が人間の知性を越えつつある」との、その「超越」とは「記憶力」と「判断力(加減乗除・計算上の結論を出す速さ)」なのか・・・「IS」はそれらの「計算」で「割り切れない数字」をどのように判断するんだか・・・割り切れない小数点以下の数字の境界線・・・「四捨五入」・・・「答えは一つしかない」・・・その「判断」を、ヤッパ「人間社会の行動の選択に持ち込む」んだろう・・・世界は何事も「相対関係」で「動的存在」として底存在としてもバランスの拮抗、崩壊の繰り返しをしてんだから・・・「一元」だけでは存在しない・・・動きは「二元」から始まる・・・OR 「全体」での蠢きで、その枠内での「~始終~終始~始終~」・・・
「韓国の実験」では「政治権力の判断とその実権命令、実行(?)をISのプログラムに委ねる研究」がサレテイルとか・・・
↓↑
「サイエンス・ゼロ」・・・「アンモニウムの生成と燃料化」・・・すごいね、研究者・・・
アンモニウムの名は、「エジプトのアモン神殿の近くからアンモニウム塩が産出した事による・ラテン語の sol ammoniacum(アモンの塩)が語源・・・以前にも化石の「アンモナト(ammonite)=菊石」で言及したカナ・・・アンモナイトの隔壁は殻の本体と接する縁の部分で複雑な襞(ひだ)状に折れ込んで、殻の内面に現れた隔壁と接する縫合線 (Suture Line) の形状が明確で、後代のものほど複雑になっており(一部例外あり)、分類学上重視される形質の一つで、縫合線が菊の葉のような模様を描き出している・・・
この「縫合線」が「菊の葉」のような模様に見えるので「菊石」と云われる。
↓↑
「菊花石」、「母岩の中に放射状の模様があるキクの花に見える石で花形の色は純白、青、紫、黄色等。花形の大きさは直径数cm~20cmが多いが、数mm~1m。花形も基本的には一点から放射状に線が走る石模様」の「岐阜県本巣の根尾谷の菊花石(きっかせき、chrysanthemum stone)」は「菊石(アンモナイト)」とは別物・・・
↓↑
以下はボクが知らなかった「おハナシ」で、原文の部分抜粋の添付記事で、少々改作して・・・勝手に添付してモウシワケナイです・・・
原文は
「やすこちゃんの日記」
http://d.hatena.ne.jp/yasukochan/20130901/1378005299
や、
http://yogokanko.jp/node/61
http://www.biwa.ne.jp/~okumura/legend/HTML/13.html
等々から
↓↑
「菊石・・・余呉湖の菊石姫、蛇の目玉石の物語」?
↓↑ ナゼ、「余呉」なんだか?「呉の余り」
余呉湖特産のナマズは「岩床鯰」らしい
↓↑ Cat(猫)-fish(魚)=岩床鯰
↓↑ なまず(鯰・鮀・魸)=キャットフィッシュ
↓↑
「弘仁二年(西暦811年)・・捌百壱拾壱(十一)・辛卯年
↓↑ 一月陸奥に和我・斯波・稗縫
の3郡を置く
・・・「和の我・斯の波・稗を縫う」
↓↑
十月征夷将軍
文室綿麻呂ら戦果を報じ
蝦夷の移配を要請
・・・「文(ふみ・あや)の室(むろ)の
綿(わた・糸+白+巾)の
麻(あさ)の
呂(せぼね(背骨)・長い・音階のロ
リズム・おと・とも・なが・ふえ」
↓↑ ↓↑
誕生
↓↑
大江音人=公卿・学者(~877年)
・・・「音人(おとんど・おとひと・オンジン)
~元慶元年十一月三日(877年12月15日」って?
「音のヒト」=音楽家?
↓↑ ↓↑
伴善男=公卿(~868年)
・・・「伴(とも)の善男(よしお)」って?
「善緂訴訟事件=承和十二年(845年)
法隆寺の僧侶・善緂が、同寺の壇越である
少納言「登美-直名」を寺財の不当売却と
その利益押領の廉で告訴し、6名の弁官のうち
5名の弁官が遠流刑と判決
これに対し
承和十三年(846年)
6名の弁官の一人であった「伴善男」は
審議に参加せず、違法行為で5弁官は
善緂のために「私曲」して
「登美-直名」を無理やり有罪にしたとして
同僚の他の弁官5人を告発し
弾劾処罰した」
↓↑ ↓↑
死去
六月十七日(弘仁二年五月二十三日)
坂上田村麻呂
大納言兼右近衛大将兵部卿
武官(~758年)
・・・「坂上田村麻呂」の
黒人説をウイッキペデア
で視たのはお初である・・・
「やすけ(信長の家臣・従者)」と
↓↑ 関係は無いのか?
の春の終わり
都の
御所の
落人・・・・・・・・平家の落ち武者?
桐畑太夫が下人を連れ
切畑口へ移り、
住んでいた
桐畑太夫に一人の
美しい娘が産まれた
娘に
菊石姫と名付けて可愛がった・・・
七、八歳のころに
身体に
「蛇の模様」が現れはじめ
次第にその模様は広がり
身体も
「蛇形」になっていった
太夫は東北の
屋賀原という所に
仮家を建てて、
娘を捨てたが
乳母が哀れみ養育した
菊石姫が
十七、八歳になった夏、
川並村は・・・川(かわ・セン)並(ならぶ・ヘイ)村(むら)
長い日照り続きで
雨は降らず
村の作物は
旱魃で全滅しそうになった
菊石姫が、
仮家から外に出て、
湖の傍に立ち
湖面を眺め、乳母に
「今から、私はこの湖の主になり、
雨を降らせて、村人を救う」
と言い、
菊石姫は湖へ身を投げ・・・投身(トウシン)→答申・灯芯
湖へ身を投げた
菊石姫の体
龍の体に変身、
菊石姫は
片目を抜き取って、
「竜の目玉は
金や宝石では
買えるものではありません
大切に」
と乳母に渡した
湖に沈んだ後、
空は黒雲に覆われ、
稲妻が荒れ狂い、
大粒の雨が激しく降っきた
菊石姫の
「竜(龍)の目玉」は
流行病の人が
舐(嘗)めると、・・・舐=舌+氏・嘗=龸+口+旨(ヒ日)
病は癒えた
お上に知れ、
上使は乳母に
「竜の目を
お上に差し出す様に」
と命令
竜の目玉をに差し出した
さらにお上は
「竜は目玉を二つ持っているはず
もう一つも差し出せ」
と・・・
乳母は
経緯を詳しく話したが
上使は聞き入れず
「おまえは、隠している」
と、上使は乳母を激しく責め立て続けた
乳母は
「少し時間を下さい」
と、余呉湖に帰り、
新羅の森の傍の湖岸にきて、
「菊石姫」
と大声で叫ぶと
湖の沖の方の水が盛り上がり、
菊石姫が現れ、
水を左右に掻き分け岸に向かって来た
「なぜ私をよんだのか?
何があったのか?」
と
乳母はこれまでの事を
菊石姫に詳細に話した
「もし、私がもう一つの竜の目玉を
持って帰らなければ、
水攻火攻で殺されてしまいます
どうかもう一つの目玉を下さい」
乳母は菊石姫に願った
「昔、育ててもらった
恩は広大です
私は両目を失っても
命に別状はない
しかし、
そなたは竜の目玉を持って
帰らなければ殺されてしまう
私のもう一つの目玉をあげましょう」
と言って、目玉を引き抜き、
湖から岸に向かって投げ
目玉は岸辺の石の上に落ちて、
その石の上に目玉が載った
後
「蛇の目玉石」と呼ばれた
菊石姫は乳母に言いました。
「私はこの様に醜い姿になり、
そして暗闇同然の中で
時を知る事が出来なくなった
桐畑太夫に、
湖の四方に
鐘楼を建てて・・・弥生時代の
「銅鐸」は水害祭器か、旱魃祭器か?
あるいは
「山賊・海賊・野党」接近の警告器か?
あるいは
「兵隊(国家武装集団)」接近の警告器?
時を知らせる
鐘を撞く様に伝えて」
と言って、
菊石姫は傍の石を枕にして、
目を引き抜いた痛みが治まるまで、
そこで休み
痛みが引くと、菊石姫は乳母に
「私はこの様に醜い姿になった
後はどんな事があっても私を呼ばないよう
もし私に逢いたければ、
この石を見なさい」
と、今まで枕にしていた石を指し
後、湖の底に潜って行った
石は
新羅の森の水辺の大きな
椎の木の下の水の中に在り
大きさは、
長さ三尺余、
横一尺ばかり
干ばつにならないと見る事は出来ない
石は
「蛇の枕石」
と呼ばれた
竜の目玉を
地頭を通じて
お上に差し出した乳母は事無きを得た
この話を聞いた
菊石姫の母は、
娘を不憫に思い、
病の床につき、他界
桐畑太夫は、
妻を余呉湖が良く見える高台に葬り
葬儀が終わった
切畑太夫は、気力を無くし、
菊石姫の事が案じられ、
乳母から聞いた娘の頼み事を実行すべく、
新羅森の傍に一社、
三町余り北の上野森に一社、
東北の蓮法寺に一社、
二町南の智者寺に一社、
三町余離れた
加子森に一社、
五町ばかり
南の黒森に一社、
五町南の黒山の一社
を入れ、
余呉湖の周囲の
七つの森に
鐘楼を建て
それを撞かせた
菊石姫が余呉湖の主となって以来、
余呉湖は暗い湖と呼ばれ、
水は青く澄み切っているが、
どんな晴天の日でも
湖の底を見る事は出来なくなった
干ばつの年に村人が菊石姫に雨のお願いをすると、
菊石姫は必ず雨を降らせてくれました。
村人はお願いの為
菊石姫の身代わりの
「蛇の枕石」
を湖から新羅の森に運び、
「蛇の枕石」
に水を掛けながら
雨乞い歌に合わせて
雨乞い踊りを踊り
「蛇の枕石」
の周りを回った
必ず菊石姫は雨を降らせた
以来
どんな旱魃の年でも
余呉地方は不作の年が無くなった」
↓↑
「アンモニア (ammonia) =NH3)で表される無機化合物
常温常圧では無色の気体
特有の強い刺激臭
水に溶ける、水溶液(アンモニア水)として使用
化学工業では基礎的な窒素源として重要
生体において有毒
↓↑
「地球ドラマチック・飛べない巨人・ダチョウ・地上最大の鳥、ダチョウ。飛ぶことはできないが、歩幅は8mと走り幅飛びの世界記録並みだ。砂漠の過酷な環境で生き残るために巧妙な戦略に満ちたダチョウの生態」・・・
↓↑
「タガメ(田鼈、水爬虫)
カメムシ目
コオイムシ科
に分類される昆虫の一種
日本最大の水生昆虫
日本最大のカメムシ(半翅目)
背中に
高野聖が笈(おい)を
負ったような斑点があるので
高野聖
とも呼ばれ、
食用に用いる地方もあった」
「肉食性で、
魚(まな・うお)
蛙(かえる)、
他の水生昆虫などを捕食
時には
蛇(へび)
亀(かめ)等の
爬虫(ハチュウ)類や
鼠(ねずみ)
等の小型哺乳類をも捕食
鎌状の前脚で捕獲し
針状の口吻を突き刺し
消化液を送り込み、
消化液で溶けた液状の肉を吸う
(体外消化によって肉を食べている
タガメに食べられた生物は、
骨と皮膚のみが残る)
自分より
大きな獲物を捕らえることが多い」
ーーーーー
・・・
・・・歯の悩み・・・六月二十二日(水曜日)、歯医者さんで左下の奥歯と犬歯に被せられ、抜けた二本の歯の空間を繋いでいた金属ブリッジをハズしてもらった・・・「糸切り歯=犬歯」って「犬歯=ケンシ=剣士」、「前歯(ゼンシ)・奥歯(オウシ)」、「大臼歯(ダイキュウシ・おおウスば)・小臼歯(ショウキュウシ・こウスば)」、「親知らず」、「永久歯」・・・「臼(キュウ)=うす=碓(タイ)」・・・「尚歯会(ショウシカイ)=主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)」・・・「高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨」、「シーボルトの鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成」・・・「尚歯会」は「鳥居耀蔵(南町奉行)」によって「蛮社の獄・天保十年(1839年)五月」の弾圧で潰された・・・前兆は「文政七年(1824年)五月二十八日・大津浜事件・水戸藩領の大津(北茨城市大津町)の浜にイギリス人12人が上陸水戸藩(家老、中山備前守の役人)が尋問し、彼らを船に帰した」・・・そもそも「尚歯会」とは「尚歯=尚は尊ぶ、歯は年歯、年齢、老人を大切にし、敬うこと、敬老」で「尚歯会は、最高齢の主人を含む七人の高齢者が招かれ、あるいは集まり、詩賦、あるいは和歌を作る、音楽歌舞の遊宴」で、7人は「七叟」と、その他は「垣下」といって相伴した。もとは845年、中国(唐)で白居易が催した故事が起源」・・・
再思考=サイシコウ=再試行・再施行・再志向・再施工・・・
ーーーーー
歯(は・シ・tooth)
口腔内にある咀嚼のための
一番目の器官
人体でもっとも硬い
↓↑
永久歯
6歳頃から生え始め
永久歯は大きく
切歯
犬歯
小臼歯
大臼歯
の4種類
上下合わせて
28本
親知らずを含めると
32本
↓↑
切歯は
中切歯
側切歯
の
2種類上下
計8本
↓↑
犬歯は上下計4本
↓↑
臼歯は計20本
存在
小臼歯(第1小臼歯・第2小臼歯)
大臼歯(第1大臼歯・第2大臼歯・第3大臼歯)
に分けられ
乳歯の脱落後に生えてくる
中切歯~第二小臼歯
までを
代生歯(第二生歯)
とよび
乳歯の存在しない
大臼歯を
加生歯と呼ぶ
第1大臼歯(6歳臼歯とも呼ばれる)
から生え始め
後、徐々に生え替わっていく
大体
13歳頃には
前歯から
第2大臼歯までの
28本が生えそろう
第3大臼歯は
生えてくるのが遅く
生えてこない事もあり
「親知らず(知歯=智歯)」
ともよばれる
↓↑
上顎
上顎中切歯
上顎側切歯
上顎犬歯
上顎第一小臼歯
上顎第二小臼歯
上顎第一大臼歯
上顎第二大臼歯
上顎第三大臼歯
↓↑
下顎
下顎中切歯
下顎側切歯
下顎犬歯
下顎第一小臼歯
下顎第二小臼歯
下顎第一大臼歯
下顎第二大臼歯
下顎第三大臼歯
↓↑
人間による動物の歯の利用
狩りで捕らえた
マンモスなど
大型動物の歯を
槍や鏃、斧などに加工し利用
鋭い歯は
そのまま
ナイフとして用いられた・・・らしい・・・
ーー↓↑ーー
ギリシャ神話
オリオンの犬
シリウス(Sirius)
ラテン語の「光輝くもの・焼き焦がすもの」
ギリシャ語の「セイリオス(Seirios)」が語源
大犬座α星 (α-CMa ) の固有名
ーー↓↑ーー
「オシリス(Osiris)」
「オシリス=古代エジプトの主神の一
冥界の神
イシス(Isis) の 夫
古代名
ウシル・ウセイル
ギリシア名
オシリス
イウ・ス=イルス
ウン ・ネフェル(顔美しきもの)
エジプト史上で最初のミイラ化された人物
死者は
オシリスと同化することによって
第二の生を歩むことが出来る・・・
(ギリシャの歴史家プルタルコスの説)
ーー↓↑ーー
メジェド(Medjed)
オシリスに関連
「死者の書」において言及される神
崇拝されていた「魚」の一種である
死者の書の第17章
メジェド(打ち倒す者)
の言及がある
「私はそれらの中で
打ち倒す者の名を知っている。
それはオシリスの家におり、
目によって撃ち、
姿は見えない」
(ウォーリス・バッジによる
古い翻訳における該当箇所
第17章はアニのパピルス
ネプセニのパピルス
からの翻訳・・・原典がどちらかは不明・・・
「願わくは(死者の魂を害しようとする)
彼等の刀をして
決して我を支配せしめざらんことを。
願わくは
我をして
彼等の残忍の機械下に陥らしめざらんことを。
何となれば
我は彼等の名を知ればなり。
而して
我はオシリスの家に住う
彼等の中に居て、
己の眼よりは
光を放ちながら、
而も他には見らるることなき
マアチェトなる者(打ち倒す者)を
知ればなり。
彼は天を巡囘するに、
己れの口より出ずる
焔を着用し、
ハアビ(ナイルの神)を命令しながら、
而も他に見らるることなし。
願わくは我をして
此世に於て
ラアの前に強からしめ給わんことを。」
ーー↓↑ーー
「メジェド」
古代エジプトの
オクシリンコス
において崇拝されていた
モルミルス科の一種
この「魚」は、
「オシリス」が
「セト」によって
バラバラにされ肉体をばらまかれたあとで
その陰茎を食べた・・・
上エジプトの居住地のひとつである
ペルメジェド(Per-Medjed)は
この魚が由来であり、
現在ではギリシャ風の
「オクシリンコス」・・・
「奥尻島=おくしりとう=於句字理訳得」?
という名前で知られている・・・
この魚は
ナイル川では広く見られる中型の
「淡水魚」
エジプトやほかの絵画において描かれ
「モルミルス」の一部の種は
下向きに曲がった独特の吻を持ち、
これは魚類学者や愛好家からは
「エレファント-ノーズ」
という名前で呼ばれている
ーー↓↑ーー
エレファントノーズフィッシュ
(学名Gnathonemus petersii)
アロワナ目モルミルス科
モルミルス亜科グナソネムス属
に属する魚の一種
ナイル川流域などに生息
最大全長20cm
「ゾウの鼻」に見立てられている
特徴的な突起は実際には鼻ではなく
下あご部分が突き出したもの
この長いあごを持った吻部は
餌をとりにくそうな形をしているが
水底が泥状の場所に生息しているためで
餌となる泥の中の生物を
捕食しやすい・・・
発電をする魚
尾柄部に
発電器官
を持っていて
微弱な電流を流して
レーダーのように使用・・・
電場を知覚するため
その脳は大きく
身体に対する脳の重量比率は
3%ほどで、2%前後の人間を上回る
脳による
酸素消費量の割合は
60%ほどにもなる
これは
一般的な脊椎動物の
脳酸素消費量2~8%
人間の約20%という
数字を大きく超えるもので
脊椎動物中で最大
これは変温性によって
酸素消費を抑えた身体に
きわだって
大きい頭脳を持つことによる・・・
ーー↓↑ーー
「オクシリンコス」において
神聖な
「メジェド」・・・「目(女・馬)字得度」?
として知られている種は
「モルミルス」・・・「モルみる素・摸留見留須」?
漏る視る州(簀・生け簀)?
の典型的な特徴を多くもっている
長い臀鰭、
小さな尾鰭、
広く大きな
腹鰭と胸鰭、
それに長く下向きに
曲がった吻など・・・
兎に角
「突き出した鼻」が
「象の鼻」のように見えるので
この名前が付いた・・・
「鼻」から生まれたのは
「須佐之男」
「素戔男尊・素戔嗚尊等」
「建速-須佐之男命」
「須佐乃袁尊」
「神-須佐能袁命」
ーー↓↑ーー
古事記
伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)が
火の神
軻遇突智(迦具土神・かぐつち)
を産み陰部に火傷を負って
病に臥せ亡くなる
その際にも
尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ
そして「黄泉の国」へ
その妻を追って
黄泉の国で
伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)
は妻に会うが
醜くなった妻から逃げ出し
追いかけてくる
八雷神(やくさのいかづちがみ)
黄泉醜女(よもつしこめ)
に
髪飾りから生まれた葡萄
櫛から生まれた筍
黄泉の境に生えていた
桃の木を投げ
黄泉国と地上との境である
黄泉比良坂(よもつひらさか)
の出口を
大岩で塞ぎ
黄泉の国から
やっと帰還し
日向の
橘の
小戸の
阿波岐原
で禊を行い
鼻を濯いだ時に
産まれたのが
左眼から天照大神(高天原)
右眼から月夜見尊月読命(夜)
鼻から建素戔嗚尊速(海原)
三貴子にそれぞれ
高天原・夜・海原の統治を委任し
「故其伊耶那岐大神者坐-淡海-之-多賀也」
に隠居
(阿波岐原=江田神社・宮崎市-阿波岐原町)
延長五年(927年)に編まれた
「延喜式神名帳」では
近江の多何神社(多賀大社)は小社
「近江国
犬上郡・・・ナゼ、「犬上」なのか?
↓↑ 犬上御田鍬=推古、舒明天皇時代
小野妹子遣隋使のあとを
継ぎ
推古二十二(614)年
矢田部造らとともに
遣隋小使として中国へ派遣
翌推古二十三(615)年、百済使を伴って帰国
舒明二(630) 年、大仁薬師-恵日とともに
再び派遣。最初の遣唐使
二年後、唐太宗の使者の高表仁に送られ
学問僧、霊雲・僧旻・勝鳥養
新羅送使らとともに帰国・・・
「犬上三田耜」とも書く
景行天皇の庶皇子の子孫
ヤマトタケル血統・・・
ーー↓↑ーー↓↑ーー↓↑
↓↑「大犬座=神の犬=ライラプス
=オーリーオーン=オリオン
(海神ポセイドーンの子
キオス島の王
オイノピオーン=Oinopiōn(酒顔)
に泥酔させられ
両眼を剔られて盲目にされ
両目は海岸に捨てられた)
の
足元の
猟犬(Canis Major)で
ウサギ(座)=アルネブ・Arneb
Lep・α Leporis
を追いかけている」
↓↑ ↓↑
セイリオス=シリウス=天狼星
の上(北)には・・・?
アトラースの娘
プレイアデス七姉妹
白い7羽の鳩に変身
昴(すばる)・・・
↓↑ ↓↑
オリオンとアルテミスは恋に落ちるが
アルテミス(月神)と
双子の
兄、アポロン(太陽神)に唆されて
彼女自身が
オリオンを射殺してしまう・・・
殺された理由は多数あるが
青年期の「発情」・・・
オイノピオンの娘である
メロペ(Meropē)に求婚
曙の女神「アウローラ」への恋
↓↑ 乙女「オーピス」への暴行
多何神社
二座」と記載
「淡路島の伊弉諾神宮」は
延喜式神名帳では
明神大社であり格が違う・・・高い?
ーー↓↑ーー
日本書紀
伊弉諾尊
と
伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)
の間に産まれ
「天照・月読・蛯児」
の次に生まれた・・・
統治領域
「天照大神は天(高天原)」
「月読尊は天、滄海原(あおのうなばら)
または夜」
「素戔嗚尊は夜の食国(よるのおすくに)
または海原」
『古事記』によれば
建速須佐之男命はそれを断り
母神
伊邪那美のいる
根之堅洲国
に行きたいと願い、
伊邪那岐の怒りを買って追放
そこで
母の故地、
出雲と伯耆の
堺近辺の
根の国へ向う前に
姉の天照大神に
別れの挨拶をしようと
高天原へ上るが
天照大神は
弟が攻め入って来たのではと思い
武装して応対し、
二柱は
疑いをはっきり究明するために
誓約(うけひ)を行う。
我の潔白が誓約によって証明されたとして
高天原に滞在する
建速須佐之男命だったが、
次々と粗暴を行い、
天照大神はかしこみて
天の岩屋に隠れ
彼は
高天原を追放
出雲の
鳥髪山(船通山)へ降った
建速須佐之男命
その地を荒らしていた
八岐大蛇(八俣遠呂智)
に生贄にされそうになっていた
櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)
と出会い
建速須佐之男命は、
櫛名田比売の姿形を
歯の多い
櫛に変えて
髪に挿し、
八俣遠呂智を退治
八俣遠呂智の
尾から出てきた
草那芸之大刀(くさなぎのたち・草薙剣)
を天照御大神に献上
古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる
(愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体)
その後、
櫛から元に戻した
櫛名田比売を
妻として、
出雲の
根之堅洲国にある
須賀(すが)の
地(中国・山陰地方・島根県安来市)
へ行きそこに留まった
ーー↓↑ーー
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐
都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流
曾能夜幣賀岐袁
(古事記)
ーー↓↑ーーーー↓↑ーー
夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐
菟磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧
贈廼夜覇餓岐廻
(日本書紀)
ーー↓↑ーー
八雲立つ 出雲八重垣
妻籠に 八重垣作る
その八重垣を
やくもたつ いずもやえがき
つまごみに やえがきつくる
そのやえがきを
と詠んだ。
これは日本初の和歌・・・
また、ここから
「八雲」=「出雲を象徴」する言葉
大国主命
(日本書紀では大已貴神(おおあなむちのかみ)
古事記では大国主命は
彼の六代後の子孫)
ーー↓↑ーー
『日本書紀』
八岐大蛇
一書第四
天から追放された
素戔嗚尊は、
新羅の
曽尸茂梨(そしもり)に降り、
この地吾居ること欲さず
「乃興言曰 此地吾不欲居」
と言い息子の
五十猛神(いそたける)
と共に
土船で東に渡り
出雲国
斐伊
川上
の
鳥上の峰
へ到った
(遂以埴土作舟 乘之東渡
到出雲國簸川上 所在 鳥上之峯)
後、
八岐大蛇を退治
ーー↓↑ーー
一書第五
木がないと
子が困るだろうと言い、
体毛を抜いて
木に変え、
種類ごとに用途を定め、
息子の
五十猛命
娘の
大屋津姫命(おおやつひめ)
枛津姫命(つまつひめ)
に命じて
全国に植えさせた・・・
ーー↓↑ーー
大国主
根の国の
須佐之男命の元にやってきた
葦原色許男神(あしはらしこを、大国主命)
は
須佐之男命の娘
須世理比売(すせりひめ)
と互いに一目惚れし
須佐之男命は
葦原色許男神
に様々な試練を与え
葦原色許男神は
須世理比売
の助けを得ながら克服し
須佐之男命は
葦原色許男神に
須世理比売
を妻とすることを認め
大国主という名を贈った・・・
島根県松江市
熊野大社で
祭神を
「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
(いざなぎのひまなこ
かぶろぎくまのおおかみ
くしみけぬのみこと)」
を「スサノヲの別名」としている・・・
ーーーーー
・・・現在でも島根県安来市には日立金属安来工場や冶金研究所などが日本刀剣美術協会とともにこの地域で古式にのっとったたたら製鋼を行うことでも有名・・・らしい・・・
・・・「老人」が尊敬、畏敬される必要もないと思うがネッ、社会的な「老害」は甚大だろうが、イキテイル限りは「平等」ではないが、「老若男女」は「法的公平な立場」にはアルハズだが・・・「尚歯会」は「老人の会」ではない。ましてや「敬老の会」ではなかった。「1833年(天保四年)~1835年~1837年にかけて最大規模化し、1839年(天保十年)まで続いた」・・・「大塩平八郎の乱(天保八年二月十九日・1837年3月25日・丁酉(庚辛)年・癸卯(甲乙)月・丁卯(甲乙)日」・・・「天保の飢饉対策の会合?」、「モリソン号、幕藩鎖国体制のに対する国策の会合?」・・・兎に角、今年は「丁酉(庚辛)年」である・・・飢饉が他人事と思うなョなッ・・・本日は、
年2017 34 丁酉(庚・ ・辛)
月0006 43 丙午(丙・ ・丁)
日0024 19 壬午(丙・ ・丁)土曜日
だが・・・世界は脅しと、テロ、殺し合いの応酬である・・・
陽明学者の
大塩平八郎の左下に描かれているのは
「天球儀・渾天儀」である・・・彼は西洋天文学にも興味を持った・・・ナゼ?
ーー↓↑ーー
・・・「歯(止+米+凵)」が似ている漢字は「鹵(止+※+凵)=しお・塩分を含んだ痩(や・瘦)せ地・塩地・盬地・鹵田・かすめる・うばう・奪い取る・鹵掠(ロリャク)・たて・おおだて(大盾)・おろそか・軽々しい・粗鹵・おろか・頑鹵・下つき・鹹鹵(カンロ)・斥鹵(セキロ)・鹵(しおち) ・岩塩・塩鹹・鹵石(ロセキ)・奪い取る・鹵獲・大型の楯」・・・「鹵簿=行幸(行啓)のときの行列・儀仗を備えた行幸・行啓の行列」・・・「東方の沿岸部の塩鹹地を「斥」といい、西方の内陸部の塩鹹地を「鹵」と呼んだ」・・・
「塩漬けの刑」にされたのは「高橋景保」でもあったが・・・
「孔子の弟子、子路が反乱で落命し体を切り刻まれ、
塩漬けにされる刑罰を受けた(史記・孔子世家)」・・・
「塩辛=鹹・石鹸=鹸=鹼・濃塩=鹺・粗塩=鹻・盬」・・・
「※=こめじるし・米印)・星印と呼ぶこともある」・・・これって「X」に「四点(:‥)」・・・「※=:+X+‥」・・・「:=コロン」、「‥=二点リーダ」・・・「二点リーダ=『‥』=文章で沈黙や間をあらわす時に使う・基本的には「三点リーダ=『・・・』」を使用する・・・
「ellipsis(省略・完全な文から前後関係・常識などによって復元可能な部分を省くこと」・・・
「leader」は目次の項目とページ数を結ぶ際に用いられる」・・・「テンテンテン・てんてんてん=・・・」・・・
日本では、星印は「☆・★」が一般的。△と▽を合わせた「✡」を、籠目ないし、ダビデの星、六芒星と呼ぶ・・・
「*=アスタリスク(asterisk)=小さい星」=「放射線は6本で、2本の縦線と4本の斜め線からなる」=「短剣符(†、‡)同様、脚注を表すのに用いられる。この用途では、短剣符よりも優先して用いられる。脚注の対象となる字句の右肩に付し、同じ記号を脚注の項目のはじめに置く」・・・なるほど「短剣=タンケン=探検・探険・短見・旦見・譚建」であるカナ・・・
ーーーーー
歯=止+米(八十八)+凵・・・ナンでコメ(米・※・込め)?
齒=止+人人+一+人人+凵・・・𠆢𠆢+一+𠆢𠆢
𠆢=ひとやね・ひとがしら
発音=mǒu(モゥ・マァゥ)
「人」は
偏にあるときは「亻」
冠にあるときは「𠆢」となる
人=𠆢=ひとやね
人が上にある時の字形
「亼」=「人+一+α」
今・命・令・会・合
齿=止+人+凵
卤=止+乂+凵・・・乂=整理し治める
余計な部分を刈って整える
鋏(はさみ)
艸(くさ)を芟(か)る
4刃物や鋏の刃を
左右に
交差させて草木(カミ)等を
トリミング(trimming)する
口の中にあり
食物を噛(カ)み砕(クダ)く器官
ーー↓↑ーー
サガミ(相模)に噛みに噛みて
(古事記・和銅五年
正月二十八日
ユリウス 暦712年3月9日
グレゴリオ暦712年3月13日
壬子年
癸卯月
丁酉日・水曜日・仏滅)
サガミ(佐賀見)に咬みに咬みて
↓↑
(佐賀の乱)
↓↑
1874年(明治七年)2月
江藤新平・・・天保五年二月九日
(1834年3月18日)
生年1834甲午(丙丁)
生月0003丁卯(甲乙)
生日0018甲辰(乙癸戊)寅卯=空亡
~
明治七年(1874年)4月13日)
享年1874甲戌(辛・丁・戊)終了(おわり)
享月0004戊辰(乙・癸・戊)終了(おわり)
享日0013庚子(壬・ ・癸)完了(おわり)
愛国公党を結成し
島義勇らの
憂国党
佐賀征韓党の首領
となり反政府の乱を起こす
明治七年二月十一日・・・・・・・・佐賀へ潜入
1874 甲戌(辛・丁・戊)
02 丙寅(己・丙・甲)・・・・・・二・弐・貮・似・爾
11 戊戌(辛・丁・戊)・・・・・・十一・壱拾壱・壱足壱
明治七年二月十六(癸卯)日・・・・武装蜂起
高知県
安芸郡
東洋町
甲浦
で捕縛され佐賀へ送還
明治七年四月八日
急設の佐賀裁判所で
司法省時代の部下の
河野敏鎌によって裁かれ
四月十三日・・・・・・・庚子(壬癸)=偏官日・三合水
除族の上
梟首の刑
嘉瀬刑場において処刑
・・・歯軋りするほど残念、無念だったろうな・・・
↓↑
明治二十二年(1889年)
大日本帝国憲法発布・・・1889年(明治22年)2月11日に公布
↓↑ 年己丑(癸・辛・己)
月丙寅(己・丙・甲)
日丁巳(戊・庚・丙)子丑=空亡
1890年(明治23年)11月29日に施行
年庚寅(己・丙・甲)
月丁亥(戊・甲・壬)
↓↑ 日甲寅(己・丙・甲)
大赦令公布により
賊名を解かれる
↓↑
江藤新平=明治維新政府の
司法卿・参議を務めた
牛馬解放令=司法省達第二十二号
(娼妓解放令)
肥前国・佐賀郡八戸村生まれ
戊辰戦争で江藤は東征大総督府軍監
江戸鎮台長官の下の
六人の判事の1人の会計局判事
制度取調専務
フランス法を絶賛
ーー↓↑ーー
歯列・・・熾烈、猛烈、激烈・・・
歯のような形や機能をなすもの
「鋸歯(キョシ)」・・・「ノコギリの刃」
歯=よわい・とし・年齢
歯序・年歯
下つき・
齲歯(ウシ)=齲蝕=ウショク=虫歯
口腔内の細菌が
糖質から作った酸によって
歯質が脱灰されて起こる
歯の実質欠損のこと
歯周病と並び、歯科の二大疾患の一
齲蝕された歯は、齲歯(虫歯)と呼ぶ
齲蝕が進行して歯に穴ができること
義歯(ギシ)
臼歯(キュウシ)・鋸歯(キョシ)
犬歯(ケンシ)=切歯(セッシ)
=糸切り歯(鳥取弁)
「ネズミの糸切り歯と
代えてごしなれよう」
歯が抜けたた時の呪文
↓↑
前歯と臼歯の間にある
先が尖った歯
糸切り歯=裁縫の際に糸を引っ掛け
糸を切るのに使うので
犬歯=側切歯の遠心側に隣接する歯
上下顎それぞれに一対(計四本)
食物を切り裂くための歯
前歯部を構成する歯の一つ
犬で良く発達しているので
犬歯と言う
槍のように尖がっているので
尖頭歯とも云われ
牙(きば)である
歯列で側切歯の
遠心側に隣接する歯
前歯正中から
3番目にある歯で
3番とも
八重歯(やえば)=永久歯に生え変わる時
他歯に重なる様に
ズレて生えてしまった歯=添え歯
異常位置に生える犬歯
歯と歯が重なり
歯垢、歯石が溜まりやすくなる
乳歯(ニュウシ)
年
齟齬=ソゴ・上下の歯が噛み合わない事
ミスマッチ(mismatch)
「歯=齒
は・よわい・シ
歯科
歯牙 (シガ)
歯齦 (シギン)
義歯
犬歯
皓歯 (コウシ)・・白くきれいな歯並び
「明眸(メイボウ)皓歯」=美人の形容
唐詩人杜甫が作った
詩(哀江頭)の語
楊貴妃の美貌を形容した語
目はパッチリで
白い歯並びも整って・・・
宛転蛾眉・蛾眉皓歯
朱脣榴歯(シュシンリュウシ)
朱唇皓歯
曼理皓歯(マンリコウシ)
曼理=豊かな柔肌
木目の細かい肌
肌理(きめ・きり)
モノや肌の細かい模様
模様の具合によって
生じる滑らかさ・木目(もくめ)
切歯・乳歯・抜歯・門歯
年齢・よわい
「尚歯・年歯」
「歯茎・歯車・奥歯・虫歯」
↓↑
「は=口中で食物をかみくだくもの)」
「獣の牙(きば・ガ)」・・・歯牙(シガ)
・・・滋賀・志賀?
「ア」の形をした物?・・・国鉄ア3形蒸気機関車
鉄道省に在籍した
タンク式蒸気機関車
阿波電気軌道
1916年(大正5年)
(1926年阿波鉄道に改称)
「ア」に似た働きをするもの?・・・???
(歯車)・・・「ア形=歯車」って???ナニ?
「ア=呀=口+牙」=あ・カ・ガ=驚きの声?
「ア=了」?
「年齢(よわい)・年」
「よわいする
(年齢順に並ぶ、連ねる、並ぶ)」
「数・数える・年齢を数える」
「サイコロ・賽」
「たぐい(同じ種類)・仲間」
「記(しる)す・記録する」
「当たる・触れる」
「歯=齒
立ち止まる足の形と歯の形から
食物を銜(くわ)え止める
上下の「歯」
「齒=止+人人+一+人人+凵」
「歯=止+米+凵」
ーーーーー
・・・以下「ウイッキペデア」からの抜粋添付・・・
↓↑
「尚歯會(会)」・・・「江戸後期、飢饉の対策のために紀州藩儒遠藤勝助が主宰した会・のち、渡辺崋山・高野長英らが集い知識や情報を交換する会となる・1839年蛮社の獄で壊滅」・・・
↓↑
「貞観十九年(877年)
日本での尚歯会の最初の歴史
南淵年名・・・大同三年(808年)
↓↑ ~
貞観十九年四月八日(877年5月24日)
名前も生年月日、死亡月日も怪しい
もとは坂田朝臣だった
「南淵請安=推古天皇十六年(608年)
高向玄理、旻らとともに
隋へ留学し
中臣鎌足たちに
「周孔の教」を教えた
遣隋-留学生
↓↑ 推古天皇の十六年(608)九月
隋使・裴世清を送るため
小野妹子=蘇因高が再び大陸に派遣
摂政の聖徳太子は、渡来系氏族の
8人の若者を学問生・学問僧として
遣隋使節団に同行
請安が帰国
舒明天皇十二年(640)十月
高向玄理と共に新羅を経て帰国
在唐32年間の留学生活
南淵漢人(あやひと)など
と称される
漢系渡来氏族出身の知識人
↓↑ ↓↑
「南淵年名」
「南の淵」の
「年の名」・・・歯の名?
「埃及」・・・・赤道の淵、エジプト?
南淵朝臣・因幡権守、南淵永河の子
or
永河の兄である参議・南淵弘貞の子
子に良臣
官位は正三位・大納言
↓↑ ・・・ナゼ、「南の淵の永い河」なのか?
によってその山荘で行なわれた
「皇年代略記・陽成」に
「元慶元年三月
大納言
南淵年名
設二
尚歯会
宴一」、
「濫觴抄・下」に
「尚歯会
陽成二年
丁酉(貞観十九)三月
南淵年名 設」とある・・・らしい・・・「丁酉」?
「後、
安和二年(969年)三月十三日
藤原在衡によって
粟田山荘で(日本紀略、本朝文粋)
天承元年(1131年)三月(二十日とも二十二日とも)
藤原宗忠によって
白河山荘で(百練抄、長秋記、今鏡、古今著聞集)
それぞれ開かれ、
これらは白居易の先例にならって詩賦の遊宴」
であった・・・
「承安二年(1172年)三月十九日
藤原清輔によって
白河の宝荘厳院において催され
和歌の
尚歯会の最初
(百練抄、愚昧記)」・・・
「養和二年(1182年)
賀茂茂重が襲ね(古今著聞集)
以後、
尚歯会は
詩賦
と
和歌
に二分」・・・
「江戸時代になると
年賀の席で兼ねて行なわれ
また連歌、俳諧を交えても行なわれた」・・・らしい・・・
ーーーーー
・・・???・・・